06.いがいときずつきやすいいきものです
 遠くから、ピアノの旋律が聴こえる。

 ユウリの屋敷で、ディエゴに与えられた私室が一部屋ある。生活に必要な家具や洋服類、簡単な菓子や洋酒がそろえてあり、ユウリに呼ばれないとき、ディエゴはおおよその時間をこの場所で過ごした。

 生まれ育ったボロ家とも、今まで渡り歩いてきた男たちの、金の匂いがぷんぷんするような屋敷ともちがう。華美な造りでもなく、家具もシンプルだが、そこかしこに女の細やかな手入れが行き届いていて、過ごしやすい。

 外は快晴。
 …なのだが、屋敷のメイドが、朝取り替えてくれたベッドシーツの上、ディエゴはうつ伏せで拳を握り、怒りと痛みに打ち震えていた。

「あ…ンの、女ァァッ…!!」

 枕元に拳を叩きつける。シーツに沈んだ手首には、赤々とした捕縛の痕。わずかな振動が下半身に響き、昨晩、散々に痛めつけられた肛門が鋭く痛んだ。

『こうなるとわかっていて、私を犯したんでしょう?』

 それは報復だった。
 ディエゴは数日前、暴走し、ユウリを犯した。契約外の行為だった。けれど彼女は甘んじてその屈辱的な行為を受け入れた。
 因果応報。与えられた屈辱は、倍にして返す。報復を前提として、彼女はあの晩、ディエゴに犯され続けたのだった。

 昨晩の記憶―――いや、ディエゴにとっては傷、というべきか―――を思い出す。
 裸体を縄で縛られ、身動きが取れないでいるディエゴ。ひっくり返った蛙のような、間抜けな体勢でベッドに転がり、蝋でできた張り型を肛門に突き込まれる。慣らさないままのかわいた粘膜に、無機質なそれが挿し込まれたとき、あまりの痛みに壊れてしまうのではと錯覚した。事実、ディエゴの肛門はそのときに裂け、血を滲ませた。

『ディエゴ。あなたって本当に…馬鹿で可愛い』

 くすくすと転がるような笑い声。次いで、脚でぐりっと股間部を踏み潰される。あ゛、と、ディエゴの口から獣のような声が漏れた。

 そうして一晩じゅう責め続けられ、ユウリが満足した頃にはもう夜が明けていた。体液と血と傷とで、全身をべたべたにしたディエゴは、もはや、ベッドにその身を横たえることしかできないでいた。これは報復であり、制裁であり、調教なのだ。
 ユウリは「今日はピアノの調律師が来るんだった」と、なんでもないように言い、

「これに懲りたら、二度と私に逆らわないことね」

 そう、楽しそうに笑って、出て行った。
 ディエゴに芽生える、燃え上がるような怒り。同時に、あの女はタフすぎる、と恐ろしくもあった。



 ピアノの音色は、変わらず遠くから聴こえている。それがなんの曲なのか、ディエゴは知らない。

「ディエゴ、入るよ」

 数回、ノックがあって、屋敷のメイドが現れた。
 ユウリと契約を交わしてから、何度か顔を合わせたことのある、若いメイドだ。赤毛にそばかす。ディエゴがどういう役回りでこの屋敷にいるのか、彼女は知っていた。

「昼食だよ。奥様がアンタに持って行けってさ」
「ふん」
「服くらいちゃんと着なよ。いつ奥様からお声が掛かるか、わかんないだろ」

 奥様はそういうだらしないの、嫌いだよ。
 蓮っ葉な口調で彼女は続ける。彼女は、ユウリが不特定多数の情人を囲っていることは知っているが、嗜好までは知らないようだった。昨晩の責め苦を思い出し、ディエゴはフンと鼻を鳴らした。

「嫌いで結構。お前こそ、よくもまあ、あのビッチに服従できるな」
「奥様は立派な方だよ。お優しくて寛大で、生まれや地位よりも、才能を大切にしてくれるんだ」

「あたしも生まれは貧しかったけど、奥様に拾っていただいてから人生が変わったわ。ここは天国だよ。あたしは髪を結うのが得意なんだ。奥様はいつも褒めてくれる」
 なるほど、言われてみれば、ユウリはいつも複雑な髪形をしている。毎日このメイドが髪を結っていたのだ。

「だから奥様が何をしていようと、恋人が何人いようと、あたしたちはかまわない。ここに拾いあげていただいた恩があるからね」

 彼女の運んできたパンを、ベッドに寝転んだまま齧る。つまらない話だ。ユウリが大勢から慕われている話など、ディエゴにとっては本当につまらない。

 そんなディエゴの態度に気づいてか、メイドは「アンタね、」と非難するような視線を送る。

「天才ジョッキーだかなんだか知らないけど、あんた、油断してると飽きられるよ」
「飽きるだと?」

 思わず反芻する。

「そうさ。奥様は、恋には気まぐれで、飽きっぽいのさ。今はあんたにご執心のようだけど、いつまで続くかわかんないよ」

 奥様の恋人は何人も見てきたけど、半年も続いた人なんていないんだからね。
 と、彼女は続けた。すっかり味のしなくなったパンを、ディエゴは無理やり飲み込み、

「………バカバカしい」

 そう、吐き出すので精一杯だった。





 いつの間にか、ピアノの音は止んでいた。
 太陽が真上に登りつめたころ、ディエゴは外へ出ようと廊下を歩いていた。歩くたびに、ギシギシと全身が痛む。これでは当分、乗馬もできそうにない。
 乗馬の練習をするとき、ユウリは自分の所有する馬と敷地を、自由に貸し出してくれる。『お優しくて寛大』とは先のメイドの言葉だが、思い返してみれば確かに、性行為以外において、ユウリは寛容だった。

