時計の短針と長針は共に十二を指していた。
遅れることなく神代家にやって来たWはそのままダイニングに通され、璃緒の指示通りに席に着く。
隣には凌牙、更にその奥には九十九遊馬が座らされていた。
横一列に並ぶ三人はこれからの試練を共にする仲間である。

「三人とも、よく集まってくれたわね。あなた達を呼び出した理由は他でもありませんわ、今日がバレンタインデーだからよ。いつもお世話になっているお礼にわたしが取って置きのチョコを振る舞ってあげるイベントなの。目いっぱい感謝しなさいよね」

どう、驚いた?とでも言わんばかりの璃緒の得意気な表情にWは引き吊った笑顔で答える。
――ああ、知ってたさ。

隣をチラリと横目で見ると凌牙もどうやら同じ反応で、いつも以上に固い表情を見せていた。
唯一何も知らない遊馬だけが「おぉっ、すんげぇー!」と目をキラキラ輝かせて喜んでいる。
見ているとなんだか罪悪感が沸いてきた。

前置きもそこそこに「ちょっと待ってなさい」と璃緒はキッチンへと向かう。
次いで聞こえたのは冷蔵庫の扉を開け中身をガシャガシャと取り出す音。
この時点で仄かな異臭が鼻腔を掠めたのは気のせいではないだろう。
一体何が来るのかと得体の知れない恐怖に怯えながら遊馬以外の二人は運命の瞬間を待つ。

そして一分も待たぬうちに戻ってきた璃緒が両手に掲げてきたものは、

「さぁ、たんと召し上がれ!」
「――おぉ!すげぇ!さすがだぜ妹シャークぅ!!」

トレーに並べられた、一様の大きさの黒い塊。
それらをチョコと呼ぶには躊躇いを覚えてしまうのは、いかにも舌触りが悪そうな表面のざらつきが原因だろう。

そして何よりWや凌牙の感覚に訴えてきたのは、やはり内側から放たれる異臭に違いない。
カカオの香りに混ざって焦げ臭さや生臭さが同時に嗅覚を刺激してくる。
その威力は食べてすらいないのに表情を歪めそうになってしまうくらいであった。

こんな状況のなか、相変わらず無邪気な笑みを浮かべているのは何も知らない遊馬だけだ。
Wはこのときだけ彼を心の底から羨ましいと思ってしまった。
このチョコを旨そうな食べ物として認識出来ているその感覚こそが天から与えられた才能であることなど、本人は知る由もないのである。

「どうしたの?もう食べてもいいのよ?」

一人一人の前に置かれた皿にチョコらしき物体を盛り付け、言葉の裏で早く食えと言ってくる璃緒の笑顔が怖い。
猛烈な勢いで胃がキュウ、と血管に締め付けられ縮んでいくのがわかった。
今朝と同じで、身体も明らかに拒絶反応を起こしているのだ。

Wは凌牙と顔を見合わせながら彼に目で訴えかける。

(おい凌牙……どうすんだよコレ……今俺達に食えってのか?)
(当たり前じゃねぇか……!だから言ったろ、こいつは食べ終わるまで見張ってやがるんだって)
(勘弁してくれよ、なんで一人五個とかノルマ決まってんだよ……こんなの明らかに罰ゲームじゃねぇか……ッ!!)

そう意思疏通を図っている間にも璃緒は此方をニコニコしながら見詰めている。
そろそろ一つくらい食べなければ彼女の機嫌を損ねるかもしれない。

Wは遂に決意してそれに手を伸ばした。
一口サイズのものを一つ掴んでやるとあとの行程は至極単純で、迷うことなく口の中へと放り込む。
次いで凌牙、そして遊馬もそれを一つずつ口に含ませた。

三人が同じ動きでモグモグとそれを咀嚼すること約十秒。
誰の顔色を窺うまでもなくWの感想はこの時点で既に決まっていた。

(不味い……!)

予想通りと言えば予想通りであった。
あんな見た目と臭いで、もしかしたら意外に美味いのではないかという期待など最初からしていない。
見た目通りの味だろうという予想を予め立てておいたら本当に見た目通りの味だったという、ただそれだけのことだ。
なのにこんなにも気分が落ちてしまうのは何故だろう。

砂のようにざらざらとした舌触りに時折ジャリ、と音を立てる歯触りの悪さ。

そしてその中に含まれているぬるぬるとした物体は、Wの考えが正しければ恐らく――魚介類の刺身である。
ほんの少し血の味がするということは彼女自らが捌いたものなのかもしれない。
成る程今朝の電話きいていた璃緒のエプロンに付着した血、その原因はこれだったのかとなんとなく附に落ちる。
日本の寿司は嫌いではなかったがまさかこんなところで生魚を食わされるとは、Wは思いもしていなかった。

隣で同じものを食す凌牙も彼女の手作りチョコは食べ慣れているとはいえ流石にこのコラボレーションはお初だったのだろう、目に涙を浮かべながら必死に飲み込もうとしている姿が痛々しい。

それでも璃緒が何も言ってこないのは、凌牙が彼女を傷つけぬよう無理をしてでも唇に笑みの形を保ち続けているからである。
もしかしたら璃緒は凌牙が感動して泣いているとでも思っているのかもしれない。
なんという兄妹愛であろう。
見ている此方まで泣きそうになってしまう。

だが、Wがそれ以上に気にかけなければならないのは未だに璃緒のチョコのことをどう感じているかはわからない九十九遊馬の方だ。
さっきまで嬉しそうにはしゃいでいたというのに彼はチョコを口に含んだ瞬間から無表情で食べ続け、一向に口を開こうとしない。

凌牙の言う通り遊馬が嘘を吐けない性格であるというのならば、Wとしては今すぐ三人の気持ちを代表して正直に美味しくないと言って欲しいものである。
というより、言って貰わねば困る。

ここでそのような発言権を持っているのは、純粋な無邪気さを有している遊馬だけだ。
そこまで考えてしまえばもう彼に期待せざるを得ない。

Wは凌牙越しに遊馬の顔をじっと見ながら全身全霊で念を送った。

(頼む……遊馬、言ってくれ……正直に不味いと言え……!!ここでそう璃緒に言ってやれんのはお前しかいないんだ。それだけで俺と凌牙が救われるんだよ……頼む……俺達の為に、そして自分の為にも言え……言ってくれ遊馬……っ!!)

