TERZO CASE:Una mano fredda.
夜、人々が寝静まった頃、わたしは机に向かっていた。
だいぶ文字も覚えてあまり難しい内容の本でなければ読める程度になったので、最近ではもっぱら読書ばかりしていたりする。
ふと懐中時計で時刻を確認すると深夜だった。何気なく目の前にある窓のカーテンを僅かに引いてみれば既に西に傾きかけている満月が煌々と輝いている。
…夜更かしし過ぎたかな。
本のページに栞を挟んで立ち上がり、ちらりとベッドへ視線を向ける。毛布には小さな盛り上がりが出来ており、それはゆっくりと規則正しく上下している。
机にあった燭台の蝋燭を消してわたしはそっとベッドに歩み寄った。
薄い月明かりの中で毛布を静かに引き上げるとそこにはイルの気持ち良さそうな寝顔がある。
眠るイルの隣りに寝転べばすぐにわたしよりも小さな体が擦り寄ってきたので、苦笑しつつも抱き締めてやる。じんわりと広がる温かな体温に自然と笑みが零れ落ちた。
イルが屋敷に来てから、少し小さいが専用の部屋が与えられた。けれどイルは一人で眠るのが怖いようで初日から夜になるとわたしの部屋に来てしまったのだ。
勿論伯爵は良い顔をしなかった。むしろ綺麗な顔を少し顰めて「甘やかすな。」と言う。
しかしイルは兄を失ったばかりなのだから寂しいだろうし、夜眠っていると魘されて何度か夜泣きをすることもあった。まだ子供なんだから甘やかしたっていいじゃないか。
つまりは、渋る伯爵を半ば無視して毎晩イルと一緒に眠っている訳で。
正直たまに寝不足にもなるけれど嫌だとか迷惑だと思ったことはない。
イルは大切な弟だし、一緒に眠ることでイルが安心出来るならこれくらい易いもんだ。
…まぁ、最初の頃はわたしが女だったと知らなかったイルが驚いてしまい、落ち着かせるのがとても大変だったが。それも良い思い出になったと思う。
柔らかな茶色の髪を撫でてやりながらわたしも目を閉じた。
「それでセナ、お前は何時までイルフェスと臥所を共にしているつもりだ。」
イルフェスが増え、三人で朝食を食べている時にややぞんざいに伯爵はそう問い掛けてきた。
視線を向けてみればどこか面倒臭そうな瞳がわたしを見つめている。
当のイルフェスは何時ものことながら食事に夢中で話なんて耳に入っていないのだろう。隣りで一生懸命習ったばかりのテーブルマナーを駆使してフォークとナイフを動かしている。
「良いじゃありませんか、まだ子どもなんですから。伯爵、イルにだけ厳しくありませんか?」
「……そうか?子供は甘やかしてばかりでは駄目だろう?」
「厳し過ぎてもダメですよ。甘やかす時は甘やかして、叱る時は叱るという風にしないと。」
「ふむ…飴と鞭か。」
貴方の場合は完全に鞭が多いんですよ。比率的に。
そんなくだらない会話をしていると隣りにいたイルがわたしの服の裾を引いた。
見ると椅子にきちんと座ってこちらを見上げている。
その目は‘誉めて誉めて’と言わんばかりに輝いていて、テーブルの上の皿へ視線をずらしてみれば食べ残しのない皿が並んでいる。周りに少し零れたものがあるのは…まぁ、仕方がないか。
テーブルマナーを教えてからまだそんなに経っていないので慣れるまでは少しくらい大目に見ても良いと思う。
「あぁ、綺麗に食べていますね。よく出来ました。」
「ぼく偉い?」
「偉い偉い。イルは良い子ですよ。」
わたしよりも低い位置にある頭を優しく撫でると嬉しそうにニコニコと笑うイル。
伯爵の胡乱げな視線を感じつつ、残っていた朝食をわたしも食べ終える。
やはり事件がないというのは良い。のんびりと過ごせてとても落ち着く。
食事を終えた伯爵が席を立ってイルを呼んだ。素直についていくイルをわたしは見送る。
これから伯爵の部屋で、二人で読み書きの勉強をするのだろう。孤児院で多少教わっているもののきちんと読み書きが出来た方が良いと伯爵が教えている。
スパルタかなと思ったけれどイルに聞いてみるとそうでもないようだった。
分からない所を聞いて後は自習という感じらしい。その間伯爵は読書をしているとか。
食堂の出入り口で待っていた伯爵の下にイルが追いつくと、大きな手がポンと一度だけ小さな頭に触れて離れていった。照れ臭そうに笑うイルの横顔を見て思わず笑ってしまう。
…なんだ、伯爵だって甘いじゃん。
わたしも立ち上がって食堂を後にした。
廊下を歩いているとふと視界がブレた気がして立ち止まり、壁に手を当てて足元に視線を落とす。
気のせいか、それとも久しぶりに立ちくらみでも起こしたか。
首を傾げながらも顔を上げると廊下の向こう側から歩いてきた使用人が首を傾げる。
「セナさん?どうかしましたか?」
「いえ、何でもありません。」
壁から手を離してニコリと微笑めば「そうですか。」と使用人も笑みを零して去って行った。
自室に戻って、昨夜読みかけの本を読破してしまおう。
そう思うと続きが気になってしまい、わたしは足早に部屋へ向かう。
少し肌寒い部屋の暖炉に火を灯してガウンを羽織り椅子に腰掛ける。栞を挟んだページを広げ、相変わらず文字には見えなさそうな字に視線を落とした。