―――…雨が、降っていた。
土砂降りとまではいかないが、それなりに降る雨は道に水溜まりを幾つも作っている。
お世辞にも綺麗とは言い難い凹凸のある石畳の、薄暗い路地のような場所。
その片隅に何故かわたしは座り込んでいた。
何時からここにいたのか分からないけれど、服がびしょ濡れになっているから短くはないと思う。
…どこだよ、ここ。
自宅どころか生まれ育った街にはこんなヨーロッパみたいな場所はない。
今の御時世、きちんと慣らされていない石畳も少ない。
記憶を辿ってみたが途中で切れてしまった糸のように、手繰り寄せてみても分からなかった。
……寒い。七分丈の上着とジーパンは濡れ、冷たくなっている。
このままじゃ冗談抜きで風邪を引く。
せめて屋根のある場所に移ろうと地面に手を付いた時、路地の奥からパシャパシャと水を撥ねる音がした。
今度は何だと身を硬くして暗闇を見つめていれば人影が姿を現す。顔は見えないが背格好からして男だろう。
わたしが気付いたように、男もわたしに気が付いたのか立ち止まった。
雨を避けるために頭から株っていたのだろう上着から、男の顔が露(あら)わになる。
銀灰色の髪にブルーグレーの瞳。整った顔立ちのせいか、色素の薄さが相まって冷たそうな印象を持たせた。
たっぷり数秒、男はわたしを見つめた後に口を開く。
「こんな夜更けに、子供がこのような場所で何をしている?」
落ち着いた低い声音は男によく似合っている。
「……そんなのコッチが聞きたいくらいだよ。」
気付いたら訳分かんない場所にいるし、びしょ濡れだし、現在地が分からなければ帰れないじゃないか。
半ば八つ当たり気味に吐き出した言葉に男が「ふむ、」と顎に手を添えた。
「……そうか、迷子か。」暫くの間があって、男がそう呟き歩み寄ってくる。
そんな簡単な話じゃないっての。
睨み付けるために男へ視線を戻すと、白い手袋のはめられた手が差し出された。
思わず男の顔と手を交互に見たわたしに、若干呆れた口調で男が言う。
「このままでは風邪を引く。とりあえず、私について来い。」と。
場所も行く当ても分からないわたしは男の手を取るしか選択肢はなかった。
ここに居てはいけない。
ただ、その一心だった。
男の背を追いかけて路地を抜けると、馬車があった。――…馬車?
御者らしき人物が扉を開く。
視線を感じたものの気付かないフリをしていれば、男に背を軽く押された。
乗れと言うことらしい。
初めて馬車に乗り込むと、中は結構狭かった。
男も乗り込み、扉が閉まって少し後に馬車はゆっくりと走り出す。
ガタガタ揺れて少々乗り心地が悪い。
馬車に合わせて少し揺れるランタンのようなものを見て、ふっと肩の力が抜けたような気がした。
ぼんやりとしているが明るさがあるだけマシだ。
ランタンから視線を動かして漸く、男がわたしを見ていることに気付く。
「名は?」
ちょっとつっけんどんな問い掛けだ。
「…瀬那。」
「ではセナ、お前は何故あんな場所に居たんだ?」
「知るかよ。…気が付いたら、もうあそこに座り込んでた…。」
本当に訳が分からない。
街並みとか、馬車とか、目の前の男の服装とか。どれも中世ヨーロッパ辺りを感じさせる。
悪い冗談だ。こんなこと、ありえない。
「行く当ては?」
「ない…。」
男は鬱陶しげに濡れた髪を掻き上げ、溜め息を零した。
溜め息を吐きたいのはわたしだってそうだ。びしょ濡れで、まるで時代が戻ってしまったような異国の地に一人放り出されているんだから。
目の前に座る男はもう一度、さっきよりも深い溜め息を吐き出してからわたしを見る。
現代ではお目にかかれないブルーグレーの妙に深みのある綺麗な瞳と目が合った。
けれど何も言わずに逸らされてしまう。何なんだ一体、何がしたいんだコイツは。
やがて馬車の揺れが少しずつ弱まって動かなくなった。
どこかに停まったのだろうか?聞く前に男が立ち上がった。ほぼ同時に馬車の扉が開き、男が先に出て、わたしへ振り返る。
言葉は無かったが‘下りろ’と言われているような気がして馬車を出た。
そして絶句する。…なんだこの馬鹿デカイ屋敷は。
「突っ立っているな。行くぞ。」
男は気にした風もなく屋敷に向かう。傍に執事のような格好をした初老の男がいて、わたしを待つその男へ傘を差しかけている。
執事らしき人物はわたしを見て‘おや?’という顔をしたけれど、すぐに好々爺のように目尻を下げて「此方へどうぞ。」と声をかけてきた。
近付けば「遅い。」と男が一言言って歩き出す。
観音開きの玄関から二階まで吹き抜けのホールが広がり、そこから男は階段を上って二階へ行こうとしている。…わたしもついて行って良いものか。
戸惑っていたわたしに執事が近付いて来て男とは別の場所へ促される。
一階の廊下を抜けて奥の部屋へ向かうと数人のメイドっぽい人々がおり、執事に挨拶をして、それから後ろにいるわたしを物珍しそうに見てきた。
「あら、まぁ…。」
「可哀想に、こんなに濡れてしまって。」
「すぐに湯の用意を致しますわ。」
数人がタオルを持って近付いて来て、何人かは部屋を出て行く。
濡れネズミだったわたしをメイド達が寄って集(たか)って拭いて来ようとするものだから、思わず逃げてしまった。結果としいては揉みくちゃにされたけれど。
タオルまみれになったわたしは執事によってまた別の部屋へ連れて行かれた。
扉の向こうは他の部屋と違ってタイル張りになっていて、わたしが二人くらい余裕で入れそうなくらい大きなバスタブが一つ置いてあった。浴室らしい。
振り返ると執事が相変らず笑みを浮べて頷く。
「体が冷えてしまっているでしょうから、お話は温まってからになさいましょう。」
そう言って「何かお手伝いすることはございますか?」と聞かれたので、とりあえず「出てって。」と言うと頷いて浴室を出て行った。
雨で張り付いた服が気持ち悪い。苦労しながらも服を脱いで、置いてあった石鹸やらタオルやらを勝手に拝借して体を洗う。…シャンプーってどれ?
よく分からなかったのでお湯で軽く流した頭にタオルを巻いて湯船に浸かる。
何の花か分からないけれど乳白色の湯船には青色が鮮やかな花弁が散りばめられていた。