固唾を呑んでW、そしてチョコを飲み込んだ凌牙が見守るなか、遊馬が一つ目のチョコを食べ終える。
喉が上下に動き、嚥下する。

そして彼はその大きな瞳で残りのチョコと璃緒の顔を交互に見た後、口を大きく開けて言った。

「うんめぇええ!!なんだコレ!やっぱすげーぜ妹シャーク!こんなの俺食べたことねぇ!チョコじゃないみてーだ!」
(――遊馬ァアア!!)

信じられないという気持ちと最悪の事態への絶望が一気にWの胸に沸き上がる。
お前、正気か?このときばかりは我慢出来ず感情を露にして凌牙と共に遊馬を睨んでやった。

彼の異常な味覚が璃緒のチョコを美味しいと判断したのならそれは仕方のないことだろう、だが何よりいけなかったのは遊馬がそれを口に出して言ってしまったことである。
作り手である璃緒に美味いと報告することが一体何を意味するのか、彼はまるでわかっていない。

「あら、本当に?よかったわ、今回はちょっと変わったアレンジをしてみたから美味しく食べて貰えるか心配だったのよ。そのチョコの中に入ってるのが何かわかる?お刺身よ。凌牙はお魚が好きだからチョコに混ぜてあげたらきっと喜ぶと思って。
遠慮してなくてもいいんですのよ、凌牙とWも、もっと食べなさい。遊馬がこんなに美味しいって言ってくれてるんだから」

遊馬の言葉をきいた璃緒は嬉しそうにして更にずい、とチョコの皿を押し出しWと凌牙にも勧めてくる。

――ほら、見たことか。

遊馬の一言のお陰で完全に他の二人まで美味しそうに食べるのが当たり前、そうでなければ許されない雰囲気になってしまった。
ハードルがどんどん上がっていく。

苦し紛れの凌牙が「遊馬……お前これ好きなのか?じゃあ俺の分もやるよ、たった五個じゃ足りねぇだろうし」と遊馬に押し付けようとしていたが、

「えっ!?いやそんなの悪いって!シャークだってホントは食べたいんだろ?それに俺のは義理なんだしさ、やっぱ本命のシャークに食べて貰えなきゃ妹シャークだって喜ばないだろ」
「そうよ凌牙。あなたのために作ったのよ?有り得ないから、わたしのチョコを食べないなんて」

善意と好意のダブルアタックにより敢えなく撃沈してしまっていた。
どうやら彼は本当に逃げ場を失ったらしい、顔には出していないものの同じ思いを共有しているWにはわかる。目が笑っていない。

Wの方も駄目元で「……悪い。
俺、実は日本の刺身って奴がどうも駄目で……」と璃緒に訴えてはみたものの、「好き嫌いはいけない」という至極真っ当な言い分で却下されてしまった。

追い詰められた二人の目の前にはチョコとも言えぬチョコ、無言でプレッシャーをかけ続ける璃緒、そして美味しそうに黒い物体を頬張りながら此方を観察してくる遊馬。
なんでこんなモンを美味いと感じることが出来るんだ、今すぐにでも舌を交換してほしいという二人の思いは残念ながら彼には届かない。

――先に覚悟を決めたのは、凌牙の方だった。

「……おい、璃緒。さっきチョコ食ったら甘ったるくて喉が渇いてきちまった。水、汲んできていいか」

いいわよと璃緒が頷くと、凌牙はガタンと席を立つ。
その行為が何を意味するかWは言われずともすぐにわかってしまった。凌牙の腕を掴み振り向かせる。

(待て凌牙!お前本気か!?無茶だ、水と一緒に全部飲み込むなんて事……!!)

目でそれを伝えるも、しかし対する凌牙は首を振って、

(いや、無茶なんてしているつもりはない。もう俺達にはこれを食べる以外道は残されてねぇんだ。いい加減てめぇも腹括れ。お前がしなきゃいけないことは俺を止めることなんかじゃない。……わかってんだろ?)

Wの姿を映し出す凌牙の瞳は決意の色を帯びていた。
それを見てはっと息を呑む。
もう彼を止めることは不可能なのだと、そう悟った。

Wは自分の考えてきたことを思い返す。

確かに自分は逃げることばかり考えていたのかもしれない。
凌牙のように立ち上がる強さをWは持ち合わせていなかったのである――そう、今までは。

今日は一年に一度のバレンタインデー。
女性がチョコレートに乗せて自分の気持ちを伝える日。

そんな日に他でもない神代璃緒からチョコを受け取れることの有り難みを、Wは今まで見失っていたのかも知れなかった。

Wは凌牙の腕を掴むその手を放した。
今やるべきなのは、いつまでも彼を此処に引き留めていることではない。
それとは逆の、別の一言が。

凌牙の目を真っ直ぐに見詰めて、それを口にする。

「凌牙。……俺の分も、水持ってきてくれ」

凌牙はコクリと頷くと、そのままダイニングを後にした。


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