「……………ハァ」
ゴキブリとの激闘から一夜明けた朝のこと。
いつも通り紅茶のカップをテーブルに並べるVのすぐ傍では、新聞を広げたWが大きく溜め息を吐いていた。
ソファに座るXも隣でWが持つ新聞をまじまじと見つめる。
その一面には世間的には不可解な、そしてWにとっては非常に不名誉な記事が大々的に掲げられていた。
『極東チャンピオンW、滞在先ホテルを爆破 スプレーに引火か』
誰のせいかねぇ、とWがねちっこい視線をVに投げ掛ける。
首を振ることにより全力でそれを受け流そうとするVだったが、「お前だよ、お前」という声がすぐさま飛んできたため誤魔化すことも出来ず、大人しく上目遣いで視線を合わせた。
兄二人によるとこの爆発事故の原因はどうやら自分にあるらしい。
らしい、というのはV自身その時のことをはっきりと記憶しているわけではないからだ。
昨日の映像を脳内で再生しようと試みても長い苦労の末やっとゴキブリ仕留めたと思ったところまでは憶えているのだが、その直後、顔面への一撃を喰らってからは記憶がぷつりと途切れている。
意識を取り戻した時には部屋は既に焼け野原と化しており、その中央にぽつりと立つWが悲哀に満ちた目で虚空を眺めていた。
一体どうしたのかと消火器を手に持ったXに話を振ってみたところ、
ゴキブリによる顔面への直接攻撃を食らい激昂して我を忘れたVが空になったスプレー缶に火を放ち、Wの部屋ごとゴキブリを爆破したというではないか。
消火作業が迅速に行われたため被害はWの部屋だけに留められたらしいが、一歩間違えれば大惨事である。いや、一歩間違えなくともこの大惨事だが。
勿論Vにそんな記憶はないが、責め立てるようなWやXの視線を浴びせられてしまえば言い逃れなど出来る筈もない。
思い返せば確かにゴキブリによる特攻がVに修復不可な精神的ダメージを与えたのは事実だし、そんな状態の自分が我を失いそのような行動に出てしまったというのなら大体納得は出来る。
たかが虫一匹相手にどうしてそこまでするんだ。
いつか自分が発したのと同じような言葉を兄二人から投げ掛けられたが、Vからしてみれば「じゃあもし僕と同じ目に遭ったとしても、兄様達はそんなこと言えるんですか?」という話である。
他人から見れば『ゴキブリが顔に張り付いて嫌だったらしい』というただそれだけのことなのだろうが、事がそんな単純でないことをVは誰よりも知っている。
失うのだ。
人間としての尊厳といえる、何かを。
その瞬間脳は考えることを放棄し、胸にはぽっかりと孔があいたような空虚感だけが残る。
そして何もかもなくなってしまえばいいという衝動に包まれるのだ。
彼らはこの気持ちを知らないからあんなことが言えるのだろう。
なんなら試しに彼らの顔面に素手で鷲掴みにしたゴキブリを投げつけてやりたいと思う。
それで相手が正気を保てず発狂でもしたら、「それみたことか」と指をさして笑ってやろう。
そんなことを考えてしまうくらい、今のVの心は荒みきっていたのだった。
「でもさぁ、ホントVもWもお騒がせだよねぇ。ヘアースプレーにうっかり火を近づけちゃうなんてさ。
どうしたらそんなことになるの?」
何も知らないトロンがショートケーキにフォークを突き立てながら、愉快そうに笑った。
問いかけられても誰一人答えようとせず、新聞紙で顔を隠したWが「…すいません」と小さく呟くだけだ。
この一件の真相を、父親であるトロンには秘密にしようと提案してきたのは長男のXである。
そう言い出したのは単に彼が騒ぐ弟二人を放っておいた自分の管理不行き届きを咎められるのを恐れただけとも考えられたが、VとWは何も言わず首を縦に振り承諾した。
自分達としても事情があるとはいえゴキブリ一匹のために高級ホテルの一室を木っ端微塵にしたなどとは、情けなさ過ぎて言えやしないからだ。
息子達の微妙な反応を見てトロンは首をかしげたがまぁいいか、とその話題を打ち切ってケーキを口元に運んだ。
「――ところでさ。全然関係ない話なんだけど」
一家の主たる少年は口をもぐもぐさせながら思い出したように言う。
やっとこの話題から離れられたとVは密かに胸を撫で下ろしたが、次の瞬間彼の口から出てきたのはその場にいた誰もが自分の耳を疑うような言葉だった。
「――君たちの部屋で割と大きくて黒い虫が這い回ってるの見なかった?
こないだまで籠にちゃんと入ってたはずなんだけど、一匹逃げちゃって困ってるんだよねぇ」
「――!?」
聞いた瞬間、三人の呼吸が止まった。
思い当たりのありすぎる問い掛けに、WとVは目を白黒させる。
―――まさか。
――あいつじゃ、ないよな。
辛うじて平静を装ったXが恐る恐る口を開いた。
「トロン…具体的には、それはどのような虫で………」
「うーん、ストレートに言えばゴキブリ、かな?
テレビに食用のやつが映ってるの見て、面白いなーって思って取り寄せたんだよねぇ。
話によればエビみたいな味がするらしいよ?食べてみたくない?」
「…………………」
「…………………」
「…………………」
何も、言えなかった。
遠慮しておきます、の一言さえ出てこなかった。
下を向いたまま、誰一人トロンの顔を見ようともしなかった。
三人ともやるせない気持ちで一杯だった。
普段は性格がなかなか噛み合わず喧嘩の多い兄弟だったが、この時だけは、三人の心は一つになっていた。
(――――――お前かァァァァア!!!)
>>atogaki
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