「とても話せるような状態ではありません。
一時間ほど前から容態が急変しまして…今は少し落ち着いたところです。
意識が戻らないので、話し掛けたとしてもわかるかどうか…
順調に回復していた筈なのに、どうしてこうなったのか…」
淡々と、事実だけを伝える言葉だった。
モニターを睨む医師にはその原因がわからないようだったが、Wにとってそれは愚問にも等しかった。
自分が彼女を傷つけたからだ。
それ以外に理由はない。
白いベッドの上に横たわったままの少女は、未だあの日の痛みに苛まれ続けている。
身を焼かれる恐怖を、熱を、一時たりとも忘れることを許されぬまま。
手術によりある程度の皮膚の修復は成功したらしいが、真っ白な包帯はあの時からずっと、彼女の両目を塞いだままだ。
幾人もの血で汚れたWのこの手は、少女から美しい肌と光を奪った。
「…………璃緒」
記憶の中で何度も繰り返したその名を呼べば、ズキンと胸が痛みを訴える。
今までとは違う痛み。
復讐を誓い、父親の為にと言って全てを棄てたW自身が負わせた傷は、癒えることなく彼女の肉体と心に刻まれているという実感。
何もかも、知るには遅すぎる感覚だった。
オレンジ色の暖かい日差しが射し込む病室のなかで、Wは静かに彼女を見詰める。
初めて出会った頃に目にしたような、あの勝ち気で凛とした少女の姿は何処にもなかった。
曇った視界のなかでゆらゆらと揺れる深海のような青が、今の彼女だ。
暗闇に包まれ立つことさえ出来なくなった少女は、窓の向こうにある世界とは切り離された小さな病室でたった一人、別の時間を過ごしている。
揺るがない境界を伴って現実を映す左目より、滲むように輪郭を溶かしていく右目の方が真に彼女の姿を捉えているような、そんな気がした。
「…………う、ぅ…」
眠ったままだった少女が、微かな呻き声を上げた。
再び異変が訪れたのか、規則正しく上下に動いていた胸は先程別のリズムを刻み、薄い唇は歪んだ上弦の三日月を描く。
白い上掛けにそっと置かれていたその手の指先が、ピクリと動き出した。
繋がれた計測器が刻む彼女の鼓動の跡が、僅かに振れた。
「………、が、……りょ、うが」
小さく震える唇から、途切れ途切れに溢れ出す声。
Wもよく知る響きだった。
かつて妹の仇としてWに復讐を誓った少年の名前。
Wがその手で闇へと落とした少年の名前。
「…………りょうが、いか、ないで…凌牙」
薄く小さな右の掌が、何かを求めて彷徨い始める。
頼りなく宙を掻き、それでいてはっきりとした目的を持って。
息苦しさで乱れた呼吸を繰り返しながら、少女は只一人を求める。
「りょうが……、っ………りょうがっ……」
そこに少女の求める少年はいない。
白いベッドの傍らに立つのは、彼女をこんな姿にしたという罪を背負った男だけ。
Wが彼女に安らぎを与えることはない。
彼女の隣にWの居場所はない。
だから、その手を取ることは出来なかった。
触れてしまえば、また壊してしまう気がして。
そこにいるWに許されたのはただ、自らが与えた苦しみに少女が藻掻く姿を唇を噛み締めながら見ていることだけだった。
無意識の中の、少女の意思。
暗闇を彷徨う小さな手。
その行方は知れず、決して叶うことのない願いを携えたその指先は、しかし間近に立つWの衣服を掠めると、ぴたりとその動きを止めた。
「――――――!」
それがどうしてかは、わからない。
彼女自身でさえ説明がつかないことなのだろう。
暗闇で何も見えないまま、Wのことを双子の兄だと思い込んだのか。
その場にいる人間ならば誰でもよかったのか。
それともそこに立っているのがWであったからこそ、そうしたのか。
何れにしてもその理由は恐らく、Wが到底理解できるものではなかった。
それでも確かに、彼女はその指先で、憎むべき相手である筈のWに触れていた。
息を呑み動けなくなる相手に構うことなく、少女の指先がWの身を包む滑らかな布を滑る。
ぎこちない動きで、次第に浅くなっていく呼吸の音と同調するように。
腰の位置から胴体、腕へとそれは順番に辿っていく。
そして遂にその指先まで辿り着いた少女の手は、今度ははっきりとした意思を持って、僅かに強張るWの左手を掴んだ。
「……、…………!
