シンデレラグレイ 


 たとえば雨上がりの空にかかる虹が、誰の目にも同じように見えているかわからない。
 私の赤と呼ぶ色があの人にとっての青でも、確かめようがないのだ。
 もしかしたら世界の見え方は人によって違っているのかもしれない。
 見えないはずのものが見え、聞こえないはずのものが聞こえ、いないはずのものをいるとわかる。
 誰に信じてもらえなくても、そう感じることが私にあるように。

 * * * *

 校外見学が終わり、バスが学校に戻った頃には酉の刻に近づいていた。
 夏至を過ぎたばかりの外は明るいが、この時間帯は嫌いだ。出歩きたくない。
 友達と別れ、下校の流れに逆らって、時間を潰すために一人図書室へ向かう。
 喧騒は遠く、渡り廊下は自分の足音が聞こえるほど静かだ。
 渡りきったところで、すぐ隣の階段を上ってきた人と目が合った。

「藤森」
「……一期(いちご)せんせい」

 息を切らしながら名を呼ばれ、思わず呼び返す。
 先月赴任してきた国語の補助教諭の一期一振先生だ。
 視線が絡むのが気まずくて俯く。
 大学を出て数年経らずの爽やかな好青年で、勤勉で誠実で、愛想も面倒見もよくて、早くも人気者だけど、私は『得体が知れなくて恐ろしい』と感じてしまう。

「帰らないのか?」

 初めて見たときから苦手だった。
 集団の中に埋没していれば平気だと思ったのに、名前を認識されていて、まさか話しかけられることがあるなんて。

「図書室に行こうと思って」
「本は好きか?」

 雑談を進めそうな朗らかな気配にたじろぐ。

「……せんせいこそ、職員室はこっちじゃないよ」

 一期先生は私のクラスの副担任でもある。校外見学から同じバスで戻ってきたところのはずだ。
 こんな時間に図書室に用事だろうか。

「藤森が来るのが見えて追いかけてきたんだ。一度、話がしたくて」
「なんで……」

 私はただの地味な生徒だ。友達もふつうにいて、成績もひどいわけじゃない。目をかけられる理由が思いつかない。
 一期せんせいに真正面から見据えられて、ぞくり、と痺れるような戦慄が走った。
 せんせいのことが苦手なのは、中身と外面がちぐはぐみたいな、強烈な違和感があるからだ。
 どこからどう見てもにこやかな好青年なのに、《研ぎ澄ました刃》みたいな印象を、本能が直感する。
 今日の行った国立博物館に展示されていた美術品が醸し出していた空気感にも近い。
 人なのにまるで人じゃないみたい。
 正体の分からない不気味さは自分に対処できない脅威が近づくことに似ている。
 怖くてたまらなくて、思わず後ずさりすると、せんせいは苦笑いを浮かべた。

「藤森から私はどんなふうに見えているのかな」
「え?」
「怯えたような顔をして、いつも避けているだろう?
 私を恐れているような目で見ているのはなぜか、聞いてもいいかな」

 はっきり気づかれるほど、あからさまに態度に出ていたらしい。
 ばかだ……と自分を罵ってみるけど、理由を答えることはできない。

「……なんでもないです」

 言ったところで誰にも理解されないのはわかっている。
 昔から、他の人に見えないものが見えたり、聞こえたり、感じられたりすることがよくあった。
 色覚異常だとか、脳の誤作動だとか、精神的なものだとか。
 科学的にありえないとか、生物的にありえないとか、虚言癖だとか。
 幼いころから今に至るまで様々な検査や検証を受け、難しい病名の可能性をいくつも提示されたが、実態は不明<グレー>のままだ。

「なんでもないことはないだろう?
 気付かずに何かしていたなら、直すから」

 たかだか一生徒に食い下がって真摯に意見を求める。
 きっと正真正銘の良い先生なのだろう。
 生徒からも他の先生からも良い評判しか聞かない。
 本来なら嫌う理由がないのに、説明できない感覚だけが拒絶反応を起こしていて、自分でもままならない。
 せんせいは悪くない。悪くないせんせいが思い悩むくらいなら、私が悪いほうがマシかもしれない。

「……せんせいは、他の人と違うように見えるんです。中身と外側が合ってないっていうか、まるで人なのに人じゃないみたい」

 会話を終わらせるために、本当のことを言った。信じてもらえるとは思っていない。
 冗談か頭のおかしい子だと思われて、今後は遠ざけられるだろう。
 俯いてると沈黙が長く感じ、そっと反応を仰ぎ見ると、一期せんせいはぎょっとするほど真剣な表情をしていた。
 私が驚いているのを見ると、安心させるような薄い笑みに変わる。

