獅子緒の生活は、丸一日ベットで寝たりぼんやり過ごすだけのものだった。
今日は、日中はだいたい家にいるカプリが何故かどこかに出かけ、ほっとしつつも一抹の不安と寂しさを覚えてベッドで丸くなっていた。何度か時計を確認してはそもそも帰宅時間も何も知らないんだった、と肩を落とす。

朝に起きて、食事をして横になっていたらうとうとしてまた寝て、起きたらお三時になっている。カプリはまだ帰ってこない。
普段こそベッドからは出ない獅子緒がたまたま出ようと思ったのはカプリがいないからで、そうするとベッドから物影になって今まで見えなかったものが見えた。
カレンダーだ。

(2月14日…)

カレンダーなんてこの世界にあるんだ、と驚きつつも何ページか捲る。そういえばいつこの世界に来たんだろう。
この世界に来てからというもの毎日が嵐のようにあっという間に、目まぐるしく過ぎていった。そのためイベントというものがあるのかも知らず、すっかり忘れて生活していた。
この世界にバレンタインなんてものがあるのか知らないし、前の世界でももうずっと自分には関係ないイベントだ。
だから、今日がバレンタインだとしても関係ない、そう思おうとした。

(ど、どうしよう)

しかし獅子緒はカプリに一応はお世話になっている。この家に住ませてもらっている。衣食住を無償で与えられ何もかも養ってもらっている現状。
もちろん獅子緒がそうお願いをしたわけでもなければ、えぐえぐ泣いて怖がる獅子緒を半強制的に連れ出し、そんな生活を一方的に与えたのはカプリだ。

それでも恩がある。
つまりは何かお礼をした方がいいのでは、と獅子緒は思った。そしてそれが出来るとしたら今日だ。このイベントに乗じて普段のお礼をしようと獅子緒は決意し、キッチンに立った。

心が折れたのは一時間後。
チョコレートケーキを子供の頃母親と作って、簡単に作れたし何となくだけど作り方も覚えている。なので簡単に作れるだろう、と高を括っていた獅子緒は調理器具や材料をいろいろと用意した。どこにあるか分からないため何度も棚を探り時間をかけたのち、チョコレートがこの世界にないかもしれないことに気づいた。
卵も砂糖も、他に必要なものはそろっているのに肝心なチョコレートがない。少なくともこの冷蔵庫にはない。
ここまでの時間の掛かった準備もぱあになってしまい、獅子緒は鼻をすする。頑張った自分が馬鹿なようで、涙が出そうになるのをぐっと堪える。

考えてみれば見たこともないし聞いたこともない。
お菓子はいろいろあったがそういえば現代でよく見るチョコレート菓子は見たことがなかった。それを覚えていなかったのは、何かにつけてカプリが食べさせてくるからだ。唇にむにむにと押しつけてきたり、口移しなんてこともある。つまり味を気にしている余裕もなくなっているのだ。

もう、なかったことにしようと思ったがこの荒れたキッチンをどう説明しよう。何かをしようとしたのは一目瞭然だ。バレたら何を言われるか。
いつものように意地悪をされるかもしれない。

「さ、最悪」

もう寝てしまおう、問い詰められたらその時考えよう。そう思ったとき突然カプリが帰ってきたのだ。

「獅子緒?どこにいるのですか」
「ぁ、」

カプリの声にはっとしてそちらを見ると、カプリは普段ベッドにいる獅子緒がいないので焦っていたようだった。ぱっとこちらを見て、その目を大きく見開いて。

「何をしているのですか」
「え、あっ」
「獅子緒!」

突然の大声にびくっと身体を震わせて、獅子緒は思わず手に持っていた包丁を落としていた。落ちてがしゃんと大きく響いた音にようやく、ずっと包丁を持ったままだったことに気づいたのだ。
チョコレートを砕いて溶かそうと思って出しておいた包丁。

それを見て、カプリが何を思ったのか獅子緒には手に取るように分かった。

「あの、ちが、」

違うのだ。もうそんな馬鹿なことをしようなんて思ったことはない。ただチョコレートケーキが作りたいだけで、それだけだった。
しかしカプリはその怒った顔で、獅子緒の腕をつかんで投げるようにベッドに突き飛ばす。柔らかい弾力は痛みもなく獅子緒の身体を受け止めたが、のしかかってくるカプリを獅子緒は震えながら見つめた。

「そんなに私といるのは嫌ですか」
「え、っと、」
「そんなに死にたいのですか」
「か、カプリ?」
「そんなこと許しません、絶対に」
「ん、む」

降ってくる唇を避けられず、ふさがれる。れろ、と唇をなめられ、乾いた自分の唇がしめっていく。そのまま割り開かれ、、ねっとりと柔らかく生暖かい舌と舌が絡まる。

「ん、ぅう…」

ぴちゃ、という音に真っ赤になり、きゅうと目を閉じるといっそう激しく舌が絡まってくる。そのうち呼吸も辛くなり、カプリを押しのけようにも力では勝てず必死にもがいても顔を固定され離れることは出来ない。
苦しむ獅子緒をカプリは目を細めて、面白そうに見つめている。

「ふ、っ…んぅーーっ、ん!」

獅子緒はキスというものに慣れていないせいで、鼻で呼吸するのを忘れていた。息が止まり、呼吸も出来ずだんだんと頭が真っ白になるのを感じた。恐怖にがたがた震えると、ようやく唇が離れ一気に肺に空気が入ってきて、げほっと激しくむせる。

「苦しかったですか」
「はぁ、…う、ん」
「怖かったでしょう」
「しぬ、かと思った」
「私もあなたが死のうとするのは怖いし、苦しいのです。もう二度と目が離せなくなります」

え、それはちょっと。
獅子緒はぜひともやめて欲しいと思った。そもそもチョコレートケーキを作ろうと思っただけで、死のうとしたわけではない。

「もうそんなこと必ず、」
「あの、けーき、を作ろうと、思っただけ」
「ケーキ?なぜ」
「ば、ばれんたいん」

バレンタインを説明し、そのうえでチョコレートケーキを作ろうと思っただけ。少ない言葉で涙目になりながらなんとか説明するとカプリは大きくため息を吐いた。
やっと理解してもらえたのだ、と獅子緒は喜んだ。しかしカプリは喜ぶわけもなく。

「紛らわしいことをしないでください」

そんな、と獅子緒はしょんぼりした。

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