いいにおい





 スカーレットが何も言い返せないまま、キリエは満足気な笑みを残して消えていった。彼には反論しても仕方がないとわかっているのに、つい正面で踏ん張ってしまう。結果、一日分の疲れは倍になって募るだけだ。
「喋るだけ喋って行っちゃいましたね……」
 キリエの背中を追いながらぽつりとこぼれた声に、凝り固まった身体が一瞬で溶けそうになる。そうだ、いまはフーカと話していたのだ。改めて彼女に向き直すと、少し赤い唇が同じタイミングでスカーレットの名を呼ぶ。
「まだお仕事なんですか?」
「え、あ、ああ。もう少しだけ」
 さっきまでと変わらない彼女の表情に安心する、僕よりも君が喋ってくれたら、大抵の会話はうまくいく。それにひと言でも答えられたら、そこから君が僕の言葉を引き出してくれると信じている。
「そうですか……ちゃんと休んでくださいね、ずっと忙しそうだから」
「ああ。君と話せるだけで十分疲れがとれる」
「そうなんですか? 私で良ければ、いつでもお話したいです!」
「君がそう言ってくれるなら……うん、よろしく頼む」
「あ、でも、お仕事の邪魔しちゃいけないし、今日は先に休みますね」

 うまく話せた、とフーカの後ろ姿を見つめながら思う。思っていることだって伝えられたし、最後にまた笑ってくれて良かった。満足しかけたところで、雫を含んで揺れた髪が目に留まる。
 そうだ。
 スカーレットにもう一歩を踏み出させる。
「ああ……あの、フーカさん!」
 ボリュームの調整を間違えた声に、明かりに照らされて振り向いた彼女に、いつかの夜の街が重なる。もうあんな思いはしないはずなのに、苦しさに喉が締まる感覚は今日も変わらないのか。
「その……君の、シャンプー……その、優しくて、とても良い匂いだと、思う……」
「え? ……ふふ、ありがとうございます」
 頬を赤く染めて笑っている。どうしても単純な表現しか浮かばなかった。それでも、君が僕の拙い言葉にも笑ってくれるなら、いくらでも思いを紡ぎたい。
「引き止めてすまない。風邪を引かないように、早く休むといい。……良い夢を」
「はい、ありがとうございます。また明日!」
 今度こそ、離れていく背中を見送る。勇気を出して良かった、そう頷くのも何度目だろう。照れくささで少し引きつったままの口元が嬉しい。「また明日」その言葉の通り、明日会えることにただ希望を持てるのが嬉しい。

「さて、と」
 両手の書類を見比べ、頭を切り替える。まずはカラミアの執務室へ。それから、と、思い返せばさっきキリエに渡せば済んだはずのものを抱えている。
「……また顔を合わせればいじられるに決まってる!」
 知っておいて何も言わずに絡んでいったに違いない。それすら気が付かず、フーカの前で浮かれていた自分に頭が痛くなる。こうなったら嫌なことから先に済ませてしまおう。扉のノックを待っているであろう彼の元へと重たい足を向けた。



おわり







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