innocent world
 筋の通った逞しい腕が、女のか細い首を締め上げる。
 女は苦しそうに喘いだが、その腕の力は緩むことなく、むしろさらに力強く、首元を圧迫した。
 自然と、男の腕に全体重を任せる形となり、彼女の身体は首で支えられ、ぶらりと宙に浮いている。

「あ…」

 その鈍い喘ぎに、男の動きが止まる。
 彼女の瞳には、理由なく自分を殺そうとする、眼前の男への憎悪も、死に対する恐怖も滲んでいないのだ。
 その目が自分の僅か後方を見つめていることに気づき、男−−−DIOは、彼女の首筋に噛み付かんとしていた牙を引っ込める。
 このとき、初めてまともに覗いた女の瞳は、深い色合いだが、とても澄んだ色をしていた。

「何を見ている」
「…ぁ、…う…後ろ…の」

 後ろ、と言われてふり返ると、そこにはザ・ワールドが無感情に佇んでいた。
 ほう、と意味ありげに微笑み、DIOはおもむろに手の力を緩めた。
 途端、女はべしゃりと床に崩れ落ち、目に涙を浮かべて咳き込む。

「ゲホッ、ゲホッ…」
「キサマ、スタンドが見えるのか」
「ゴホッ…、ぅ…スタンド…?」

 よろりと力なく立ち上がり、女は、DIOの背を守るザ・ワールドに歩み寄る。

「スタンド…?それが、彼の名前?」
「それは能力の総称に過ぎない。其奴の名前はザ・ワールドだ」
「ワールド…」

 呟きながら、女は、依然として動かないザ・ワールドの頬に触れた。
 かさついた頬は温かくも、冷たくもなかった。まるで生物の抜け殻にでも触れた気分だ。

 頬に手を当てたまま、親指で唇を割ると、それまでじっとしていたザ・ワールドの肩が僅かに震えた。

「ワールド」

 うっとりとザ・ワールドを見上げる彼女の眼は、陶酔しきったような、甘ったるい感情が含まれている。
 人外の存在であるザ・ワールドに、愛撫じみた触れ方をする彼女が可笑しくて仕方ないのか、DIOは女の背後で、クツクツとくぐもった笑みを零した。

「まるで此奴に惚れているかのようだな」
「そうかもね」

 心から惚れ込んでいるような、恍惚に染まった彼女のまなざしはまさしく、恋人や夫へのそれである。
 男女を問わず、幾度となくその視線を注がれてきたDIOにはわかる。
 このまなざしは、ヒトが狂おしく恋い焦がれているときのものであると。

「酔狂な女だ。このDIOよりもザ・ワールドを選ぶとはな」
「それはお互い様でしょ」

 クスクスと笑いながら、ザ・ワールドの胸にしなだれかかる女の、曝け出された白い首根を引っ掴み、DIOは強引に、自分の腕の中へと閉じ込めた。

「キサマが何と言おうと、キサマを選んだのはこのDIOだ」
「誰でも良かったくせに」

 もともと気まぐれで選んだ餌に興味などなかったが、彼の性格上、自分の所有物を他者に奪われるのが我慢ならないのだろう。たとえそれが、自分の半身であるザ・ワールドであろうとも。

「ふむ…。しかしザ・ワールドが見えるということは、スタンド能力が目覚めつつある筈…」
「言っとくけど、私、貴方の仲間になんてならないわよ。貴方の目的なんて興味ないもの」
「それは私が決めることだ。キサマ、名は」
「ユウリ」

 正面から抱きかかえられながら、尚も挑発的なまなざしを向けるユウリに、DIOは、自身の牙をなぞるような舌舐めずりを見せた。
 本能のままのそれはケダモノじみていて、それでいて酷く美しい。
 咄嗟に、ユウリはザ・ワールドを見た。強気だった瞳には、懇願するようなか弱い色がうっすらと滲む。

「ワールド…」

 DIOと同じ色をした、赤く熟れた唇がかの名を呼んだ。
 呼応するようにザ・ワールドの右手がぴくりと動く。

「きゃ!」

 ユウリの口から小さな悲鳴が上がる。
 迷うような素振りを見せた後、ザ・ワールドは、二人が瞬きをする間に、DIOの腕からユウリを横抱きにして奪い返していたのだ。

 一瞬の出来事に、ユウリはおろかDIOまでもが眼を見開き、何が起こった、などと言うまでもなく、数秒、言葉を失った。

「…私の精神の一部でありながら、この私に背くとは……ザ・ワールド…」

 そうは言っているものの、その声色に怒りは含まれておらず、それどころか、むしろどこか楽しんでいるようにも見える。

「いい男ね」
「フン…」

 ザ・ワールドの首に腕をまわし、ユウリはうっとりと目を閉じる。

「…私のザ・ワールドをたらしこんだ女など、初めてだぞ」
「それは光栄だわ。ワールドの初めての女になれるなんて、素敵」
「誰もザ・ワールドをくれてやるとは言っていない」
「結構よ。奪ってみせる」

 「口の減らない女だ」煽るような笑みを浮かべたまま、DIOは、ザ・ワールドの腕に抱かれたユウリに口付ける。

「んッ」

 愛のないキスは、飼い犬への躾のように甘く、冷え切っている。
 ただのキスのはずが、全身が麻痺するような感覚に襲われ、ユウリは、DIOの持つ妖しげな魅力と色気は本物なのだと、ぼんやり思う。

「ふ…」

 触れ合った唇のすき間から、甘えるような声がもれる。
 瞬間、それまで、あまり派手な動きを見せなかったザ・ワールドの眉間が、僅かに顰められた。
 眼下で口づけ合う二人を見やるザ・ワールドの表情は険しく、どこか切なげである。

「…殺すのは後回しだ。せいぜい飼いならしてくれる」
「悪シュミ」

 ユウリを囲うザ・ワールドの腕にも、ザ・ワールドにしがみつくユウリの腕にも、ぎゅう、と強く力がこもった。




2011.11.07
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