翼の代わりにはならないけれど
私と彼のデートコースといえばもっぱら、ロードバイクで学校の周りの山へ繰り出すか、お互いの部屋で過ごすかで。今日のようなショッピングモールを練り歩くというのはごく稀な事だった。
限られたお小遣いの中で生活している高校生カップルだ、外食や遠出なんてそうはできない−−という理由もあるけれど、我々はこういうデートを好んでいたという事もある。
彼、真波山岳の坂好きは言わずもがなだし、それに私たちは二人で居られれば場所なんてどこでも良かった。
「ハイヒールなんて、履いた事無いな」
今日のデートコースがここ、小田原にあるショッピングモールになったきっかけは、私のその一言だった。
私の部屋に遊びに来た山岳が、テーブルに置かれたファッション誌−−友人が置きっぱなしにしていった物だ−−を見て、「これ、キミに似合いそう」と言った言葉に対しての返答だった。
彼が指差したページには、華奢なヒールのストラップパンプスが掲載されていた。
「私、ぺたんこの靴しか履いた事ないよ。スニーカーとか、学校に履いてくローファーとか。こういう踵の高い靴って、履いたらどんな感じなのかな...フラついたり、しないのかしら」
「さぁ、オレも履いた事ないからわかんない」
的外れな事を、なんでもない顔をして言う。
彼のこんなすっとぼけた言動はいつもの事なので、私はツッコミを入れる事もサボって、ただ小さく笑う。かわいいなぁなんてさえ思ってしまうので、我ながら重症である。そして、綺麗な靴なら彼の方が私より似合いそうだなとも−−その、女の子みたいに長い睫毛や小さな顔を見ながら、考えていた。
「じゃあさ、こんど買いに行こう。一緒に」
新しい登りのサイクルコースでも発見した時みたいに、彼はまるで素晴らしい閃きとでもいうように言った。
ちょっと待って。せっかく買ったって履く機会も無いのに。私のそんな言葉なんて聞こえもしない様子で、「いつにする?」と嬉々とした表情で私の腰に手を回して抱き寄せた。
こんなふうに甘えられては、お手上げである。我ながら甘いとは思うが、惚れた病に薬なし、なのである。
「なかなか良いのが無いなあ」
ショッピングモール内を颯爽と歩きながら、山岳が言った。
私にとって『お買い物デート』といえば、あれでもないこれでもないと店側からすれば冷やかしのようにダラダラと見て歩く事を想像していたので、このデートはちょっとした衝撃だった。
ショッピングモールに着くなり彼は私の手を取り、立ち並ぶ店舗の横をスタスタと、素通りのような速度で進んでいく。
靴を取り扱ってる店があってもチラッと横目で見る程度で、中へ入る所か足を止めもしない。
「−−−あ!」
ピタリ。山岳が突然立ち止まり、ひとつのお店の中へと入って行く。
そしてマネキンの足元に置いてあったパンプスをひょいと持って、「いいね、これにしようよ!」と軽やかに言った。
よもやこれが、自由かつ直感派の真波山岳のショッピング方なのだろうか。この浮世離れ具合は、さすがと言うべきなのか。
「え、ちょっ・・・私に選択肢は無いんですか」
「ピンと来たんだ、絶対コレが良いよ!ホラホラ、履いてみて」
急き立てられながら、店内にある試着用の椅子に座る。
呆気に取られる私をよそに、山岳は店員のお姉さんにサイズを伝え、持って来てもらった靴を受け取っている。
そのスマートさは、普段の力の抜けた風貌からするとあまりにギャップがある。
彼とお付き合いをはじめてしばらく経つというのに、表情の多彩さには果てがなく感じられた。
一見のんびりとしていて、やわらかな風のような男の子。だけれどひとたびロードレースの試合になると、怖いくらいに剥き出しの集中力で鬼神の如く駆けていく。−−−どれが本当の、彼なのだろう。
その自分を飾らないゆるやかさは、人間らしさに溢れて、彼は自然と人を惹きつける魅力を纏っていた。求める前に手を貸してくれるような人が、彼の周りには沢山居た。
だけどそのしなやかで、底知れぬ力強さを秘めた生き方は、どことなく人間味が無くもあった。周りにいつも大勢の人が居たのに、彼はいつも一人だった。
「ホラ、履いてみて」
椅子に座る私の前に跪くように、山岳が右足用のパンプスを両手で差し出した。その仕草は彼の容姿にとてもしっくり合って、私は照れるような違和感も忘れて右足を前に出す。
「うん。やっぱり、よく似合う」
もう片方の靴も履かせた山岳が、満足そうに笑った。両手を引かれて立ち上がると、彼との距離がすこしだけ近づく。ハイヒールの高さ、4センチ分だけ。
「・・・この靴を履いていたら、山岳がすこしだけ近いから、いいね」
だってあなたは、いつもすごく遠いところにいるから。
「この靴にしよう。大丈夫、歩き慣れるまでは、ちゃんと手も繋ぐから。キミとは、離れないように」
私の言葉の意味を知ってか知らずか、山岳はそう言って笑った。もろく、きれいで、ガラスのような不思議な瞳を、うっすらと細めて。
その笑顔は確かに今、目の前にある。
なのに、知れば知るほど遠く感じてしまう。
4センチメートル分は、確かに近付いたはずなのに。
for −−−わざと落としたガラスの靴