黒い閃光が、視界の端から端へと横切った。


「ッ…………くっ!!」


不意を突かれたWが、丸めた新聞紙をがむしゃらに振り回す。
明確な殺意を持って振り下ろされたそれはしかし空を切り、虚しく床を叩くだけだった。


「くっそ……また逃がした!Vィ!奴が何処に入ったか見えたか!?」

「ご、ごめんなさい兄様…ッ!僕にはその姿すら…」

「あ゛ァ!?ちゃんと見とけって言ったじゃねぇか!あとお前はスプレー持ってんだから積極的に使え!!オレが打撃で誘導するから先回りして吹きかけろ!!」


Vの隣で完全に頭に血を昇らせたWは「あ゛ー!!」と叫びながら地団駄を踏んだ。
いつもは仕事帰りで疲れの溜まった主人を癒してくれるWの自室は、ある存在によって生きるか死ぬかの戦場へと変えられてしまった。
掌に収まる程度の大きさのそれは圧倒的なスピードで動き回り二人の視界を錯乱させる。
攻撃を仕掛けてもいとも簡単にそれを避け、嘲笑うように部屋中を掻き回す。


「ふざけんな…クソッ……たかが…ゴキブリの分際で!!」


見た目に反して神経質なWにとって自分の部屋に一匹でもそのような虫が存在すること自体あってはならないというのに、簡単には始末出来ず何度も姿を現すというそのしつこさがまた彼の苛立ちを増幅させる。

実際にゴキブリそのものを視認したことのないVにとってその存在の深刻さは計り知れないが、いつも以上に熱くなっているWの様子を見れば事態が異常なことくらいはわかった。


そう。
異常なのだ。
Wと自分、兄弟二人がかりでゴキブリの相手をしているこのシチュエーション自体が。

一般家庭の住宅街でそれが起きているというのならまだ理解できるが、いかんせんここはハートランドで群を抜いてランクが高いと言われるタワーホテルのスイートルームだ。
本来ならば、ゴキブリが出ることなんて有り得ない。


しかしWはそれが自分の部屋の隅に出たと言って譲らないのだ。
その上駆除するにしても一人では闘えないというので本来ならば無関係なVまでもが駆り出されている。

――W兄様の部屋に住み着くだけならともかくこんな虫一匹のために僕までこんなことさせられるなんて本当にいい迷惑だよな――そんなことを思いながらVは密かに顔をしかめた。



思い返せば昨夜、自室で一人眠りについていたVのもとをWが訪ねてきたのがそもそもの始まりだったのだ。

静寂を破る乱暴なノックの音が聞こえてきたかと思うと、瞼を持ち上げた瞬間ベッドの脇に立つWの姿が飛び込んできた。


『今日から俺、お前の部屋で寝るから』

『………はい?』


自分とは色違いのパジャマを身に纏い登場した兄の口から発せられた言葉の意味が、Vにはまるでわからなかった。

唇を固く引き結び、羽毛布団にくるまりながら枕を抱きかかえるその姿はまるで遠い昔に絵本で見た"故郷から遠く離れたストレスで夢遊病になってしまったアルプスの少女ハイジ"のよう。
しかし残念ながら目の前にいるのはハイジでもましてや少女でもない、十七歳の少年だ。

正直言って、怖かった。

自分より年上、しかも男がそんな姿で『お前の部屋で寝るから』などと言い出す絵面は危険、というかそれを通り越してかなりシュールだ。
これは何か悪いことの予兆なのだろうか。
遂に兄もそちら側に目覚めてしまったということなのだろうか。

しばし対応に迷った後、Vは出来る限り相手を傷つけないような言葉を選んでそれを口にした。


『あの……兄様、言いたいことはわかるんですけど…その、僕たち兄弟…というかその前に男同士ですし……
いえ違うんですよ、そういうのが嫌とかじゃないんでよ、あっすみません、やっぱり嫌ですけど、別にW兄様と一緒に寝るのが嫌っていうことじゃなくて、もちろん兄様のことは人としては好きなんですけどなんていうか、そういう方向にいくのはちょっと怖いっていうか――』

