Venus and Bear
「迅くん、うちのマネージャーの名」
「初めまして。箱学マネージャーの姓名です」
箱学の新開から紹介したい女の子がいると言われたのは高校2年、春のレースのことだった。
奴が連れてきたのは王者箱根学園のマネージャー。
俺でも知っている。去年、箱根学園にとんでもない美人マネージャーが入ったとインターハイで話題になっていた。
「私、ずっと田所くんと話してみたくて」
そんな女子が、何で、俺なんかと話してみたいんだ?
「お、おう…」
「じゃ、名、俺先テント戻るから、あとで約束のボカリ買ってきてくれよな」
「えっ、待って新開っ!」
去り際に新開が耳元で
「名、迅くんみたいなのが、タイプなんだってさ」
と囁くから顔がボッと、赤くなったのが自分でもわかった。
「あ、あの、」
「お…う…」
「わたし!田所くんのことレースでずっと見てて…それで、なんていうか、その、力強くて芯がある走りが、すごく好きで」
「…おう…」
「そ、それで、あの、最初はレースを見てたんだけど……ゴール後控えのテントとかで見かける笑顔とか…力強そうなところとか…も、すごく好きで…」
「…お、う…」
どんどん目の前にいる可愛い女の顔が赤くなっていく。
「あの!彼女になりたいとかそ、そんな図々しいことは言わないので…連絡先、を教えてもらえたら、嬉しいです…その、お友達…でいいので…」
こんな風にこの女に言われて断れる男はいるのだろうか。
終始「おう」しか言えなかった俺はどうにか連絡先を交換してその場を去った。
「田所っち、顔真っ赤ショ」
巻島が不思議そうに俺を見ていた。
***
『田所くんは冬休みは何してるの?』
姓は飽きずに何度も俺なんかに連絡をくれていた。
途中、インハイ後で連絡しにくくなったのだろうか、あまり連絡がこない時期もあったが、それでも今も週に何度か連絡が来ている。
もう幾つ寝るとお正月、そんな曲が流れ出す頃、部活も休みになり束の間の冬休みが始まった。
『なんもしねえな、実家のパン屋手伝うくれえだ』
気の利いたことも言えない俺に懲りずに連絡をしてくれる姓に好意を抱かないわけがなく、かといってどうにかしようと行動する勇気もねえ。というかどうすればいいのかわからねえ。
『もし良かったら、1日、どこか一緒に出かけたりとか、できないかな?』
「!?!?」
思わず携帯を落としちまった。
『あっ、あの、本当にもし良かったらだから断ってくれて構わないから!』
『ごめんね、突然』
『迷惑だったよね、ごめん』
落とした携帯を拾うと姓からのメッセージが次々と送られてきていた。
「ああ、もう、なんて返しゃいいんだ!」
1階から母親に煩い!と声をかけられるほどのデカイ声で俺は叫んでいた。
『迷惑じゃない』
絞り出した答えがこれか、と心底自分の気の利かなさに呆れながら送信する。
『本当!?私千葉まで行くから!』
箱根からか…?女子1人は良くないだろう。
『いや、俺が行く』
それは私が誘ったのに悪いよ、と何度も遠慮されてしまい、中間地点の横浜で会うことになった。
***
まずい。姓と遊ぶことになったはいいが、どうしたらいいのか全くわからねえ。
女子と2人で出かけたことなんてない。
「金城…ちがうよな、巻島…あーもう…」
相談相手に適役な奴が全く思いつかねえ。
本当は先輩としてカッコつけたくて相談したくなかったが、唯一、まともな経験がありそうな後輩に連絡を入れた。
『手嶋今いいか?』
『お疲れ様です!大丈夫ですよ!』
『自転車の話じゃねえんだが、聞きたいことがある』
『はい!何でしょうか』
『彼女いたことあるか?』
暫く返事がこない。
やっぱり聞かなきゃ良かったか…
『中学生の頃、人並みには…今はいませんよ!』
よし…
『女と出かける時に気をつけたほうがいいことはなんだ?』
また返事が来なくなる。
『田所さん、デートするんですか?もしかして箱学の美人マネージャーさんですか?』
「っ、あーーー!!!」
思わず叫ぶと、また下から母親に、いい加減にしなさい!と怒られた。
手嶋になんで相手がわかるのかと問うと、レースの後、よくテントの外で田所さんと話してたみたいなんで、すげえ美人ですよね!と言われ後輩の観察力に脱帽するとともに、やっぱりなんであんな美人が俺に興味を持ってくれるのか、不思議でたまらなかった。
***
恥を忍んで気をつけた方がいいことを手嶋に聞き、ついに当日を迎えた。
まず、待ち合わせには先についた方が良いと手嶋に言われたから、30分前には待ち合わせ場所に行った。
姓が現れたのは10分前だった。
「た、田所くん!お待たせしてごめんね。あの、今日はありがとう!」
姓が現れると周りにいた男達がザワザワしだす。
だよなあ。なんで俺と…。
マスコット的な愛着、みたいなやつか…?
