神々の黄昏
雪が降り続ける。
この白い雪はやがて全て溶けて消えるのだろうか。
彼女が振り続ける空を見上げた。
白い咽喉が羽織ったマントから見える。
繊細な美しさの彼女を『彼』は見ていた。
*
*
*
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神々の黄昏の予兆はフィンブルヴェトの始まり。
ラグナロクが起こる前には風の冬、剣の冬、狼の冬と呼ばれるフィンブルヴェト(大いなる冬)が始まる。
夏は訪れず厳しい冬が3度続き、人々のモラルは崩れ去り、生き物は死に絶える。
冬の森の中で深々と降り積もる雪が音を吸い、耳が痛い程に音は無い。
世界の崩壊の始まり。
それを神々は感じていた。
*
*
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「世界が崩れる?」
そして解放者である彼女は解放された神々を前にして驚愕の事実を伝えられた。
ヴァルキリー、ジークフリート、スサノオ、ヘイムダル、アポロンなど神々たちは皆、一様に暗い表情をしていた。
「正確には世界が閉ざされる」
神々の国アースガルズの番人。
ギャラホルンの笛の持ち主・ラグナロクの始まりを告げるヘイムダルは秀麗な顔を歪めた。
「そもそも、このラグナロクは予言されていたんだよ」
そしてヘイムダルの言葉に続くようにジークフリートが謳う様に言葉を紡いでいった。
「太陽と月がフェンリルの子であるスコルとハティに飲み込まれ、星々が天から落ちる。
大地と山が震え、木々は根こそぎ倒れ、山は崩れ、あらゆる命が巻き込まれ、あらゆる命が消える。
ヘイムダルは、世界の終焉を告げる為に角笛ギャラルホルンを預けているミーミルの泉へ向かう。
最高神オーディンはミーミルの元へ駆けつけ、助言を受ける。
この日には全ての封印、足枷と縛めは消し飛び、束縛されていたロキやフェンリル、ガルムなどがアースガルズに攻め込む。
巨蛇ヨルムンガンドが大量の海水とともに陸に進む。
その高潮の中にナグルファルが浮かぶ。
舵をとるのは巨人フリュム。
ムスペルヘイムのスルトが炎の剣を持って進む。
前後が炎に包まれた彼にムスペルの子らが馬で続く。
ビフレストは彼らの進軍に耐えられず崩壊する。」
一息にジークフリートは言い切ると、一呼吸置いた。
彼の整った顔には言い知れぬ苦悩が見え隠れしている。
「だが予言は違えられた」
ジークフリートは鳶色の瞳を解放者である彼女に向ける。
「フェンリルやガルムといった多くの魔神はお前の手によって滅ぼされ、ロキは神として解放された。
俺たちが予言として知るラグナロクに変化が起こった。」
周囲には痛い程の沈黙が落ちる。
解放者である彼女には、それが何故「世界が閉ざされることに繋がるのか」分からない。
何故か震えが止まらなかった。
現代の日本から、この神々の住まう世界で解放者として召喚され、必死に今まで歩いてきた。
必死に踏みしめた足元が崩れ落ちそうな程に胸が苦しい。
世界の終わりを報せるというヘイムダルはそんな彼女を見て、唇を噛みしめて、一瞬躊躇うものの結局、言葉を紡いだ。
「君という存在がラグナロクを変容させた、終末の結末が変わる…すなわちこの世界の滅びだ。」
彼女は漆黒の瞳を見開いて、唇を震わせた。
何かを言おうとして震えた唇を神々は痛ましい思いで見つめた。
解放者としての私自身という存在が、世界の終末を招くというのなら…
「私はこの世界に…」
来た意味なんてなかった?
彼女の漆黒の瞳に涙が溢れた、その時、
「世界が滅びたってオレは別に構わないぜ?そのほうが面白いジャン!ッハハ!」
この場にそぐわない玲瓏な声が聞こえた。
居並ぶ神々と彼女の視線を受けて、冬の森の木の上から、こちらを見下ろしていたのは…ロキだった。
…どんな状況でもロキはいつもと変わらない。
赤茶の髪に炎を纏い、猫のような金茶色の瞳を細めて彼はそこに居た。
そして身軽な動作で、トリックスターブーツで雪原に降り立つと、ヘイムダルや神々と彼女との間に立つ。
ロキは金茶色の瞳をツゥッと細め、神々に視線を投げた。
「世界が閉ざされることは変わらないジャン?