『違ぇよ。さっきの一言だけでその発想に辿り着くお前の方が怖ぇよ』


必死に考え出した言い訳をピシャリと遮られ、Vはやや気を悪くした。
そうじゃないなら一体何だと言うのか。
この部屋で寝るのが目的というわけではなく、何かWを自分の部屋では寝られなくしている原因でもあるのだろうか。

訝しげに眉をひそめるVを見てWは何かを悟ったのか、今度はげんなりとした表情を見せた。


『……だよな……その反応ってことはお前の部屋には出てないってことだよな……
でもな…出たんだよ……俺のところには……
……ゴキブリ』

『…………』


耳慣れない単語に、Vは聞き間違いかと思わずにはいられなかった。
必死に頭を働かせて、なんとかそれを意味のわかる言葉に変換する。


『………………、
………あぁー、今日対戦したデュエリストのエースカードのことですか?確かインヴェルズ・ローチっていう…あれは確かに強敵でしたよね、高レベルモンスターが出せなくなるっていう――』


『違ぇよ。まだ寝ぼけてんのか?
ゴキブリだよ、ゴキブリ。本物の。あのカブトムシでもクワガタでもない……わかんだろ?』

『…えっ………?
…いや、でも、ゴキブリってあのゴキブリですよね?汚いところにしか出ないんじゃないんですか?
いくらW兄様の部屋が汚いっていってもここは長期滞在者用のスイートルームですし、ルームサービスだって行き届いてるっていうじゃないですか。
こんな清潔なところにゴキブリだなんて…有り得ませんよ。見間違いじゃないんですか?』


にわかに信じられない話にVが否定を繰り返すが、何を言われてもWはひたすら首を振る。


『いや居た…絶対居た!さっき寝ようと思ったら枕元にいたんだよあいつが!!
もう二度とあんなところで寝れねぇ…気持ち悪ぃ……
頼むからこのホテル離れるまでお前の部屋で寝かせてくれ、ホント頼むから。

あと俺の部屋は汚くない』

『汚いから居るんですよゴキブリが……
僕の部屋で寝るって毎日ですか?ベッドが狭くなるから嫌ですよ…』

『嫌とか言うな。お前のベッド狭い苦しみより俺のゴキブリと寝る苦しみの方が間違いなくでかい。
どうしてもここに俺を寝かせないっていうならゴキブリ駆除の手伝いでもしてくれんのか?』

『なっ……それも嫌です!
ゴキブリ一匹くらいでなんですか兄様は!実害があったわけじゃないのに気にしすぎでしょう!』


頑なに拒否するVにWは落ち込んだように俯いたが、それでも諦めきれなかった様子で暫くすると『じゃあ、』と静かに口を開いた。

『…お前はこのままその存在を無視して生活し続けろっていうのか?
もし奴らが繁殖して、俺の部屋を前線基地にお前の部屋やリビングまで侵略してきたとしてもお前同じこと言えんのか?』

『………! なっ……』

『お前は侮ってるかもしれねぇけどな、実物は相当気持ち悪いからな。
あいつらと一緒に生活することになんだぞ?それで高貴な心がどうとか言えんのか?
俺達の生活圏があの気色悪い虫の根城になんだぞ?お前はそれでもいいのか?』
『…………
…それは…………』


脅し文句のようなWの言い分に、Vは言葉を詰まらせた。

確かに、困る。
Wの部屋だけならまだしも、自分の部屋にまで来てしまうのは非常に困る。

優雅なティータイムをゴキブリに邪魔されるとなれば溜まったものではない。
自分が寝ている間にベッドと壁の間をゴキブリがまかり通るなど想像しただけでゾッとする。

例外的なある一定期間を除けば今まで清潔な場所で育ってきたという自負があるVは、当然ゴキブリの実物など見たことがない。
テレビなどに映るそれを知る程度だ。

だが、その生物が世界中で忌み嫌われている"台所なんかに住み着く気持ち悪い虫"であることくらいはわかる。

実物を見るのは勿論嫌だが、一緒に生活するのはその数百倍も嫌だ。
そのようなことが一瞬でもあればVの人生に於ける黒歴史となることはほぼ間違いないだろう。

Wの部屋の実態がどうなっているのかは把握しきれないが、やがてはフロア全体が害虫に侵食される可能性まで掲げられたVに頷く以外の道はなかった。


『……わかりました、やりましょう。
ゴキブリ駆除、僕も手伝います。
とりあえず今日だけはここで寝て、明日殺虫スプレーを買ってから兄様の部屋に行ってゴキブリを捕まえましょう』