『今はあんたにご執心のようだけど、いつまで続くかわかんないよ』

 その言葉が、ぐるぐるとディエゴの頭を駆け巡る。
 ―――ユウリがディエゴに、飽きる―――
 頭の芯がひやりとした。それがなぜなのか、ディエゴにはわからなかった。胸の奥と後ろの穴がひどく痛んだ。



「……あっ…」

 かすかに、声が聞こえた。
 聞き覚えのある、忌々しい声だ。

(この部屋は…)

 わずかに開いたドアから、室内を覗く。
 見つけるより先に、ポーン、と大きく、ピアノの盤面が叩かれる音がした。

「あっ、あっ」

 全身が凍りついた。
 グランドピアノに背を預け、ユウリは衣服を乱し、組み敷かれていた。白く、長い脚が投げ出され、つま先はビクビクと震えている。
 ピアノの調律師は若い男だった。

 ―――ユウリが性に奔放で、ほかに男を囲っていることくらい、今さらだ。別に、どうということもない。

 そう思っていた。そう、理解していたはずなのに、ディエゴはいてもたってもいられず、その場から走り去った。自室に戻ると、朝と同じようにベッドに突っ伏し、ぜいぜいと荒い息を整える。

 先ほどの光景を思い出す。聞き慣れたユウリの声。
 自分とのセックスでなくても、ユウリはああいう声を出すのだと、ディエゴは今さら、思い知った。わかっていたのに。知っていたはずなのに。

「…クソ!!!」

 ぎゅっと拳を握り締める。
 手首には、縛り上げられた痕が生々しく残っている。手首だけではない。ディエゴの身体には、ユウリの傷がそこかしこに散らばっている。忌々しかったそれらが、ますます憎く、同時にとても泣きたくなるような…そう、愛おしく思えた。






 その日の晩。
 深夜二時を過ぎたころ、ユウリはディエゴの部屋を訪れた。いつもは『監獄』と呼んでいる部屋で、ふたり、行為に耽るのだが、今夜はその限りではなかった。

「ディエゴ。起きてる?」

 ノックもなしに現れたユウリを、狸寝入りでシカトする。

「起きてるでしょう」楽しそうに笑いながら、ユウリは毛布をばさっと引っぺがす。「待っていたくせに」

 この女は頭のネジが何本か抜け落ちている。
 演技とはいえ、眠っていたディエゴの寝巻きの胸元をひらき、間髪入れずに乳首を抓り上げた瞬間、ディエゴはそう確信した。この女は頭がおかしい。

「キサマ…」
「おはよう、ディエゴ」

 傷の具合はいかが?
 淑女らしい上品な笑顔で、ユウリは乳首をつまむ指先に力を込めた。

「あ゛ァッ」

 痛みから、ディエゴは腰を浮かせ、喘ぐ。けれど昨晩の仕置きが効いたのか、本気で暴れる気配はない。

「きれいな乳首。おちんちんとは大違い」

 そう言って、ピンク色の乳首に舌を這わせる。
 生意気な態度とは裏腹に、ディエゴの身体は素直で、敏感だ。
「…ッ」
 頭上にディエゴの熱い吐息を感じる。
 けれど、どれだけ乳首をねぶっても、男性器を撫でてやっても、吐息ばかりで声を出そうとしないディエゴに、ユウリは「なによ」と首を傾げた。

「まだ拗ねてるの。可愛くない」
「………」

 なおも口を噤むディエゴ。ふーん、とつまらなそうに言うと、ユウリは顔を上げた。濃いまつ毛に縁取られた、妖艶な瞳がディエゴを射る。
 つまらない。彼女にそう思われたのではと想像し、一瞬、震えた。おかしなことだ。自分からそんな態度を取っておいて、怯えるだなんて。

 きっと心のどこかで、特別、だと思っていた。自分だけは特別なのだと。
 ディエゴは大金を積まれ、彼女に買われた。どんな屈辱を受けても、身体のあらゆる部位を暴かれても折れなかったディエゴの心は、ユウリと第三者とのセックスで簡単にも折れてしまった。

 俺を買ったくせに。好きだと言ったくせに。俺の身体に、溺れたくせに。

「…お前には一生、わからねえぜ」

 絞り出すように、言った。今まで受けたどんな行為よりも、屈辱的だった。ユウリは一瞬、きょとんとしたが、なにか思い当たることがあったのか、「へえ」と、すぐにいつもの不敵な笑みをうかべた。

「そういう顔、するようになったのね」
「…何、言って」

 ディエゴの身体に馬乗りになったまま、ユウリが微笑む。

「あなたのこと、ますます愛おしくなった」

 優しい口づけ。
 飼いならすようなそれが、ディエゴはたまらなく悔しくて、けれど同時に、たまらなく、嬉しかった。




2019.02.26
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