この人は会社への通勤の仕度のほとんどを終え、最後の締めを行うために腕を伸ばす。皺1つ出来ないようにアイロンをかけたワイシャツは、顔立ちの整ったこの人が着るとどことなく高級品に見える。
着るものに頓着しないせいか、妙な柄の多かったネクタイは一緒に暮らし始めた頃に封印させてもらって、代わりに自分が選んだネクタイを用意する。

背丈は俺よりずっと大きい。話すとき、視線が合うようにするにはかなり角度が上がる。それは自分が平均より小柄なのと、この人が平均よりだいぶ大きいせいだ。俺だけのせいでもない。
だからネクタイを締めるのに背伸びをするのが癖だった。でも俺だけが努力するんじゃなくて、この人も僅かに身をかがめてくれる。そうなると難なくネクタイが結べるのだ。

それから上着を羽織って玄関の前まで来ると、くるりとこの人は振り返る。いつ見ても整った顔だと感心してしまう。それに加えて、いわゆるエリートという人で、入って来る給料にも毎月感心してしまう。仕事が出来て、昇進もあっという間。
なんというか、出来た人だ。自分には勿体無いんじゃないか、そんな言葉を今日も飲み込んだ。

俺は28で、あの人は26。今の時代は結婚適齢期とか、そんくらいの年齢じゃないだろうか。大学まではいた恋人も社会人になるとぱったり縁がなくなった。けどそんなには慌てていなかった。生涯1人でもいいかなと思っていたし、優れたものはないながらもそれなりに恋人がいた方だったからそのうち出来るだろうと思っていた。

大学に入ると同時に田舎から上京して来て、一人暮らしが始まっていたのもあって、新社会人は大変だったけれど思っていたよりは辛くなかった。それなりに良い会社に入ったから新人でも給料は良くて、これといった趣味もないせいで貯金が貯まっていく。
ある意味平凡な人生なんだと思う。休日は寝転がってテレビを見る。そのうち昼寝をしていたり、電車の広告で見た本を手に取っては長い時間をかけて読んだり。

刺激のない人生だけど、それを苦に思ったことはない。
そうして社会人生活が始まって2年目になろうとした時、新しく入った新社会人の顔ぶれの中にあの人がいた。

圧倒的に整った顔立ちと頭一つ抜けた背丈。身体つきもしっかりしていて、ぼんやりしていた俺でも印象に残っていた。伸びた背筋がまるで武士みたいだなあ、と。
同じ課に入ってきたあの人は、女性社員の視線の的になり、瞬く間に有名になった。他の課の社員が休み時間に引っ切り無しに覗きにきたりしていて、しばらく騒がしかった。

しかしあの人は意に介さず、仕事に向き合っていた。あんなにモテても浮かれたりしないんだ。
けれど、本人とは別のところで、関係もないのに気が立った社員もいた。優れた顔立ちのせいもあるが、いわゆる気に入らないタイプに見えがちだったんだと思う。

一瞬たりとも崩れない敬語から、尊敬の意は汲み取れないし、笑みを浮かべることもない。仕事を押し付けられても簡単にこなしてみせる順応力の高さは、なおさら一部の心の狭い男性社員の気を煽った。
愚痴を聞かされた回数は数え切れない。わざと聞こえるように言う社員もいた。あの人に、目をつけられた後輩には悪いなあと思ったけど、わざわざ止めるほどでもなかった。

事なかれ主義なところは自覚していた。

それに、そのうちこの問題も消えるに違いない。いくら気に入らなくても、学生時代に起きたような暴力的ないじめや陰湿な嫌がらせは起きていないようだし、悪口は十分幼稚だったけど、言っている男性社員はそう多くない。口にしないだけで気に入らないと思っている人も居ただろうけど、少なくとも仕事場で出す人はそういない。
それに可愛げがなくとも出来る部下が来たことに喜ぶ目上の人が多い。何より女性社員が全面的に味方についているのだから、何か起きて分が悪い方は想像がつく。

現に、入社して1年経った頃には、妬みの混じった声はあっても陰湿さは影をなくしていた。
何となく良かった、と肩の力が抜けた。後輩を庇う気にはならなかったが、影で悪口を叩かれているのを見て平気な性質でもなかった。
ホッとしたのもつかの間、その頃から奇妙な視線を感じるようになった。仕事中、休み時間の時、会社にいる間、度々視線を感じる。

そうして顔を上げれば、必ずではなかったけど、視線の主のほとんどがその後輩であったことに気付くのは簡単だった。

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