じゃあさーヘイムダルちゃんさ…そういうことをコイツに言わないでくんない?」
『解放者』としての彼女の存在が『神々の黄昏』を変容させた事実があるとしても…
世界が終末を迎えるのは変わらない…手が尽しようがないことなのだ。
それなのに悪戯に彼女が原因としらせて、彼女の哀しみが深くなるのはロキにはつまらなかった。
つまらないよ。
そんなのは、つまらない。
その時のロキの顔は、彼の背中に庇われていた彼女には見えなかった。
ただいつもはフザケているロキの声が低く、真剣に響いたことに瞳を見開いた。
「ラグナロクで俺たちは死を予言されてるし、だとしたらさ、いつ死んでも変わんないよねぇ」
けれどその後のロキの言葉に彼女の心は凍りつく。
・・・だがそんな彼女に気付くことはなく神々は会話をし続ける。
「神である俺達が死など気にする筈がないだろ!
俺が言いたいのは解放者である彼女を別の神々の庭に転送しなければ、
巻き添えで彼女が消えるということだ。」
淡々と告げるクーフーリンの声が彼女の心に亀裂を走らせる。
神様だと知っていたけれど、どこか皆が人間らしくて…段々と同じ目線で見ていたのかもしれない。
死を受け入れている彼等に彼女は何もかける言葉がなかった。
神にとって死は宿命ー…
定められた運命の輪に組み込まれている歯車の一つに過ぎないのだと突きつけられる。
そして数か月後に完全に世界は閉ざされると、残酷な事実をヘイムダルは告げたのだったー…。
***
神々の庭は他にもある…平行世界ともいう。
パラレルワールドのような平行世界で出会う神々は姿形は同じであっても、
当然ながら今まで共有した思い出は無い。
そして何より、平行世界では少しずつ情勢は違って…
今まで解放した全ての神を解放することは不可能であろうことも彼女は告げられた。
けれど、それでもそこへ行って、生きて、再び彼等神々を解放してくれと神々に頼まれて、
解放者である彼女は大きな瞳を涙にうるませたが、泣きはしなかった。
ただ一言…
『一人にしてくれませんか。』
そう囁き、そして神々を解放した人の子は雪の森へ消えた。
*
*
*
あたりは暗い闇の帳が落ちはじめた。
冬の森の夜は長く寒い…だがその寒さも神の力の及ぶ神殿には入り込まない。
大理石の荘厳な造りの神殿の中で、等間隔に掲げられていた松明がパチッと爆ぜる音を響かせた。
解放者である彼女に解放された神々は、彼女が神殿に帰るのをただ待っていた。
ジークフリートやクーフーリンなどは一人になりたいという彼女を追いかけたのだが、
しばらくしたら戻ってきて今は神殿で他の神々と同じように待機している。
「追いかけなくていいの?」
ヘイムダルにそう問われてロキは「いいの」と思わず口にしていた。
だがロキの側で椅子に座って静かにホットワインを飲んでいたトールがのそりと立ち上がり、ロキの背を無言で押した。
「ロキ、分かっておろう。」
ロキは珍しく、彼女と出逢ってからはついぞ見せたことのない不機嫌な顔をした。
しかもトールに向かってだ。
「…そんなのオレらしくないじゃん。」
手を握り締める。
ギリッと握りこめた、それは力を込めすぎて白くなっている。
「自分らしい自分とは分からぬものよ、神であろうともな…。
気持ちのままに空を駆け、悪戯で嗤い、破壊を好むオヌシも、
…あの者の側で笑い、あの者を守るオヌシも、全て真実。」
ゆけー…オヌシがあの者の最後の守護神であるならばー…
*
*
*
トリックスターブーツではたった一歩の距離を飛んで、ロキはすぐに冬の平原に佇む彼女を見つけた。
守護神として繋がりも深いから彼女がどこにいるかぐらいは分かる。
こんな感覚も、ロキには…鬱陶しい。
纏わりついて放そうとしてもはなせない鬱陶しい暖かさだ。
胸を押さえて、彼女に気付かれないように林の影にそっと降り立った。
雪が降り続けている。
この白い雪は世界が終わりを迎えた瞬間、溶けて消えるのだろうか。
彼女の白い咽喉が羽織ったマントの隙間から見える。
流れた漆黒の髪、瞳…繊細な美しさの彼女をロキは見ていた。
彼女はロキには気付かないー…
何日、何カ月、共に旅をしたか分からないなぁと思った。
雪が深々と降り積もる。
