兄さんは側から見ると、街の何処にでもいそうな人、所謂普通に属する人なんだと思う。ぼんやりした性格で、僕と同じかそれ以上に感情の起伏が薄いけれど、別に笑わないわけでも怒らないわけでもない、と思う。多分。

高等部に入って半年経った頃、僕はようやく兄さんと話すようになった。会話は特別弾むわけではないし、どちらかと言えば取り留めのない話ばかりだったけど、乾ききった草木みたいに注がれるがままの水をもっともっとと欲しがるようになっていた。
そうして、初めて兄さんについて気付くことがある。ここは金持ちしかいない上下関係の厳しい男子校。日々嫉妬が渦巻き醜い争いが起こる場所では兄さんみたいな人は変わっているんだと。

生徒会長が体調を崩して放課後の生徒会はなくなった。放課後が急に暇になるとすることが見つからず、気付けばアイフォンに手を伸ばしていた。兄さんにメッセージを送ろう、と。白い画面としばらく見つめ合って、書きかけた文章を何度か消してようやく送信。

“今何してる?”
“何もしてないよ”
“どこにいるの?部屋に行っていい?”
“保健室にいる”
“怪我したの?大丈夫?”
“留守番だよ“

保健室で留守番?奇妙な言葉だった。
…そういえば兄さんは前も保険医から保健室の留守番を任されたと言っていた。兄さんはぼんやりしてるけど優しいから多分断れなかった。あんな汚れた場所に兄さんを何時間も居させるなんて。
足が自然と階段の方へ向く。

ふと、脳裏に生徒会長の顔が浮かんだ。確か兄さんは前に生徒会長と保健室で会ってた気がする、その時に僕が兄さんにあげた絆創膏をあげてた。
まさか、保健室にいないよね。

僕の予想は狂いもなく当たっていた。

「……なんで居るの?」
「なんでって体調悪いからだよ、ね、先輩?」
「うん。薬を取りに来たんだって」
「そう」

確かに綾川の顔はいつもより紅潮してるし、髪も乱れてる。ちょっとシャツもよれてるし。
でもやっぱり、なんで居るの?よりによって兄さんがいる時に。こんな男と2人きりになるだなんて、兄さんは危機感が足りないと思う。

「僕も居ていい?」
「いいけど…怪我してないよね」

それはそうだけど。兄さんは何で?と首を傾げてる。その後ろで今にも笑い出しそうになる綾川の顔が腹立たしい。

「でも綾川もいるじゃん」
「だって風邪だよ」
「薬あげたら帰せばいいじゃん」
「それもそうか」

確かにとあっさり納得する兄さん。そういうとこは兄さんらしい。ガサゴソと薬棚を漁り、風邪薬を見つけた。
よし、と取り敢えず邪魔な奴は追い払えそう。そう思ったのに綾川はゲホゲホとわざとらしく咳を何度かした。

「先輩、俺ちょっと怠いんでベッドで寝てから部屋に戻って良いですか?」
「そうなの?…分かった」
「すみません」
「病人だし、仕方ないよ」

兄さんが背を向けた向こうで綾川がしてやったりと言わんばかりに笑っている。どうせ怠くも何ともないくせに、少しでも長く兄さんと居る気だ。
仮病だよ、あいつは。ねえ兄さん。

「帰らせても大丈夫だよ兄さん」
「そんなわけにもいかないよ」

兄さんは僕より綾川を信じるらしい。ひどい。あいつはただの愉快犯なのに。

綾川はいそいそとベッドに潜り込んで、こっちをにやにやしながら見てる。お前はどうするんだと言わんばかりに。兄さん見て、あんなに笑ってる奴が病気なわけないのに。
兄さんは早く治るといいな、なんて言いながら僕の方に振り向いた。

