毎晩同じ夢を見る。
古い映画を再生したようなセピアの色彩で、それでいて身を焼くような灼熱と周囲の崩壊を示す轟音は、はっきりとした感覚を伴って。
現実を基に歪な形で再構築されるそれは夜が訪れる度に、落ちた意識のなかで繰り返される。
始まりはいつも決まっていた。
Wは少女とデュエルをしている。
父親から手渡されたカードを使って彼女とデュエルをすればいい。
それだけの、簡単な仕事だった。
それで終わる、筈だった。
(―――!!)
突如視界を覆ったは明らかな実体と熱を伴って、少女の身に襲いかかる。
Wがカードを発動したときだった。
全てを焼き尽くすような炎。
瞬く間に燃え広がり、しとりと冷たい雨を滴らせていた袋小路はそれらを沸騰させる熱に覆い尽くされる。
熱い。
これらの全てがARビジョンだと信じ込める程、Wの頭は鈍く出来てはいなかった。
そこにあるのは、紛れもない現実だった。
古い造りの建物が崩れていくのも、立て掛けられた材木が倒れていくのも。
目の前にある少女の身体が灼熱の内に呑み込まれていくのも。
(―――璃緒!!)
咄嗟に口をついて出てきた、その名を呼ぶ。
返事など返ってくる筈もない。
聴こえるのは重く響く空気の唸り声、落ちたガラスが割れる音、燃え尽きた炭が弾ける音、それだけ。
音にならない叫び声をあげながら、必死に彼女へと手を伸ばした。
炎は大きく燃え広がりながらも、Wの身に襲いかかろうとはしなかった。
その代わり、逃げ場を失った少女の白い肌を容赦なく包み、焦がしていく。
璃緒、璃緒。
文字通り熱に浮かされよろめきながら、彼女のもとへと駆け寄った。
もう少し。
あと、もう少し。
伸ばした手が届く距離。
自分自身で覆うように、少女の身体を抱き寄せた。
璃緒、璃緒。
脆い体躯をしっかりと両手で抱き締めながら、咳き込むように息を吐く。
少女の衣服に灯っていた炎はWの身体に触れると次第に小さくなり、消えていった。
直ぐに手当てをすれば、まだ助かるかもしれない。
未だに目の前の惨状を受け止めることすらままならない少年には、絶望している余裕など残されてはいなかった。
大丈夫だ。
大丈夫だ。
繰り返し、自分自身に言い聞かせる。
まだ、終わってない。
俺も、この子も。
二人でこの場から逃げ出すことが出来れば。
この子が生きてさえいてくれれば。
まだやり直せるかもしれない。
全部無かったことに出来るかもしれない。
酷く自分勝手で、都合の良い希望だった。
そんな可能性なんて、何処にもないことくらいわかっていた。
けれどそれがどんなものであろうと、何かに縋っていなければ立っていることすら出来なくて。
頼むよ。
血と煤ですっかり汚れてしまった手で、Wはまた少女を抱き締めた。
耐えてくれ。
きっと助かるから。
肌越しに微かな鼓動を感じる。
まだ息はある。
早く。
早く此処から離れなければ。
Wは灼熱のなかから、出口を求めて歩き出す。
自分の胸にもたれ掛かるように寄り添った、小さな身体を庇いながら。
―――少女の右腕がボロリと欠けたのは、その時だった。
(………………え、)
黒い塊が、瓦礫の上に音を立ずに落ちる。
何が起きたのか、理解出来なかった。
恐る恐る自分の体に密着した人影に焦点を合わせると、彼女の肩から先が無くなっていることに、その時初めて、気付く。
先程まで少女の腕を掴んでいたその掌に残っていたのは、ざらざらとした黒い粉だけ。
それが彼女の一部だったものだとわかったのは、片腕のみならずその胸の辺りまでが炭のような黒で覆われていた、否、黒そのものと化していたからだ。
Wの腕のなかにあった少女の身体は赤黒い肉塊に変わり、まるで泥で作られた人形のように、崩れていく。
次第に形を失って、一体誰だったのかさえわからなくなっていく。
(―――あなたの、所為)
不意に、声が聞こえた。
からからに渇いた喉から絞り出したような、酷く嗄れたそれが腕の中にいる少女のものであることに気付くまで、少しだけ時間が掛かった。
その声で初めて、理解する。
自分が一体、何を犯したのかを。
全ての始まりは何だったのかを。
…違う。
知らなかったんだ。
そんなつもりじゃなかった。
俺は、俺は。
泣き出しそうな声で訴えかけるが、少女は聞く耳を持とうとしない。
当たり前だ。
彼女にとっては、他でもないWこそが自分をこんな姿にした相手なのだから。
(―――返して)
血で染まったような、真紅の眼球がWを見据える。
はっきりとした憎しみの感情、意思を滲ませて。
逃げられない。
少女の肩に残ったもう一方の腕が伸ばされる。
(―――返してよ)
生々しく爛れた指先が、Wの右頬に触れた。
頬から目にかけてそっと撫でられ、次の瞬間眼球に飛び込んできたものは―――
「―――は、…ッ!」
目を開ければ、そこには見慣れた白が広がっていた。
それが自室の天井であると認識するのに三秒、漸く現実に引き戻されたのだと実感する。
また、あの夢だった。
トーマス・アークライトという名を棄て、Wとして初めて他人を傷つけた一年前の記憶。
それが形を変え悪夢となって、毎晩、意識の海に繰り返し、再生される。