『…………絶対だぞ』


じとりと見つめるWの瞳が、Vはもう逃げられないことを語っていた。



――そんなわけで今に至り、VもWの部屋のゴキブリ退治に手を貸すことになったわけだが。
まさか、ここまで手間取らされるとは思ってもいなかった。

確かに事に関してVが軽く受け止めすぎていたということもあるのかもしれない。
不潔で気持ち悪いと言っても、相手は所詮昆虫一匹。
見つけ次第片手に持った殺虫スプレーをかけて潰して終わりだろう、その程度に考えていた。


しかし蓋を開けてみればどうだろう。

まずVを驚かせたのはそのスピードだ。
元々速いらしいということはきいていたが、実物のそれはVの想像を遥かに凌駕していた。

Wが「いたッ!!」と叫べばベッドの下やデスクと壁の間などへ光の如きスピードで逃げていく。
あいつだと指をさされても一秒後には別の場所に移動しているので、Vはまだその存在を黒い影としてしか認識出来ていない。

そして今回WやVを更に唸らせているのは、その予測不可能な動き。
ベッドの下に潜ったと思いその付近で待ち伏せすれば次は戸棚の裏など全く別の場所から出てくる。
時空間移動でも使えるのかと思わせるほどだ。

重力を無視して部屋中を這っていくその存在はかなり不気味だし、何より気持ちが悪い。
身の毛が弥立つとはこのことだ。

これがベッドの脇で這っていたとなれば、確かにWが自分の部屋で寝たくないと言い出すのも無理はないのかもしれない。


「――いいか?あまり俺から離れるなよ。認めたくない事実だが今回の敵は一人じゃ仕留められねぇ。
見つけたらすぐにスプレーで動きを封じに行け。新聞紙で殴るのはその後でいい。
あと殴るとき全力は出すな。下手すれば当たった瞬間死体が部屋中に四散して大変なことになるからな。動けなくなる程度でいい。
その状態でティッシュに包んでからバラバラにしてやる」


先程よりいくらか冷静さを取り戻したWが早口でVに指示を飛ばす。

目障りな敵を消すべく計算する――これこそ彼がその本領を発揮する瞬間だ。
Vを驚かせるほどの計画性と残虐性で一番確実に相手を抹殺する方法を導き出す。
敵にすれば恐ろしいであろうが、味方となればこの上なく頼もしい。


小さい頃からずっと見つめてきたその背中は、いつも以上に大きく見えた。
いつだって彼は、家族のために闘っている。
その身を汚してでも、Vたち家族を守ってくれる。

そんな彼の背中を見るのが、Vは好きだった。
衣服に染み付いた汗や土埃の一つ一つが、Wの想いそのものを示している気がした。


と、その時。


(………………あれ…?)


背中を向けて立つWの服の端に、真っ黒な染みが付いているのを見つけた。


――いや、よく見たら真っ黒というわけでもない。
電灯を僅かに反射して、鈍く光っている。
汚れにしては、それは生気がありすぎる黒だった。

楕円状の本体から伸びる針か糸のような何か。
そのうち二本は、ゆらゆらと不規則に揺れている。


(……………)


どうしてかわからないが、鼓動が速まり、全身の毛が逆立つ気がした。
いつかこんな姿を、テレビか本で見たことがあった。

というか、ついさっき、これと似たものを見たような気がした。


(………………嘘、だ)


やがて疑惑は確信に変わる。

黒点の位置が、明らかに数秒前より上にズレている。
これは確実に染みなどではない。
Wの服にしがみつく何かだ。


静けさのなか音もなく動きだし、しだいに加速していくそれは――



「―――ごぎやあァァぁぁあ!!!!!!!」



爆発するように胸の中に広がった恐怖に支配され、Vは絶叫と共に手にした新聞紙の筒を槍のように引き、全力で突きを繰り出した。
ゴッ!という音と共に不意に背中を貫くように打たれたWは悲鳴をあげるが、間一髪でそれを躱した標的は勢いよくWの背中から飛び立って行く。