「どこ、行こうか」
「映画とか、観るか?」
最初のデートなら映画か水族館だと話題に困らないと手嶋に言われた。
殆どが手嶋直伝の知識なのか癪だが、しょうがない。
「うん、たまに!観よっか」
映画ならベタベタの恋愛ものより、少し笑えるコメディが入った邦画がいいと言われて、事前に確認しておいた作品名を姓に伝えると、私も気になってたのと笑顔で答えてくれる。
それから映画を観て、姓が事前に調べて行ってみたかったらしいカフェに入った。
「ごめんね、田所くん、ここじゃ足りないかもしれないんだけど、その、パン、美味しいらしいから、いいかなって」
「…お、おう」
メニューを見て注文を終えると姓が映画について話し始める。
2人で1つを食うことになったポップコーンを真ん中にして左隣に姓がいる状態で見ていた俺は、間違って肩が触れちまわないかとか、ポップコーンに同じタイミングで手を突っ込まないようにしなきゃだとか、そんなことばかり考えていて、正直全く映画の内容なんて頭に入っていなかった。
楽しかったね、と、話す姓にどうにか話を合わせた。
***
「そろそろ出よっか。」
時刻は夕方5時。
手嶋曰く、最初は早めに切り上げた方がいいらしい。空気を読んで、と言われたが全然読めねえ!
「田所くん、ここから1時間半くらいかかるよね?じゃあ、夜ご飯食べると遅くなっちゃうか」
「あ、いや、別に、遅くなっても…大丈夫だけど…、姓が遅くなるならあわまりよくねぇんじゃねーか?」
「そうだよね、うん、じゃあ帰ろっか。」
「おう…」
そこから駅までの道のり、5分間の沈黙が流れた。
「田所くん今日は本当にありがとう!とっても楽しかった!というか会ってくれて嬉しかった!」
「いや、俺も…」
「じゃあ…私ホームこっちだから」
「あっ!姓」
思わず呼び止めてしまったが、何を言うつもりだったんだ。俺は。
「どうしたの?」
「…あ、いや…」
「…じゃあ、…あの、また連絡してもいいかな?」
「もちろんだ、……っつーか…その、なんだ、また良かったら出かけよう」
「っ…!」
これは手嶋のアドバイスじゃない、気がついたら口から出てきた言葉だ。
「うん!ぜひ!喜んで!!すっごく嬉しい!」
そう、とびきりの笑顔で笑う姓の表情を見て顔が熱くなってしまった。
***
それから俺たちは何度か、デートをした。
インターハイ直前はお互いどちらからともなく連絡を控えていたため、インターハイ会場で久しぶりに姓を見た。
「おー、今年もいるいる、箱学マネちゃん、まじで美人だな、今年で最後だろ、あの子3年だよな?」
「そうそう、誰が本命だと思う?やっぱ東堂か?あの1年クライマーもなかなか可愛い顔してるからな〜」
「あー、まじで可愛い付き合いたい」
「おめーはそればっかだな」
ギャラリーで繰り広げる会話に意識が集中してしまう。
「迅くん、久しぶり」
そんな時、新開が話しかけてきた。
「名とはどうだ?」
「どうって、どうもねえよ」
「またまた」
「まずはインハイ優勝だな、俺らが勝つ!」
「それは俺たちも負けないぜ」
「ま、3日間終わったら恨みっこなしで飯でも食おうぜ」
