暫く虚空を見ていたが、不意にグラスを拭く手が止まり、そういえば…と記憶を手繰り寄せながら言葉を紡いだ。
「来る度に、酔い潰れるまで飲んでいたね。でも近くに住んでるだが泊まってるだかで、閉店ギリギリまでよく居たよ。」
「そうか。」
ペンで写真に店の名前と、男性の話を書き込み、並べていた写真を手早く封筒に入れる。
振り返ると酔い潰れた数人の客は寝てしまっているようだった。
「ありがとう、邪魔をしたな。」
「いやいや、これくらいお安いご用だ。」
「そう言ってもらえると此方としても助かる。では私は此れで失礼させてもらう。」
「あぁ、機会があったら今度は飲みに来てくれ。」
男性の誘いに背を向け、軽く手を上げて応えると扉を押し開ける。
酒場から出て、路上で一旦大きく息を吸い、吐き出す。酒の匂いが強く、途中で鼻が利かなくなっていた。
再度深呼吸をして新鮮な空気を肺いっぱいに取り込んでから、やっと地図を見る。
まだ酒臭さが残っている気がしてクロードは眉を顰めたが、溜め息を吐いて地図を閉じた。
そして路上から脇道へ入って道なりに真っ直ぐ進めば別の路上へ出る。
左右を確認し、右手側の道を行く。
暫し歩いた左手側に店があった。
店先には‘CLOSED’の文字がかけられているけれど、中に人の気配が感じられ、扉のノブを捻る。
扉を開けて入ると多分夫婦なのだろう女性と男性がいた。
気付いた男性が胡乱な眼差しを隠そうともせずに近付いて来る。
「悪ぃな、まだ店は開いてないんだが。」
体格の良い男性は固い声だ。クロードはそれ以上警戒をさせないよう、ゆっくり懐に手を伸ばす。
「生憎私は客では無い。少々聞き込みをして回っているのだが、協力してもらえないだろうか?」
「聞き込み?」
「あぁ、此の中に見覚えのある人物はいないか?」
封筒から写真を出して男性に手渡す。男性はジッと写真を見、首を傾げて店の奥から此方の様子を窺っていた女性を手招いた。
女性も傍に来て写真を覗き込む。
「あっ!」と声を上げて女性が写真に齧り付き、穴が空くのではと思う程見つめた。
「この人って、あそこのホテルに泊まってた人じゃない?あ、こっちの人も!」
「ホテル…?」
「二つ三つ先の路上にある小さな安ホテルよ。この人達が何度か食事しに来てた時に、あそこのホテルは安くて良いって言ってたわ。」
受け取った写真に此の店の名前と女性の話を書き込む。
……ホテルか。行ってみるか?
どうするか考えていれば女性が恐々口を開いた。
「あのホテルに行く気なら止めた方がいいよ。気味の悪い噂ばっかりだし…。」
「噂とは?」
一体どんな内容の噂なのか気になったが、女性は途端に口を噤んでしまい聞き出すのは無理そうだった。
諦めて写真を封筒に仕舞い、懐へ戻す。
「済まなかった、協力に感謝する。それでは失礼するとしよう。」
男女の視線を背に受けながら店を出た。
地図で女性が言っていたホテルを探すと確かに三つ向こうの路地にあるらしい。
…ホテルについても聞いてみるか。
地図を畳んでクロードは小さく息を吐き、踵を返してまた別の脇道へと入る。大小様々な道が入り組む裏通りは家々が密集して立ち並んでいるためか道を歩きながら頭上を見上げると左右に軒を連ねる家の壁が迫って来るような感覚さえ覚えた。まるで檻か迷路の中に放り込まれた気分である。
早朝とは言え人っ子一人擦れ違わない閑散とした空気はどこか底冷えのする静けさだ。
住人には悪いが好んで長居したいとは思えない場所だと微かに顔を顰めて、小さな立て看板が置かれている古物商へ足を踏み入れた。
室内は少し埃っぽさがあり、皿に始まり本や靴、コート、置き時計など様々な物が壁一面の棚に並べられている。
古物商と言えば聞こえは良いけれど要は貴族など上流階級から流れて来た中古品を扱う店なのだろう。銀食器などが良い例で、この辺りの層の者には少々値が張って手が出せない。
それなのに売っているのだから可笑しな話である。
「どちらさんだい、まだ店はやってないよ。」
所狭しと置かれた物を見ていたクロードにつっけんどんな声がかけられ、顔を棚から離す。
振り返ればかなり年配の老翁(ろうおう)が杖をついて店の奥からゆっくり歩み出て来た。
「申し訳無いが、今日は買い物目的ではないんだ。」
「何だ、冷やかしならとっとと帰ってくれ。」
にべも無い言葉だったがクロードは気にせず今までと同様に小さめの封筒を取り、中身を出した。
店主であろう老翁にそれを見せる。
「この人々に見覚えは?」
老翁は写真を手に取り少し顔から離して一枚一枚を眺めていく。この店主は老眼のようだ。
時間をかけて全ての写真を見終えた老翁が疲れたような、呆れたような顔で写真を突き返してくる。
「コイツとコイツは見覚えがあるよ。コイツは三年前くらいだったかな、店の中を見た後もだいぶ外をウロウロしてたからね。こっちの奴は半年くらい前に店の前で暴れ出した飲んだくれ野郎だったよ。」
「ふむ…。」
「しかも何ていったって泊まってたのがあのホテルで、ぱったり見かけなくなった時はアイツらもかって思ったがね。」
飛び出してきた単語に思わず目を瞬かせる。またホテルだ。
「それは向こうの通りのホテルの事か?先程も別の所で話を少しばかり耳にしたが、一体どんな噂が流れているんだ?」
クロードの問い掛けに店主は呆れた様子で肩を落とし、傍にあった古椅子に腰掛ける。
「あんた何も知らんのかい、あのホテルは此処いらじゃ‘人喰いホテル’って呼ばれて有名だってのに。」
「そんなに有名なのか。」
「そりゃそうさ。あそこに泊まったら最後、出て行く事は出来ないそうだ。客は何時の間にか消えちまう、だから‘人喰い’なんだよ。」
「……そうか。」
失踪者が頻繁に出入りしていた区画、人喰いホテルという噂。それらを分けて考えるのは難しい話というものだ。
やはり調べる必要性がありそうだと思案していたクロードに店主が「気になっても行くのは止めときな。」と呟く。
年老いてやや窪んだ瞳が仄暗い光りを宿し、椅子の背に体を預けた。
「あんたはまだ若い。死に急ぐ必要もないと思うがね。」
店主は何かを懐かしむように目を細めた後、そのまま話は終わったとばかりに瞼を閉じる。
暫しの間クロードはその姿を見つめたが、動く気配がない事に諦めて古物商から外へ出た。
見上げた空は相変らず此の古びた街並みに似合わない程の快晴である。