そして目覚めると、決まってその時に出来た傷痕が痛むのだ。
確かめるように指先でそれをなぞって、その手を目の前に翳す。
当たり前のようではあるが見たところ、血は出ていないようだ。
相も変わらずぼやけた右半分と鮮明な左半分とで構成された視界は酷く気持ちが悪かった。
裂け目のように頬に刻まれた十字架と視力を失った右眼球は、Wが自らの意思で残し、背負い続けようと決めた罪そのものだ。
はっきりとした体感を伴うのはあの時損傷した右目の方で、完全に光を失ったわけではないが常に白い靄がかかり、滲んだ物体の輪郭は上手く像を作らない。
見えないという不自由が日常生活に支障をきたすことはなかったが、初めのうちは右と左の不整合に吐き気を催すことも少なくなかった。
言ってくれれば、直ぐに治してあげるのに。
軽い口調でそう言ったのはトロンだった。
兄弟には隠していた右目のこともどうやら彼にはお見通しのようで、視力だってなんなら前より良くしてあげるよとまで付け足された。
当然、それを受け入れる筈もなかったのだが。
あの日の傷痕を残し続けるのは見せ付けたいわけでも同情されたいわけでもなく、忘れてはならない記憶を形として残すためだ。
復讐から解放されもう手を汚す必要がなくなった今でも傷が癒えることはないし、それは今までWが傷つけてきた人間も同じだ。
今でも尚、彼らは過去の痛みと苦しみの記憶を抱えたままだ。
Wは考える。
彼らは、かつての自分自身と同じなのではないかと。
『W』という存在も、理不尽に与えられた痛みから始まったものだったから。
一年以上も前、幼児退行した父親が自分達の前に現れた時のこと。
復讐だけを誓い、それ以外は全て棄てたと言う父を前に、Wの胸の底に沸き上がったのは哀しみよりも、自分達家族の日常を壊した男への怒りだった。
Dr.フェイカー。
この男さえいなければ、父はまだバイロン・アークライトのままでいてくれた。
自分達はまだ家族でいられた。
愛されないことへの痛みが、手に届かない相手への憎悪と化してWのなかで燻っていた。
やり場の無い怒りを、父親の命をこなすこと―――つまり、他の誰かを傷つけることで昇華しようとした。
本当に復讐してやりたい相手は、何時まで経っても目の前には現れない。
だから、他のモノを壊した。
他人を代用品にした。
戻れなくなることを知っていながら、そうすることでしか自分を保てなくなっていた。
歩く度、足元に点々と残されていく血の跡は、もう誰のものかさえわからない。
あの時からもう、Wの全ては終わっていたのだ。
眠っていたにも関わらず倦怠感がまとわり付く重い上体を無理矢理起こし、そのままゆっくりとベッドから降りる。
姿見に映る自分の顔は隈が浮かんでいたり血の気が引いたような色をしていたりと我ながら酷いものだったが、最初の頃のそれよりは幾分かましであるとも思えた。
少女を傷つけたあの日の記憶に魘されるようになったのは、丁度WがWとしての最後の戦いを終えたときからだった。
今更のようにそれが脳裏から浮かび上がってきたのは、もう目を背けることが出来なくなったから。
逃げることが出来なくなったから。
復讐から解放されたWのなかに、かつてのような怒りや憎しみはもうない。
あるのは、重く胸に沈む罪悪感だけ。
無かったことには出来ない。
忘れてはならない。
繰り返される幻のなかで彼女があの十字傷に触れる度、同じ場所がさっき傷つけられたみたいに痛むのだ。
まるで塞がれた傷痕を、何度も何度も爪を立てて抉られたように。
Wはもう戻れない。
だからこそ、彼らには、自分がこの手で傷付けてきた人々には、同じ過ちを繰り返してほしくはなかった。
W自身はそうでなくても、彼らはまだやり直すことが出来る。
同じ時間で彼らが見ている景色は、自分のそれのように白く歪んだものではない。
鮮やかな色彩に満ちたものだ。
彼らを自分と同じにしてはならなかった。
彼らのなかに、Wのしたことによって生み出された感情がまだ灯り続けているのなら。
それを受け止めるのも、やはりW自身でなければならない。
憎しみの対象として彼らの痛みを受け入れて、その身にナイフを突き立てさせることこそが、Wに与えられた最後の役割だ。
あの日。
ぐしゃりと潰れた視界と共に、Wの世界の半分が壊れた。
灼熱に焼き付けられた忌まわしい記憶、それがWという存在の全てだ。
苦しめられながらも同時にそれを失うこと、否定されることを恐れている。
自分はもう、Wとしてしか生きられなくなっていた。
トーマス・アークライトとしてかつての日常に還るには、この手は既に汚れすぎていた。
生を感じたいのならば、Wとしての役割を全うしなければならない。
闘いが終わり家族を取り戻したとしても、それだけは決して変わらないのだ。
望まずにはいられなかった。
決して赦すことはないと、そう告げられることを。
救われないことこそが、Wにとっての唯一の救いなのだから。
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