エプロンのポケットに入れたアイフォンが震え、メッセージの受け取りを知らせた。
時計は、9時を指している。今日も残業だったようだ。定時の6時に上がれば、7時に帰ってこれる。それを2時間上回った。一応、8時に食べることを想定して準備している料理は、まだ皿には盛っていない。このまままた温め直せるようにフライパンに残したまま。
画面を開けば、もうすぐ着くとのことだった。だいたい最寄駅に着いたタイミングだから15分程度。

一人暮らしの間はいわゆる、簡単に出来るものしか作ってこなかった。次の日の朝ごはんに食べれたり日持ちのするものだったり、サラダというには残念すぎる千切っただけの野菜と洗っただけのトマト。調味料は感覚、おかげで美味しい時と不味い時があった。けど食へのこだわりの薄さがあってか、料理のスキルは大きく伸びることはなかった。
同棲が始まって、その頃に会社を辞めた。それからは食事のバランスを気を付けたのもあって、それに2人分用意すると量と品目も気にするようになった。

俺と同様に多分あの人も、食へのこだわりは薄い。同棲する前までは毎日コンビニ弁当と話していたし、手に取ったものにしていたらしい。ある意味俺より食事に興味がなさそう。

大きな皿に今日の夕飯、麻婆豆腐を乗せると湯気と香りが一気に広がる。中華分のスープと野菜炒めも用意して、昨日余ったサラダを小皿にあの人は多め、俺は少し少なめによそう。
同時に、鍵が回る音がする。帰ってきた。

「おかえり」
「…ただいま戻りました」

朝見送る時よりは疲れた顔をしているけど、相変わらず無表情。それでも迎えた言葉に静かに返事がある。
差し出した手に鞄、もう片方に上着が渡される。流石に毎日繰り返せば慣れる。受け取ると、寝室の定位置に置きに行く。

「今日は麻婆豆腐にしたんだ。最近冷え込んできたから、ちょっとピリ辛にしてみたんだ」
「そうですか」
「ビールならあるけど、どうする?冷やしておいたんだ」

今日は週末で、明日は休みだ。酒が嫌いということはないのは知っている。強いし顔色が変わることはあっても、そんなに酔ったようにはならない。
それでも疲れれば酒を一気にという気持ちになるのは、殆どの社会人にあることだと思っている。

「いいえ、今日は入りません」
「…そう?」

せっかく冷やしておいたのに、と思ったけど言わない。彼が飲まないなら、俺も飲まない。
透明な耐熱グラスに冷たい麦茶を2人分。それを向かいの彼の前と、自分のところに。
俺が座るやいなや、彼は頂きますと静かに言った。

装った麻婆豆腐を口に入れて、ご飯を一口食べ終わる頃に、「美味しい?」毎日のように聞いた問いに、頷きが返される。

「はい」

美味しいです、と続いた言葉は少し小さい。その返事は定型句のようなもので、同棲してからこの方、その言葉以外を聞いたことがない。
料理に慣れてきても、上手く行く時と失敗する時がある。失敗してもこの人は、美味しいですと返す。後から自分で食べても妙に苦くて味が濃くてとても美味しいとは言えなくても。大量にもらった粉末のお吸い物を飲んでもそう言うし、珍しく上手く出来たという時もそう言う。
特別期待はしていない、何となく2人の間でそういうやりとりをする事になっている。
でも失敗して妙に焦がした部分を率先して取ってくれているのを知っているし、シュウマイの皮が破けたやつから取っているのも知っている。彼は言葉での表現を得意としていない、それだけなんだと俺は知っている。

「藤光くんは、明日の予定は」

同棲をはじめたばかりの頃はどうしても名字を呼ぶ癖が抜けなかったけど、さすがに慣れてきた。現代では少し渋い名前も男前の彼には上手くあっている。
話しかけると、箸を持ったままテーブルに手を置いて、静かにこっちを見つめてくる。

「あなたの予定は?」
「俺?…掃除かなあ、衣替えの時期だし。今日涼しくなかった?」
「なら私も家に。まだ肌寒くはありません」

そっかあ、と外を見る。すっかり暗くなって、遠くにはビル郡が煌びやかに輝いている。寒がりのせいか、家にいても少し寒いと感じていたのに、外から帰ってきた藤光くんがそうでないなら、どうなんだろう、と。

食事中、弾むほどの会話はない。普段からそうだし、俺が話しかけても藤光くんは、はいかいいえ、の返事が多い。かといって気まずいと感じることもない。

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