湯船に浸かり出して少しすると浴室の扉がノックされたので、ギョッとした。
間を置いて控えめに開けられた扉から執事の声がする。
「入ってもよろしいでしょうか?」
迷ったけれどシャンプーの事とかも分からなかったし湯船は不透明で中が見えないので、セーフだろう。と執事の問いかけに返事をした。
そっと入室して来た執事は湯船に浸かるわたしにどこか和やかな笑みを浮べて寄って来る。
丁度良かったので髪を洗いたい胸を伝えると、何故か執事が洗ってくれる事になってしまった。
自分で洗うと言っても「これは私の仕事の一つですので、どうかお気になさらず。」と引き下がってもらえず、湯船に浸かったまま頭を洗ってもらった。美容師みたいに洗うのが上手で少しだけ眠くなる。
洗い終えると元と同じようにタオルを巻いてくれた。
「服は此方に用意してありますので、お好きな物をお召しになってください。」
そう告げて浴室を出て行こうとした執事を慌てて呼び止める。
「あの、っ」
「はい?何でございましょう?」
「えっと、ありがとうございます…。」
お風呂だけでなく服まで用意してくれるなんて、普通は無い。
わたしみたいな素性の知れない奴にここまで良くしてくれるし。
執事はニコリと笑うと今度こそ浴室を出て行ってしまった。
体が程好く温まったところで湯船から上がりタオルで体を拭き、用意してもらっていた服を確かめる。ほとんどが七部丈のズボンにワイシャツとベストを合わせて着るようなものばかりだった。
とりあえず白いワイシャツに黒地に暗めの灰色でチェック模様が入ったベストと七部丈のズボンを合わせることにしてみた。
脇に置かれた姿見で見ると少年みたいな姿になっていたけれど、用意されていた服は皆似たようなものばかりだったし、スカートを履く気にはなれないので丁度良い。
しっかり髪を乾かし、適当に髪ゴムを使い肩で纏めて縛っておく。
浴室を出れば執事が待っていたようで笑顔で今度は二階へ連れて行かれた。
そうしてホールから二番目くらいの部屋の扉を開けた。中は机と椅子、ベッド、衣装ダンスしかないシンプルな部屋だった。
「此方が貴方の部屋ですので、お好きに使ってください。」
「え?」
「それでは私はこれで失礼致します。」
執事は止める間もなく扉を閉めて出て行ってしまう。
部屋に一人取り残されたわたしは茫然と締め切られた扉を眺める事しか出来なかった。
それから一週間、わたしはその屋敷でお世話になっていた。
拾われてから男とは一度も会っていない。
ただあの男が‘伯爵’という地位にいること、屋敷で働く使用人の大半はわたしと同じ‘行き場’を無くした者であること、わたしはまだ子供なので仕事をしなくても良いということだけは分かった。
…この世界で十六ってまだ子供なのか?
使用人の人々はわたしを子供扱いして、やれ外で遊ぼう、やれお菓子を食べろと声をかけてくる。
ほとんど断っているのに誰も彼も諦めないから始末が悪い。
「セナ、これとっても美味しいわよ?」
「ほら、こっちも美味しいから食べてみて。」
屋敷の中を逃げ回るのにも限度があるので、大抵誰かに捕まってしまう。
お菓子を差し出してくるメイド数人を見ながら内心で溜め息を吐きたくなった。甘いものはそんなに好きじゃないし、お菓子を食べて笑っていられるほど今のわたしには余裕もない。
というか、どことなくペット感覚で可愛がられている気がしないでもない。
これを食べてみろ、あれを食べてみろと騒いでいたメイドが急に静かになったので顔を上げてみれば、出入り口の扉にあの男が立っていた。
近付いて来たものの甘いものを好まないのか少し眉を顰めてお菓子に視線を落とし、それからわたしへ向き直る。
ソファーの隅に座って膝を抱えているわたしにブルーグレーの瞳が細まった。
「少しは慣れたか?」
慣れる訳がない。テレビも携帯も、電気すらない生活だ。
屋敷の敷地内からは出られないし何もする事がないので一日中ヒマで仕方がない。
一週間も過ごしてしまえば嫌でもこの世界がわたしの生まれた世界とは異なる、別の世界なのだと実感させられた。時間や日にちの単位、一年の長さなどは同じでも、暦も世界地図も国名も何もかもが違い過ぎる。
言葉通り、わたしは世界に独りきりという訳だ。
泣きたいし、本当だったら馬鹿みたいに叫んで暴れたいくらいである。
だけどこの屋敷には何時も誰かがいて、わたしは溜まった鬱憤を吐き出せない。
男は突然わたしの頭を軽く叩いて来た。
「返事ぐらい出来ないのか?全く…。」
呆れとも失望ともつかない声音で呟き男は部屋を出て行く。
パタン、と閉じられた扉の音が酷く冷たいもののように聞こえた。
メイドが何か慰めらしき言葉をかけてきたけれど、よく覚えていない。気付いたら自分の部屋のベッドの中で蹲(うずくま)っていた。
…帰りたい。元の平凡な日常に戻りたい。何でわたしはここに要るのだろう?
暫くそうして毛布の中にこもっていたわたしの部屋の扉がノックされる。
誰かがわたしの部屋に来るのは滅多にない。基本的に執事が朝起こしに来て部屋から出ようとしないわたしを諭して連れ出すくらいのものだ。
居留守を使ったものの小さな扉を開く音が耳に届く。
コツリ、コツリ。来訪者の足音がベッドに近付いて来る。
そうしてベッドの前でピタリと音が止んだ。
「――明日は出掛ける。ついて来るように。」
‘伯爵’と呼ばれる男の声だった。
その声音から感情を読み取ることは出来ない。ただ静かにそう告げると、入ってきた時と同様に真っ直ぐ扉へ向かい、また小さな音を立てて扉が閉められる。
廊下から微かに聞こえる足音が遠ざかってから、やっとわたしは毛布から顔を出した。
まさか部屋にあの男が来るとは思わなかった。
この一週間、会いに来ることも会いに行くこともなかったのに、突然なんで来たんだろう。
それに明日出かけるって…わたしに何か関係あるのか?
聞いてみたかったけれど残念なことに、翌日になるまで男と会う機会はわたしに訪れなかった。