「ケホッ……――ッてェエ!!Vテメェ何しやがる!!」

「も、もも、申し訳ありません!!だって兄様の背中にゴッ…ゴキブリが……ッ!!」

「まずスプレーかけろって言っただろうが!!
真っ先に潰しにいってんじゃねぇよ!!俺の服をゴキ汁まみれにするつもりか!!しかもなんで突き!?」
「ごめんなさい!ごめんなさい!!」


背中の痛みにのたうち回りながらも顔を真っ赤にして叫ぶWにVはただひたすら頭を下げることしか出来ない。
そうしている間にも黒い悪魔は耳障りな羽音を響かせて家具から家具へと飛び移り、瞬く間にその姿を眩ませてしまう。


素早い足の動きに飛翔能力。
それは変幻自在な動きで二人を惑わせ、モノもプライドも何もかも蹂躙していく。


「くそッ……!!許、さねぇ…許さねぇ!!この虫ケラがッ!」


ゲホゲホと咳き込みながら床に伏せる姿勢となったWが既に姿を消した敵に向かって叫ぶ。
傍(はた)から見たその光景は虫一匹に人間が屈している図に見えなくもなかった。


「……兄様…………」


部屋中を見渡すが、さっきまで部屋を飛び回っていたゴキブリの姿はもうない。
再び物陰に隠れて二人の背後に忍び寄る機会を狙っている。

第一線でそれを追っていたWは未だ動けず腹部をおさえて床に踞っていた。かなり苦しそうだ。
Vが思いきり突いてしまったせいで、あと数分は思うように動けないだろう。


「くっ………」


Vは手に持つ新聞紙をぐしゃりと握りしめた。
自分が余計なことをしなければ兄は既に標的を仕留めていたのではないか。そんな考えが頭を過った。
足手まといにしかなっていない自分に、どうしようもない苛立ちを覚えた。

左手のなかにあるこのスプレーは力なき自分にWから与えられた武器であると同時に信頼の証だ。
二人で闘おうというメッセージだ。

それを使わなくてどうする。
何も考えず腕を振り回すだけでは決してこの敵は倒せない。


Wに協力すること。
それ自体、最初は嫌々だったかもしれない。
虫一匹のためにここまでするなんて馬鹿げているかもしれない。

けれど今では本気で、彼のためにあの憎たらしくて汚ならしい虫をこの部屋から取り除いてやりたいと、そう思った。

今まで忘れていたのだ。
自分にとって、何が一番大切だったのかを。


「………W兄様」


痛みを堪える兄の名を呼ぶ。

彼には、自分がいる。
一人で闘っている訳じゃない。
どんなときにも傍にいる。
それが兄弟というものではないか。

固い決意を胸に真っ直ぐな視線を投げ掛けて、Vは言った。


「僕が、間違ってました。
大切なものを見落としてたんです―――最初からずっと、変わらなかったんだ。
僕の望みは、兄様たちの役にたって、家族の笑顔を取り戻すこと。それだけだったんです。
捕まえましょう、ゴキブリ。
僕はいつだって、兄様の傍にいます」

「……え?
………………おぉ」


Vの心境の変化についていけていないのかWの反応はいまいち思わしくなかったが、Vはばちんと自分の頬を叩き気合いを入れ直した。


「さぁどっからでもかかってこい!!僕が必ず仕留めてみせます!」


立ち直ったVに喚起されたようにやがてWもよろよろと立ち上がる。
その瞳はまだ、死んではいない。
前を見据える深紅には、燃え上がるような闘志が秘められていた。

二人は背中合わせに立ち、全方位からの攻撃に備えた。


静寂が訪れる。
先程まで靄がかかっていた視界は見違えるほどクリアで、思考も驚くほど冷静だ。
整った呼吸の音だけが、二人の鼓膜を微かに震わせていた。

この世界にはVとW、そしてあの昆虫しかいない。
時間が止まったかのように空間には変化がなく、窓から広がる柔らかな光と静けさが風が吹いただけで崩れてしまいそうな危うい均衡を保っていた。

