朝起きると、フレイムさんはいなくなっていた。いつもより静かに感じる朝に、ぼおっとした頭で何をしようかと考える。
まだ夢は醒めない。

「また散歩に行こうかな」

今度は違う方に進んでいこうかなあ。そう思って、逆の方へと足を進める。
一応、余ったおにぎりを持って行く。1日経ってしまったけど案外食べることが出来るかもしれない。意外と人の身体は丈夫だし何とかなるものだ。
もらったものを布にうまく包んでよっこらせと年寄り臭い掛け声で身体を起こす。

「さすがに身体べたべたしてる」

ちょっと気持ち悪いくらいで、ついでにこういうところに湖なんてあるかもしれない。そこで汚れをこすり落として、髪も洗おう、そうしよう。
フレイムさんは服まではくれなかった。そこまで多く望んじゃいけないけど、いざこうだとほしいかも。下着とかさすがに気持ち悪すぎる。ついでに服を洗って天日干しかな。

まだ湖は見つけていないけれど、そんな目標を掲げるとちょっと元気が出る。
相変わらずの晴天で、強い日差しに目を細めてうつむいて歩く。
影がゆらりゆらりと揺れ動くのを目で追って、ひたすら無心に歩いていると急に開けた場所に出る。
そして、目の前には湖が広がっている。え、まじ?そんな都合のいいことってあるのか。

さすが夢。
そっと近づくと、湖は透明度が高く、綺麗だ。触れると冷たいし、遠くでは魚が泳いでいるのが見える。
さっそく服を脱いで、足を浸す。

いっそのこと全部脱いで、身体を洗うことにした。べたついたのがどんどん取れていき、ついでに服も洗う。
びしょ濡れの服を木の枝に引っかけて、もう一度湖に入り真ん中の方へ足を進めるとだんだんと深くなっていく。肩まで沈んでいき、まだまだ深さはあるようだ。

「俺の身長より水深あるのかな」

このまま足を進めたらどうなるのだろう。頭まで水が来たら当然だけど息は出来ない。

悪い夢を見ると、うなされて目が覚めることがある。もし、今ここで溺れて息が出来なくなったら夢から醒めるかもしれない。
俺はハッとして、一歩足を進める。あごに水面がつき、さらに進むと鼻の下。水深はまだまだありそうだ。いっそ一気に真ん中まで行ってしまおう。

早く目が覚めてしまいたかった。悪夢のようなこの世界から抜けてしまいたかった。
ついに水が全身を覆う。夏だから、冷たくて気持ちの良い温度に包まれる。だんだん息が苦しくなり、がは、と開いた口からは大量の空気が逃げていく。

つらい、つらい、くるしい。
でもようやく悪夢から醒める。辛い夢から解放されるんだ。
それでも生存本能からか、身体が悶え、喉を押さえる。ぶくぶくという音を聞きながら、ゆっくり意識が遠のいていく。

早く母さんのご飯が食べたい。せっかくなら、おにぎりを作ってもらおうかな。
フレイムさんのこと忘れちゃうんだろうか。

遠くなって消えた意識が浮上し、俺は一番はじめに見えた顔がフレイムさんだったことに絶望した。重く冷え込んだ身体が失敗したのだと語っている。
フレイムさんは木の実の時よりずっと怒った顔をしていて、髪や耳がびしょ濡れになっている。鋭い目を細めてじいっとこちらを見つめている。

「なぜ、そんなことをした」

そんなこと聞かないで欲しい。わかって欲しい。無茶な願いだと分かっていても、フレイムさんには察して欲しい。

「…なんで助けたんですか」
「助けるのは当たり前だ。知った人間が目の前で死にゆくのを見逃せというのか」

物凄く、善人だと思った。心臓がきりきり痛んで苦しい。何でこんな苦しまなきゃ行けないんだろう。

「なんで、俺は夢から醒めないんですか」

ついに、言ってしまった。
喉の奥から痛みが走り、こらえきれず涙があふれた。

「なんで俺はこんなところで、独りなんですか」

だっておかしい、と芝生を握りしめた。柔らかい草の感触なのに、肌を裂いた気がした。

「母さんも父さんも友達もいないんです。どうして、いないんですか」

八つ当たりしてもどうしようもないのに、フレイムさんは辛そうな顔をした。どうしてフレイムさんがそんな顔をするのかわからない。涙で歪んだ視界で、フレイムさんは重そうに口を開く。

「お前に嘘をついたことがある」
「なん、ですか」
「ケータイのことは知らないと言ったが、あれは嘘だ。いや、ほとんど知らないが名前とその形は過去に…文献でのみだが、見たことがある」

風が吹き、フレイムさんの濡れた髪が、木々が揺れる。
文献?

「その文献は異世界から来た人間について書かれているものだ」
「え…」
ぞわ、と全身の毛が逆立つような寒気を感じる。
「異世界から来た人間は、ケータイを当時の王族に見せて自分は違う世界から来たという証明をした。信じられない話ではあったが、その人間の着ていた衣服の特異性や他の持ち物から証明された。間違いなく異世界の民だと」

フレイムさんは、俺の服が掛かっている木の方をちらと見た。その視線が何より物語っていたけど、信じたくない。

もう、聞きたくない。何も知りたくない。夢なら醒めてくれ。こんな居心地の悪い夢はもう飽き飽きだ。

「人間の知る異世界の習慣のうちいくつかがこの国でも取り入れられている。時の宰相と陛下がお気に召したらしい。食事の前と後にはいただきますとごちそうさまということになっている」
「いやです、フレイムさん。もういいです」
「その人間は刀にひどく怯えを見せていた。戦争もない平和な国にいたらしいな」
「フレイムさん!」

もう何も聞きたくない。耳を塞いでもフレイムさんの腕に押さえられる。受け入れろ、とフレイムさんの目が語っている。
逃げられない。夢だと信じていたかったのに。

「ある日人間は自分の好物に似た木の実を手に取り、食べた。しかしそれは猛毒の木の実だ。幸いにも見つかるのと処置が早かったために死に至ることはなかったようだ」
「うる、さいですっ!もう聞きたくない!」

フレイムさんの歪んだ顔が間近にある。淡々と喋っているのに、顔はひどく辛そうだ。なのにずっと酷いことを言う。俺の知りたくないことを、振りかざしてくる。
ぼろぼろとこぼれる涙が、あごを伝って落ちていく。どうしてこんなことになったのか分からない。

「お前は、日本という国にいたのではないか?」

夢なんて初めから無かった、と眼前に突きつけられた。

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