――――…いない。
冷たい空気が漂う部屋のベッドを見下ろす。
何時も通り朝起きて、伯爵を起こしに来たのに、その起こすべき主人のベッドはもぬけの殻だ。
シーツは既に冷え切っているので随分前に起床したらしい。
伯爵の部屋を出て食堂に行くと、わたしとイルの分の朝食が用意されていた。
「セナ、伯爵はー?」
席に座っていたイルが小首を傾げる。
「伯爵はもう出掛けてしまったみたいです。わたし達だけで朝食は頂きましょうか。」
「はーい。」
イルを待たせるのも可哀相だし、朝食が冷めてしまってはコックに申し訳がない。
定位置に腰掛けて朝食を食べる。
わたしは伯爵の従者だけれど毎日何をするか把握しなければいけない訳でもない。
ましてや主人の行動に口を挟むことは立場的に考えると不要なのだろうが、何か釈然としないのだ。
「今日はセナはどうするの?」
「わたしは伯爵のお部屋で調べ物をするつもりですよ。イルは今日もお勉強ですか?」
「うん、今日はしつじさんに計算をおしえてもらうよ。」
「頑張ってくださいね。」
意外とイルは勉強が好きなようで、毎日毎日飽きもせず読み書きや計算を使用人から習っている。
ニコニコ顔のイルの頭を撫でてやり朝食を食べ切った。
それからもう一度伯爵の部屋へ行き、静かな室内を見渡して大きな机をジッと観察してみる。
インク壷の中身が大分減っている。そういえば夕食時に呼びに来たら伯爵の服の袖口が汚れていたっけ。
読みかけの本や地図などが置かれている中から大きな定規らしきものを手に取る。
固まったインクが僅かに付着しているので使用したのだろう。
何枚もストックのある地図の枚数を数えてみれば、数が一枚足りない。
「もしかして、伯爵も何かの事件を追ってるとか…?」
早朝から出掛けたのは、わたしを付いて来させないため?
だとしたら何で一言も言わないのだろう。
――…いや、伯爵のことだから敢えて黙っていたのかも。
今のわたしはキースから頼まれた学院の件に着手している。
何だかんだ気遣いのある人だし、わたしのことを考えてくれたんだろう。
話を聞いてしまえばわたしは多分首を突っ込むはずだ。それを見越して言わずにいるのなら納得も出来る。
「………伯爵ってば、相変らず不器用なんですから。」
口に出して言えばいいのに本心をなかなか言葉にしない主人に苦笑してしまった。
これ以上調べても伯爵の行き先の手掛かりはなさそうだし、読めそうな本を探して部屋で読もう。
壁際の本棚にはギッシリ本が詰まっている。背表紙を見て数冊を抜き取り、伯爵の部屋を出た。
自室に戻り借りてきた本の表紙を開く。
伯爵の方も気になったが、明日のためにも読書に集中しよう。
気持ちを引き締め、わたしは医学書の古い活版印刷の文字に視線を落とした。
馬車から降りようとしていたクロードはふと名前を呼ばれた気がして顔を上げた。
だが今居る場所に知り合いはいないし、そもそも来るはずもない。気のせいかと首を捻って地面に足を付ける。
御者に待っているよう言付けた後は地図を見ながら失踪者が最後に訪れた場所に向かう。
その区画はどちらかと言うとあまり金を持たない者達が暮らしており、街並みも大通り付近に比べると随分簡素なものであった。
けれども、地方出の者ならばこの辺りで暮らすぐらいが丁度良いのだろう。
現在地に一番近い小さな雑貨屋の扉を押し開く。
こじんまりとした店内は棚が並び、世辞にも良い品とは言えなさそうな質素な生活用品が置かれていた。
日用品を扱う店なら客も多い。失踪者も恐らく、日々の生活に必要な物を求めて訪れたはずだ。
扉の開く音を聞き付けたのか、やや恰幅の良い女性が奥から顔を覗かせる。
「あら、こんな早くからお客さんだなんて珍しい!」
驚く女性にクロードは軽く手を振って否定した。
「いや、私は買い物客ではない。少々尋ねたい事がある。」
「それは残念ねぇ。で、聞きたいことってのは何だい?」
「此の中に見覚えのある人物はいないか?」
店の机を除けて近寄って来た女性に懐から封筒を出し、中身を引っ張り出すと広げて見せた。
数十枚のその写真は失踪者達のものだ。
女性は一枚一枚丁寧に見ていき、大量の写真の中から三枚のそれを選び出す。
「見た事あるのはこの三人かねぇ。他は知らないよ。」
「此の三人について何か思い出せる事は?」
「ないね。一、二回ちょろっと見に来ただけの人らだったから。」
返された写真は女性一人と男性二人のものだ。
持ち運び用のペンで写真の隅に雑貨屋の名前を書き、それを封筒に戻す。
「ありがとう。朝早くから済まなかった。」
「どうせ暇だから構やしないよ。それよりお兄さん、警察(ヤード)か何かかい?前にもその写真見せられたことがあったけど。」
「警察ではないが、似たようなものだ。」
封筒を懐へ入れながら答えたクロードに、女性は「大変だねぇ。」と呆れとも感心とも判断出来ない声音で言う。
それに軽く肩を竦め、「それでは失礼した。」そう言って雑貨屋を出た。
脇に挟んでいた地図を広げ、次の場所を探す。
通りから路地へ入らなければならないといけないようだ。
あまり狭い場所は好きではないのだがなと内心でぼやき、地図を仕舞って路上へ歩き出す。
人が歩く分には問題ないが馬車は入れないくらいの微妙な道幅だ。
そこを歩いて行くと脇の店から数人の男達が出て来て、クロードには気付かぬまま道の先へ消えて行く。
少々千鳥足だった背中を見送った後に男達が出て来た店を見遣る。
地図をもう一度広げて確認した。此処は酒場か。
扉を開ければ酒気が漂ってくる。
小さな酒場の中には一人か二人程度しか客がいない。もう朝なので先程の男達のように帰ったのか、元々あまり繁盛していないのか。
「すまんね、もう店仕舞いの時間なんだ。飲むなら他を当たってくれ。」
ワイシャツ姿の中年男性が申し訳なさそうにカウンター越しに言う。
「悪いが酒を飲みに来た訳ではない。見覚えのある人物は此の中にいないか?」
封筒から写真を出してカウンターに広げると、男性はしげしげと眺めた。
何度か視線を写真の上に滑らせた後に、その中の一枚を指差す。
「うん、やっぱり。この人は何度か来たよ。」
「では、此の人物に関する事で何か思い出せる事はないだろうか?」
「そうだなぁ…。」
男性は悩んだ風に視線を宙へ投げかけた。