その間にも決して警戒は解かず、指先まで行き届いた神経はじりじりと疲弊していく。
それでも二人は五感の全てを研ぎ澄まし、ただ来るべき時を待った。


そしてVが場を支配する緊張感に滴る汗を拭おうとしたその瞬間、


「――来たぞ!」


黒い影がベッドの下から再び姿を現した。
力強く床を蹴り飛び出したWは、今度こそは逃がすまいと瞬く間に一撃目を繰り出した。
神速とも言える速さで空間を切り裂いた新聞紙だったが、惜しくも床を掠めるだけに終わる。

が、


「V!壁だ!!」

「わかってます!!」


張り付いたのは真っ白な壁の中央。
待ち構えていたVは空間を塗りつぶすように容赦なくスプレーを吹き掛ける。
毒を浴びせられ標的は堪らず飛び立つが、輝きを失ったその翼に今までの力はない。


「――遅ぇよ!!」


大きく振りかぶったWの手からブーメランのように放たれた新聞紙がその半身を掠めると、バランスを大きく崩した翼は制御を失い、黒体が描く軌道は瞬く間に下がっていく。

元々羽そのものが長時間の飛行に適していないことはわかっていた。
すぐさま高度は零となり、着地後は慣性に従って走ると決まっているのでその動きを読むことは容易い。

読み通り標的は低空を移動していたのと同じ方向に這っていった。
逃がすまいとその上から追い討ちのようにスプレーを噴射させたVはそのまま空になった缶を投げ捨て、利き手に丸めた新聞紙を握った。

さっきまで目にも止まらぬ速さで動いていたゴキブリは満足に飛ぶことも走ることも出来ずその場で暴れまわるだけだ。
恐らくこの一撃で、決まる。

心臓がうるさいくらい激しく脈打ってのがわかった。

震えている。

けれど、怖くなんてない。
心を支配していたこの虫への恐怖と嫌悪感は、もうなくなっていた。
あるのは、勝利への確信と、ここまで闘ってきたという誇りだけ。
人間である自分達をあそこまで追い詰めたこの相手に、最大限の敬意を払おう。

丸めた新聞紙を腰の位置まで持ってきて、居合い斬りの形をとった。
死体を四散させぬよう新聞紙を太めに持ち、軽い、けれど素早い一閃を狙う。

最後に今まで闘ってきたこの黒き好敵手に対して、永遠の別れを告げた。



「――さよなら」


それは、一瞬のこと。

短い言葉と共に水平に弧を描いた新聞紙が、床をのたうち回るゴキブリを薙ぎ払った。
重さのない身体は簡単に吹っ飛び、ぺしゃりという軽い音を立てて白い壁に激突し、止まった。
臓物を潰され瀕死となったゴキブリは二、三度足を痙攣させたが、それっきり、もう動かなくなった。


「………やった…」


部屋の隅で、ものと化した死体を見つめる。

恐るべきスピードで部屋中を掻き回した足はもう動かない。
耳障りな音を立ててその身体を持ち上げた翼はもう羽ばたかない。

光を失った双眸が、一つの生命の終わりを示していた。


机に置かれていたティッシュペーパーを手に取ると、Vは一歩ずつそれに近づいた。
双方、互いの気配に怖じ気づいて逃げることはもうない。

死体をティッシュで包(くる)んでゴミ箱に捨てれば、それで本当に終わりだ。
ティッシュ越しとはいえそれを掴むことに一瞬躊躇ったが、構わずに手を伸ばした、
その瞬間。


ピクリ、と黒い肢体が動いた気がした。


「―――え?」


Vは自分の目を疑った。
見間違いではないかと思った。
そう、思いたかった。

しかしそんな願いも虚しく息を吹き返すかの如く屍は足や触角を痙攣させる。
悪夢の再来とでも言うべきか。
死体が蘇る不気味な光景が、Vの胸を鷲掴みにした。

やがてそれは全身を震わせ、バチバチと火花を散らすように羽を鳴らし始めた。


「――よけろV!!」


異変を感じ取ったWが咄嗟に叫ぶが、もう遅い。
一瞬後には、黒い物体が弾丸のごとくVの顔面目掛けて飛翔した。

死んだように見せかけていたのは、VやWを油断させるためのフェイク。
警戒心をといた敵を上手く誘き寄せ逆襲の機会を窺っていたのだ。

仕掛けられた罠に気付くまで、ものの0.1秒。
それでも間に合わない。


気付いたときには既に、Vの視界は汚らわしい黒で覆われていた。


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