そう新開に告げると新開はニヤリと笑う。
「迅くんはそれより先にインハイ終わったら名の事どうにかした方がいいんじゃないか?」
「なっ、お、お前…おう……」
「名はモテるからな〜」
そう笑いながら手をヒラヒラと振り去っていく新開。3日間のレース、幕が開けた。
****
高校最後のインターハイは俺たち総北高校の優勝で終わった。
レース後の選手控え室。箱学の側を通る時はお互いにピリリとした空気が走るが、新開や福富がおめでとうと声をかけてきた。
「迅くん」
「姓…」
「おめでとう!すごく悔しいけど、でも、本当におめでとう!あと1日目のリザルト、見てたよ、すっごくかっこよかった!」
箱学の面々の前で俺のスプリントをカッコよかった、と話す姓に驚きを隠しきれないが、後ろでは新開と東堂が笑っていた。
「田所っち…この女…おかしいっショ、よくアイツらの前で田所っちの事褒められるショ……」
「巻ちゃん、気が合うな!俺も名は美人だが少しおかしいと思っているよ!」
「名、今の泉田が聞いたら泣くぜ」
「あっ、いや!みんな!かっこよかったよ!!あの!!あ!鳴子くんだよね!鳴子くんも!!素敵だったから!!」
今更しても遅いだろうというフォローをする姓に赤頭の後輩が顔を赤くする。
「名、帰りのバスまであと20分あるから、迅くんと話してくれば?」
収まりがつかなくなった雰囲気に新開が助け舟を出してくれ、俺たちはテントから少し離れた木陰に入った。
「田所くん、お疲れ様」
「おう」
「終わっちゃったね」
「そうだな」
「やっぱ悔しいけど、でも総北、素敵なチームだね」
「ありがとよ」
「田所くんのスプリント、見れて良かったなぁ…」
「あの姓」
「ん?」
「いや、またどっか出かけてくれるか?」
「うん、もちろん、ていうかどちらかというと私がお願いしたい側だよ」
「いや、これから、何回も…」
「え?」
「その………好きだ」
「………」
顔を真っ赤にして口をパクパクさせている姓を見ていると次に出てくる言葉を聞くのが怖くて逃げたくなる。
「………じゃ、じゃあ…」
「ちょ、っと待って!す、すきって…」
「あ、いや、その別にすぐ返事くれとかそういう事じゃねえから」
「えっあの!あの!私も田所くんのこと、ずっと好き、だよ」
「〜っ………!」
「……インハイも終わったし…また、デートしようね…」
「おう…」
「あの、彼女に、してもらえますか…?」
「お、おう……」
お互い顔を真っ赤にして言葉が出てこない。
「名!そろそろバスの時間だぞ!」
遠くから東堂が叫んでいる。
「っ…じゃ、じゃあ!行くね…また夜、電話…してもいい?」
「おう…」
俺の返事を確認するとまた顔を真っ赤にしてありがとう、と呟きその場を去る姓。
インハイ優勝しただけでも人生で一番嬉しい瞬間だと思ったのに、とんでもないご褒美を貰ってしまった気分だ。
その夜、改めて電話で彼氏と彼女になることを確認した俺たちはようやく新しいスタートラインに立った。
そんな俺たちがゴールに辿り着いて、パン屋に2人で並ぶ新しいスタートを切るのはこれから5年後の話だった。