「あんまり煩くしたら綾川に迷惑だし、朝也は戻った方がいい」

そんな。
綾川が奥で噴き出したのが見えた。それを誤魔化すために咳き込んだフリをしたのを、兄さんが心配そうに振り返る。

「大丈夫だよ、綾川元気だから」
「病人だし、それに寝れないんじゃ可哀想だろ」
「そんなことない。兄さんより元気だから」
「何言ってんの」
「だって兄さん1人置いたら食べられちゃうかもしれない」
「食べ…?」

兄さんは一瞬、何言ってんだと言わんばかりに顔をしかめた。

「そんなことないから大丈夫。だって生徒会長だし」
「…じゃあ僕も体調悪い、だから保健室に居てもいい?」
「じゃあ、って…ベッドの空きがそんなにないのに。本当に?」
「うん」

もちろん嘘。でも綾川なんかと一緒に保健室にになんか留めておけない。綾川は性格が悪いから、僕をおちょくるためなら何でもする奴。それに兄さんは普通な人だから、綾川に手を付けられる訳がないって思ってるのかもしれないけど、そうじゃない。
しょうがないなあ、と見え見えの嘘でも信じて、許す兄さんは僕にとっても綾川にとっても普通じゃない。

「ほら、」
「ありがとう。保健室のベッドを使うの、初めてだけど、意外といいね」
「そうなんだ。俺も随分前だなあ」
「お兄さんは風邪とかひかないんですか」
「ひくけど、大抵は学校まで来ないからさ、お世話にはならないんだ」

兄さんはベッドのそばから離れようとしたから、慌てて声をかけると綾川も引き止める。結局兄さんは2つ並ぶベッドの間にスツールを引き寄せて座った。
兄さんは気が弱い訳じゃないけど押しに弱い。僕にはそれでいいけど綾川とか木崎とかにはそうであって欲しくない。

「でも保健室のベッドって特別感あって俺は好きなんだけど」
「…そう、ですかね?」
「家のベッドのがよっぽど柔らかくて気持ちいいよ兄さん、それにここのは寮のより硬いし」
「柔らかさはそうだけど、保健室でサボるのとか夢だったから」
「へえ」

ほら、また綾川が興味を持った気がした。真面目そうなのに、サボるのが夢とか言っちゃう兄さん。保健室に特別感なんてないのに、兄さんは相変わらず変な事を言う。そんなにベッドがいいなら、今度家から送って貰えばいいのに。
変わってますね、と綾川。それに兄さんはそうかな、とそっちに顔を向けた。

僕の兄さんなのに。綾川なんてただの他人なのに。綾川は何でも手に入るくせに何で兄さんを取ろうとするんだ。

「でも綾川は、」
「兄さん」
「…?なに?」

話しかけてる最中なのに遮った。
そしたら、こっちに顔が向いた。じわりと満足感が溢れ出す。

「僕が起きるまでここにいてね」

兄さんは、えー、と言った後に仕方ないなあと許してくれた。
そのあと綾川もすぐに眠り始めて、僕も仮病だったけど横になったせいで眠気に襲われたすっかり眠ってしまった。
不意にガタンという音がして目がさめる。カーテンを開けた、健全さと清潔さを道に捨ててきたような保険医の顔がこっちを見ていた。

「よお、もうこんな時間だぞ」

顔を横に向けると、兄さんの姿も綾川の姿もない。兄さんが座ってたスツールは端の方にに寄せられて、すっかり用無し。ここにいてって言ったのに、綾川について行っちゃったのかな。
胸がむかむかと不快な感覚。不安と不満が渦巻く。とりあえず帰りに兄さんの部屋に寄らなきゃ。

中途半端に開けられたカーテンを開け切って、それからすぐ兄さんは約束を守る人だと知った。兄さんは保健室のソファで壁にもたれて目を閉じている。微かに上下に身体が揺れている。
ああ、よかった。

「そいつ、連れて帰れよ。お前が起きるまで待ってるって言って聞かなかったんだからな」


文月さん、リクエストありがとうございました:3

home/しおりを挟む