05
 夢を見ていた。ブチャラティがまだ幼いころ、母とともに暮らしていたころの夢だ。
 ブチャラティは滅多に病気をしない強い子どもだった。それをむかし母親に褒められたことがある。
 けれど夢の中のブチャラティは病床に臥せっていた。体温の上昇した気怠い身体をベッドに横たえ、ぜいぜいと荒く息を吐いている。母親が心配そうに氷枕を取り替え、ブローノ、大丈夫、と手のひらを頬へとすべらせる。
 大丈夫。あのとき、ブチャラティは、母親を安心させようとそう言った。
 もう、大丈夫。ちっとも苦しくない。だから母さん、心配しないで。

 …本当は、すごく辛かった。幼かった彼にとって、ただの風邪でもその苦しみは果てしなかった。
 けれど、いつもより優しい母親の愛が嬉しかった。申し訳ないという気持ちもあれど、心配そうに自分だけを見つめる優しい瞳を恋しく思った。
 あのとき、母親が作った、くたくたに煮込まれた玉ねぎとパルミジャーノのリゾット。その味を、ブチャラティは今でも覚えている。

(―――母さん)

 ぷっつりと途切れていた意識の糸がふたたび結ばれる。ブチャラティの視界に映ったのは、自分の家でもアジトでもない、けれどまるで見知らぬというわけでもない生成り色の天井だった。

「…ユウリ…?」

 部屋の主の名前をつぶやくが、語尾はゲホゲホと咳にまじって掻き消えた。
 ゆっくりと、身体を起こしてみる。「う…」しかし、まるで鉛にでもなったかのように身体は重く、ブチャラティはふたたびベッドに沈んだ。
 額には、タオルで包まれた氷枕がのっている。随分と時間が経過しているらしく、氷はほとんど溶けて水になっていた。
 ぱたぱたと小さな足音が聞こえた。天井と同じ色をした扉が開かれる。「ブチャラティ」ユウリだった。その手には新しい氷枕が握られている。

「ブチャラティ。起きていたのね」
「ああ…」
「びっくりしたわよ。突然倒れこんじゃうんだもの」

 無理にも起き上がろうとするブチャラティを、ユウリはそのままで、と制止する。氷枕を取り替える手が額や頬にふれ、その心地よい冷たさにブチャラティは目を閉じる。

「…すまない」

 ぽつりとこぼした彼の一言に、ユウリは一瞬、面食らうが、しかしすぐに、まったくだわ、と腰に手を当て、半ば呆れたような視線を向けた。

「天下のギャング様が、風邪で倒れてるようじゃあ世話ないわね」
「耳が痛いな…ゲホッ」

 これでも身体は丈夫な方なんだ、と掠れた声で言う。
 ユウリは、憎まれ口しか出てこない自分の喉を恨みながら、苦しそうに息を吐くブチャラティを見つめた。
 熱く濡れた唇。赤みを増した頬に、伏せられた濃いまつ毛。病に侵されている彼は不謹慎だがとても美しかった。

「何か食べる元気はある?」
「…ゴホッ、…いや、お前にそこまで迷惑は、掛けられない。すまない、すぐに出て行く…」

 「ちょっ、ちょっと、落ち着きなさいよ」ベッドから這い出そうとする彼を、ユウリは、組み敷くようにしてベッドシーツに押し倒す。
 行かないで。行かせたくない。ここに居て欲しい。そう思うのに、口を衝いて出るのは、「無茶しないでよ。家の前でまた倒れられたら、そっちの方が困るのよ」そんな可愛くない言葉ばかりだった。無様に縋るような、みっともない姿を見られたくなかった。

 ―――冷静に考えると、ユウリは今、ブチャラティの上に馬乗りになっている状態なのだが、病魔に掻き乱された二人はそこまで頭が回らないらしい。

「…ゴホッ…、すまない。お前の世話をするどころか…逆に、世話をさせてしまって」

 ベッドに押さえつけられ、観念したのか、大人しくなったブチャラティから手をはなす。頭を枕に沈めたまま、熱っぽい視線で見つめられ、ユウリはウッと言葉に詰まる。

(…あぁ、もう、卑怯だわ)

 そんな顏されたら、何でもしてあげたくなるじゃあないの。
 ぐっと唇を噛みしめながら、ユウリは、作っておいた粥を取りに、キッチンへと向かうのだった。



2012.4.1
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