このひそやかな時間にも世界は終末へと向かい始める。
雪片が塵芥のようだった。
そうであるならそれが降り注ぐ、此処はゴミだめの底だ。
けれど…そう思うのに彼女があまりに清らかだから。
ゴミだめの底のこの世界の中で唯一、彼女という存在だけが尊い。
切ないのか、胸があつい。
凍えそうな夜。
彼女の微かな白い息。
オレは忘れないだろうね。
その考えが自分らしくなくて、ロキは苦笑を零してから、
隠れていた林の影から、ひとっ跳びで彼女の前にふわりと降り立った。
ロキと彼女の目があう、けれど彼女はふわりっと微笑んだだけだった。
「ロキ様」
思えば、彼女に名を呼ばれるのは厭じゃあなかった。
「アレー?あんま驚かないね」
「近くにいるときは分かります」
そういって胸をおさえる姿にロキは思わず彼女に伸ばしかけた手を止めた。
それは二人だけの繋がり。
自分が彼女を感じ取れるなら彼女もまたそうなのかもしれない。
そう思うとロキは自身のざわつく感情に気付かないふりをした。
こんな風に彼女と過ごす時間はもう限られている。
それなら、この不確かな感情も伝える必要はないのだ。
「オレは、もう少ししたら消えちゃうからさ、その感覚は泡沫みたいなものだよ」
流石にロキ自身が消失すれば、彼女との繋がりは断ち切られるだろう。
「アンタはオレを忘れなきゃ」
それはロキの珍しく心からの言葉だったように想う。
そうしてロキを忘れた彼女は新しい『神々の庭』でふたたび歩み始めるのだ。
平行世界の『神々の庭』…残酷な彼女を閉じ込める箱庭の中で、神々を解放するあてど無い旅へ。
「なぜ、ロキ様を忘れなければならないのですか」
吸い込まれそうな漆黒の瞳にロキは微笑みを返した。
「目の前にいるオレは此処以外には何処にもいないから…オレとアンタの想い出は、この先、アンタだけしか知らない。
だとしたら、記憶は無い方がアンタにとって救いになるじゃん。」
彼女の透きとおるような瞳に憂いが生まれる。
冷えて紅に染まった唇からたどたどしく音が紡がれた。
「ロキ様はいないんですか」
それはロキという神がいないのか。
それともロキという人格がいないのか、どちらともとれる言葉だった。
だがロキは彼女が言いたいことを正確に分かっていた。
「神であるオレは…いないね。」
わかっていて、なお線引きをする。
彼女はロキを八百万の一柱としてただ見ている訳でない。
知ってなお線引きをする。
そのロキから突き放され、線引きされた彼女はだが顔をあげて、雪原の空気にとけるように清廉に微笑んだのだ。
その瞬間の彼女の表情をなんといって表すことができるのかロキには分からない。
ついぞ見たことが無かった、哀切を帯びたその表情。
そんな顔をさせたい訳じゃあない、けれど彼女にそんな顔をさせるのが自分だけだという愉悦もある。
雪がただただ降り積もる…終わりが定められた世界で。
雪が音をとりこんで静寂をつくりあげる。
その中でロキの声は真白の雪原によく響いた。
「帰ろう」
それが何処かなんてことは彼女は尋ねなかった。
ロキもやや強引に彼女の手をとる。
さくりと柔らかな音を響かせて一人と一柱は雪原を歩んだ。
二人の間に言葉は無かった。
*****
雪原に二人分の足跡が続いてゆく。
ロキは手に触れる温度を頼りに、彼女との想い出をとりとめなく考えていた。
『アハハハッハハ!オレが戻ったら世界は大混乱だな。あーおもしれぇ!』
彼女に解放された時のこと。
『ハハ!むっずかしいなぁ。アンタが本気で困る顔がみたいし。何あげよっか?』
彼女が気になって柄に無く何か送ろうと画策してた時のこと。
『ああ、アンタからもらったもの、めちゃくちゃにしたいな!ハハ!』
お気に入り過ぎて、大事すぎて壊したくなった時のこと。
思い返せばオレはいつも笑っていた。
そして…あと少しで、手に触れている温度は永遠に失われる。
その事実が時の足を止めさせていた。
怪訝そうな彼女の様子が背中越しでも伝わる。
ロキは握っていた手を力強く引いて、彼女に真正面から向き直った。
こんなのは自分らしくないと分かっているのに、止められそうもなく…口をひらく。
「オレさー、飽きちゃった瞬間って一番ダメって話したよね?
