いいにおい





 右手にはキリエさんに渡すもの、左手にはカラミアさんのサインをもらうもの。

 オズファミリーに加わって以来、いくつも書類を抱えて廊下を行き来するのがスカーレットの日課になった。事務仕事や他のファミリーとのやりとりを自分でこなしていた頃とは勝手が違う。理解が早くて助かるとキリエから紙束の山を任され、アクセルに同情され、少しずつで良いからとカラミアに苦笑され、そのうちに彼らの領分や自分の裁量もわかってきた。
「これを二人に確認したら、今日は終わりだ」
 一日の疲労をにわかに感じ、ため息をついて顔を上げた先、明かりに照らされた階段から上がってくるのは彼女だ。どれだけ忙しくても姿を見かけたら声をかけること。できるだけ自分から近づくこと。オズに来てからもこれは変わらない。むしろ、押し込められた隙間を抜け出すような苦しさから解放された分、いつでも駆け出しそうになるのを抑えなければいけなかった。

「フーカさん! こんばんは」
「こんばんは、スカーレットくん」
 ほんのり上気した頬、やわらかそうにまとった真っ白のパジャマがまぶしい。挨拶のあと、ただでさえ次の話題を探して手間取るというのに、フーカの見慣れない雰囲気が頭を鈍らせる。仕切り直すつもりで目を伏せると、甘くて優しい香りがくすぐったい。
「えっと、なんだかいい匂いがする」
「あ、いまお風呂に入ってきたところなんですよ」
「おふろ……? そ、そうか、風呂……か」
 初めて聞く言葉に、再び開いた視界はくらくらと揺れた。いや、お風呂という言葉自体は当然知っている。それが彼女の口から出てきたことがいけないのだ。彼女が日頃使う言葉の種類はそれほど多くはない。生活の範囲だって決まっているし、日々出会う人たちもそれほど代わり映えするものではない。だからこそ丁寧に、ひとつずつ発言を噛みしめては返事を投げ返し、上手くはないけれど確かに会話ができるようになった……というのに。
 変化球にも程がある。とんだ爆弾を投げ込まれた気分だ。
 言われてみれば彼女は間違いなく風呂上がりだ。まだ濡れた髪はいつもよりまっすぐ垂れ、ちらちらと覗く耳や首もと、パジャマの襟に隠れたところまでほんのり赤く染まっている。
 ――触れたらまだ温かいに違いない。
 同じ屋根の下で生活をしているという現実の生々しさが形をもって目の前に在り、心なしか頬が熱い。いや、たしかに熱い。
 吸い込む空気に混じる”いい匂い”のせいで、彼女に触れてもいないのに熱がじんわりと身体中に広がる。いやいや、浸っている場合ではない。目の前の彼女はいつものようににこにこと言葉を待ってくれている。
 さて、数秒前の自分は一体どんな会話をしようとしたのか。ごくりと唾を飲み込むと、全部流れていってしまった気がした。

「おや、フーカさん、新しいシャンプーですか? 素敵なジャスミンの香りですね」
「キリエさん! そうなんです、わかります?」
 目まぐるしい刺激の渦中、スカーレットはキリエの登場にすら気が付かなかった。さらにその第一声に、辛うじて保っていた足場を華麗に撃ち抜かれてしまう。
「あた……新しい……シャンプー……じゃすみん……」
「おや、おチビも居たんですね。失礼、気付きませんでした」
 手袋をはめた手で顎をさすりスカーレットを見下ろす。わざとらしく首を傾げているのは視線の落差を強調するために違いない。
「っ、そう呼ぶのはやめてくれと何度言えば! それに、彼女が誰もいない廊下でひとり喋っているわけないだろう、もう」
「庭の花に向かって喋るくらいですから、フーカさんなら十分あり得そうですが。それはさておき、風呂上がりの彼女、かぐわしいと思いません?」
「それは……! そう、思う……けど……」
 面白がって畳み掛けてくるキリエにも、彼女の手前、及び腰にはなれず眉間にしわを寄せる。と、そういえば彼女と話していたはずなのに、気が付けば身体はキリエの方を向いている。
「手をこまねいてばかりでは、トンビならぬカラスにさらわれてしまいますよ。ここにはライオンもいますしね」
 置いてけぼりにしてしまった彼女に気を取られたところを刺される。意味はよくわからないが、隙を狙っているという意図はわかる。相変わらずどこまで冗談なのかわからない。
「では、私はこれで。おやすみなさい、ふたりとも」







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