………なん、で…」
初めて触れたその手の冷たさに、瞬く間に体温を奪われる。
口から漏れたその声の色は彼女が愛する凌牙のそれとは似ても似つかない。
けれど白い右手が選び掴んだ掌は間違いなくWのそれで。
彼女のそれと繋がっている掌は、まるで自分のものではないかのように冷たくなっていた。
―――どうして。
口にしたそれと同じ意味を持つ言葉が、再びWの頭を過った。
Wの手を握ったことで、彼女がほっとしたり、落ち着きを取り戻したりしたようには見えなかったからだ。
息遣いは依然として荒いし、肌の色は血が通っていないのかと思わせるほどに白いまま。
容態は悪化していくばかりだ。
それでも少女は、その手を放そうとはしなかった。
弱々しく小さな力で懸命に、一番近くにある確かな存在ににしがみついている。
お願いだから逃げずにここにいて欲しいと、そう訴えかけるように。
そんな感触に、光景に、Wの理性が強烈な違和感を隠しきれなくなったのは何時からだったか。
やめてくれと、情けない声を出しそうになった。
こんな筈じゃ、なかったのに。
彼女を助けたいとは思っていた。
誰かがその手を取って、寄り添って、一人きりの暗闇の中に温もりを分け与えなければならないことも知っていた。
けれどそれがW自身であっては絶対にならないのだ。
そんな資格なんて、最初から持ち合わせていないのだから。
Wがこの場所を訪れた意義は、それとは全く逆の方面に存在していた筈だ。
彼女の痛みを全て受け入れること。
暗い感情から解き放つこと。
今のWに出来ることは、たったそれだけしかないのだ。
それなのに。
目の前で眠る少女には、そんな力さえ残されていなかった。
何よりも色濃くその感情を滲ませる筈だった紅い瞳は、隠されたままで暗闇しか映さなかった。
彼女の意思のままに動く筈の白い手は縋るように相手の喉元ではなく掌を掴んでいた。
内に抱える感情を外に吐き出せぬまま、少女はそれに蝕まれていく。
Wの手は動かなかった。
彼女の手を振り払うことも、そして握り返すことも、結局間違いにしか辿り着かない気がした。
怖かったのだ。
自分が動いて、これ以上に彼女を傷つけてしまうことが。
もう何も壊したくない。
あんな思いはしたくない。
出来ることなら逃げ出してしまいたかった。
そう思ってしまうほどにWという仮面を被った人間の正体は脆く、弱い。
少女は再び、Wの左手を握りなおす。
先程よりも固く、そして強く。
その感触を知る度に、Wは胸が苦しくなる。
彼女の姿がより痛々しく感じられてしまう。
繋がれた手を見下ろした。
傷痕は綺麗に治ったという医師の言葉。
信じることが出来なかった。
治ったというのならば、彼女が今こんなにも苦しむ理由がない。
治療の跡がうっすらと残るその肌は、まるで見てはならない傷痕を覆い隠しているようだった。
視線を少し動かすとまた映り込む、手を加えたような、縫合したような跡。
誰かに痕跡を見られぬようにと繕っているようなそれを見ているだけで、痛みを訴えられているような気がして、堪らず目を背けようとする。
だがその瞬間、Wは見てしまったのだ。
両の視界に映し出された彼女の右の手首に、微かに浮かんだ斑模様。
肉と皮膚が溶け合い同化したような、生々しい肌色。
今も尚素肌に残る、小さな小さな火傷の痕を。
「…………あ、ぁ……」
脳裏に貼り付いていた、あの日の悪夢が甦り、瞬く間にWを引きずり込んでいく。
皮を焦がし、脳を融かし、血を沸騰させるような熱。
少女の柔肌が灼ける臭い。
頬を裂いた傷の痛み。
握られた左手がカタカタと震えた。
鼓膜のさらに奥で、少女の掠れた声が聞こえた。
あなたの、所為。
見えない筈のWの右目の中で、彼女の白い手首が傷痕に蝕まれ、変色していく。
ぺりぺりと薄皮が爆ぜ、その内側から赤が溢れていく。
そしてその奥から少しずつ外面に侵食していく色は、
炭のような、黒。
触れ合う指先のざらざらとした感触が直に脳を刺激した。
爪を立てて掻き毟りたくなるような痒みが手の末端から広がっていく。
腹の奥から脳へと沸き上がる恐怖に思わず手を引こうとしたその時、不意に先程までの感触がすっと離れた。
足下のタイルで何かが弾ける。
それは手先から欠けるように壊れ、そして落ちた、
真っ黒な少女の指だった。
「……ぅ、あ……、……あ゛ァああッ!!」
その声が誰のものかは、わからなかった。
気が狂れるような苦痛を孕んだ、誰かの叫び。
御座なりに縫い合わされていた古い傷口が裂ける音。
繋がれていた計測器が悲鳴を上げた。
少女の細い喉が締め付けられたようにヒュゥ、と音を立てる。
一年前のあの時と同じだ。
現実として受け止められないまま、怯えることしか出来ないまま。
またWの手の中で、神代璃緒が壊れていく。
―――間違いだったんだ。
今更のように思う。
最初から全部、間違いだったんだ。
必要とされたいと思うことも。
希望を持とうとすることも。
そんなこと、わかっていた筈なのに。
刻んだ傷が癒えることはない。
誰かの一部と取り替えない限り、それは永遠に残り続ける。
Wは元には戻れない、その意味を真に理解した。
この手はもう壊すことしか出来ない。
誰かを救うことなんてない。
その事実こそが、力を求めて罪を重ねた代償だ。
右頬に浮かぶ十字傷、それが横切る右の眼球に激痛が走った。
堪らずあいている右手で顔面の右半分を押さえ付けるが、痛みがおさまることはない。
見えない筈なのに、掌で塞がれている筈なのに、傷ついた右目はまだ、崩れていく少女の姿を映し続けている。
堪らずに膝をついた。
もう立ってはいられなかった。
深い青色の髪をした少年を思い出す。
彼ならば、孤独に震える彼女の手をしっかりと握って、温かく包んでやれるのだろうか。
彼女が求め続けるその少年なら、その心を痛みから救うことが出来るのだろうか。
Wは喘いだ。
そして、祈った。
かつて自らが陥れた少年に、みっともなく縋るように。
我ながら無様だと思った。
今更都合が良すぎるとも。
けれど、それ以外にはもう、どうすることも出来なかった。
自分の手で彼女を救う方法なんて、何処にもありはしなかった。
瞼をきつく閉じて、Wは小さく彼の名を呼ぶ。
それが彼女のためなのか、自分のためなのかもわからないまま。
ガラス張りの窓の向こうでは、もう夜が始まろうとしていた。
早く。
早く来てくれ、凌牙。
俺じゃこの子を、護れない。
>>atogaki
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