だから、大好きなうちに壊さないといけないんだって。」
彼女の透きとおるような瞳にロキが映っている。
「私も壊すんですか?」
それは畏れも哀しみもない純粋な問いだった。
そんなところもロキにとっては堪らなく愉快だったのだ。
「違うよ…壊すでもなく、いなくなるじゃん?」
あと少しで神々は彼女の他の『神々の庭』に転送する究極神技を行うことが決まっている。
それにあと少しで、この世界は幾多の神々を飲み込んで消滅するのだ。
「オレさアンタに聞いたよね…死んでもずっとオレの傍にいてくれるかって。
オレがこの世界と一緒に先に壊れるなら…それってずっとアンタがオレの傍にいてくれるってことじゃん?」
オレが死ぬまでアンタは生きている。
それも一つの答えだとロキは想うのだ…らしくないということは分かり切っている。
それなら、とことんロキらしくなくても良いと想う。
トールが言ったではないか『自分らしい自分とは自分にもよく分からないもの』だと。
ロキはそっと彼女の頬に手をそえた。
頬は冷えて薄紅にそまっている、ロキの熱を感じて彼女が僅かに嬉しそうに瞬きをしている。
そのけぶるような睫毛が綺麗だ。
「アンタにとっておきのもの、やろうか?」
それはいつもの言葉。
いつもロキは彼女がロキに貢物をあげると、からかって、よくそう言った。
だが今は切々と真剣な響きをもって紡がれる。
「アンタにやる」
ゆっくりとロキの明けの空の色をした瞳が彼女に近づいて。
微かな熱が、唇に儚く触れて、はなれて、消えた。
「オレの熱…覚えといて。」
見開かれた彼女の瞳。
言葉は言わせないで手を強引に掴んで、ロキは再び他の神々が待つ神殿に歩き始めた。
『アンタはオレを忘れなきゃ』
そう言ってなお、覚えていてと願う自分がいることにロキは惑うた。
長い長い時を生きてなお、こんなにも惑う自分をロキは胸の痛みと共に知る。
雪が降り続ける。
深々と音を吸って静謐をつくりあげる。
だから後ろの彼女が微かに嗚咽をあげているのもロキの耳の錯覚に決まっている。
そうでなければいけない。
陸も空も海の上でも駆けることが出来るトリックスターブーツでも世界の壁は渡れない。
だからこの胸の痛みも、込み上げて口をついて出ようとする言葉も何もかも気のせいで、すませれば良い。
もう冬の森の神殿はあと少しだったー…
別れが近くなれば言葉は出てこない。
感情を言葉にすることなど出来ないのだから。
解放者である彼女が懸命に解放した神々の力によって、彼女は皮肉にもパラレルワールドの『神々の庭』へ転送されるー…翌朝のことだった。
雪原に巨大な光の魔方陣が展開されるー…何重にも重ねられた魔法だ。
神力の輝きと朝日の光とに照らされる雪が舞い上がりダイアモンドダストを起こす。
風が彼女の髪を乱しているのを直してあげたくなって、それももう出来ないのだと気付いた。
それは絶望的な二人の距離だった。
ロキはその光景をただ見つめていた。
いつものように微笑んでいたかは分からない。
分からない程にただただ光に呑まれ消えてゆく彼女を見ていた。
気付いたことがあった。
昨日の凪いだ雪原で。
昨夜、なにか君にかける言葉を変えていたら、もしくは想いを伝えていたら何かが変わったんだろうか?
想い出が綺麗だから。言わなくて良かったんだと自分に言い聞かせてみる。
こうして君と離れ、振り返って、世界中の何処を探してもそこに君は居ないのだから。
世界が終わるその時まで。
白い雪とこの想いは今夜、ここに降り積もってゆく。
消える瞬間まで何度も、俺は君を思い出すのだろう。
君と出逢って、オレは踏み出すことも怖くなった、このオレがだ。
ただ側に居てくれたらそれでよかった。
この白い雪も、この想いも、やがて全てとけて消えるだろう。
すべて。
やまない雪が降り積もってゆく。
俺の中から君が消えない。
想い出がこんなに綺麗だから、さようならが辛い、けど。
そこでロキは耐え切れずに手を彼女に伸ばしたー…
魔方陣から巻き上がる風にロキの髪も乱れる、彼女の漆黒の瞳に自分が映っている。
他の神々もいるのに、こんなのはオレらしくないのに。
もとめずには、いられなかった。
一瞬のような永遠ー…彼女が儚げに泣き笑いを零して…
ロキさま
彼を呼んだのが最後の言葉だった。
光が集束して、視界が塗りつぶされた。
*****
手をすり抜ける。
引き寄せた、か細い手。
頬にいたい程の夜の風。
君の優しく微笑む表情。
俺は世界の終末まで覚えているのだろう。
ばいばい。
オレの唯一の解放者ー…。
「…ロキ、さま。わたしは貴方が側にいてくれたら、それで良かった。」
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