「人じゃないならどんなふうに見えるんだ?」

 意地悪にからかわれる気配もなく、努めて軽くしたような優しい口調だった。
 ここまで来たら同じだろうと、導きに逆らわず、感じたとおりに答える。

「研ぎ澄まされた刀みたいな……。今日、博物館で見た日本刀に近いかも」

 どうして刀なんだろう、と自分でも不思議だ。
 せんせいの外見や性格に合うとは思わない。
 でもたしかにそう見えるし、そう感じられる。
 理不尽なことに、脳裏に直接思い浮かぶイメージがそうなのだ。
 私が小首を傾げていると、一期せんせいは神妙に頷いた。

「 “本物"か……」

 意味がわからなくて、その呟きが零れた唇を、追憶するように下りた瞼を、目で追ってしまう。
 せんせいはゆっくり目を開けると、何かを決意したように話し始めた。

「私はーー昔はたしかに、日本刀だった」
「え」

 自分でも正体不明の話を肯定されて、一気に混乱する。
 昔って何? いつ? どういうこと?

「秘密の話だ。誰にも言ってはいけないよ」

 せんせいが冗談っぽく人差し指を唇に当てたから、冗談なのかもしれないと、少し頭を冷やして聞くことができた。

「昔は刀だったってどういうこと?」
「人として生まれる前、いわば前世のことだ」

 人が生まれる前は胎児のはずで、その前ってなんだろう。せいぜい親の細胞じゃないのか。

「……冗談?」
「信じる信じないは勝手だが、嘘じゃない」

 生真面目すぎる顔を見て、本気で言っているらしい、とわかる。
「信じられない」と思うけど、私は今まで散々「信じられない」って言葉に傷ついてきた。真実を語って「嘘だ」と言われるのが何よりも苦痛だった。
 それに、話の発端は私自身が感じて、言い出したことだった。

「信じる。信じたい……」
「ありがとう。もう一つ、聞いてもいいか?」
「何?」
「藤森は幼稚舎の頃に十五回、中等部に上がってから三回、防犯銃を使ってるだろう。何を撃とうとしたんだ?」

 びっくりして、ひくりと喉が痙攣した。
 それが、それこそが、私がこの時間に帰りたくない理由だった。

「なんで防犯銃の記録がわかるの……」

 警察から学校に通達があったんだろうか。
 でも、それならまず担任に知らされるんじゃないのか。
 他の教員たちの態度は変わらないのに、赴任してきたばかりの補助教諭で副担任のせんせいが生徒以前に一市民の重要なプライバシー情報を、なぜ知ってる?

「政府に伝手があるんだ。それよりも、答えてくれるか」

 せんせいの事情はともかく、答えるかどうかの二択だ。
 今まで誰も信じてくれなかった。せんせいは信じてくれた。信じてくれるかもしれない。ここまできたら、どうせ同じだ。

「夕方に……多いの。よくわからない影みたいなのとか、獣なのに生きてないのとか、人に似てるのに人じゃないのとか。他の人には見えてなくて、機械も認識しないけど、怖くて撃ってた。効かないから、今はできるだけ遭遇しない時間に帰ってるけど」

 防犯用の認証式電子銃があれば非力な子供でも通学路の安全は保証されているはずだが、あれらには電子銃が効かないのだ。
 防犯銃は非常事態の護身のために携帯を許されている武器だから、いつどこで何に向けて使用されたかは自動的に記録され、発砲後には正当な使用理由を申告しなくてはいけない。
 《何か》に向けて撃ちましたと言っても誰にもわかってもらえなくて、苦労した。他人に向けて撃ったわけじゃないからセーフだけど、これ以上続けば認証が通らなくなるかもしれない。

「夕方に多いというのは、逢魔が時だからだろう」
「……何?」
「その言葉も今は知られていないのか……。かつては、この時間帯、人でないモノが多く闊歩すると言われていたんだよ。実際のところは私もよく知らないが」
「そうなんだ……」

 誰も知らなかったことをせんせいは知っている。誰も教えてくれなかったことを、せんせいは教えてくれる。
 経験則で夕方のこの時間を避けていたことにちゃんと客観的根拠があったらしい。
 長年の独りよがりが溶かされていく。

「せんせいはなんでそんなに色々知ってるの? 刀だったから?」
「私は……。……長い話になりそうだ」

 困ったような顔に、得体の知らない不気味さはすでにない。
 なんでも知ってる無敵の大人というより、親しみを感じるものだった。

「ゆっくりでもいいよ。図書室は時間を潰したかっただけだから、今日はやめる。せんせいは時間ある?」
「あるよ。校外見学はあのまま解散だったから、今日はもう帰りなんだ」
「一緒に帰る?」
「それなら駐車場で待っていてくれるか。ついでに家まで車で送ろう」
「……いいの?」
「いいよ。一度職員室に寄って、すぐに行く」

 高揚した気分で、駐車場が見える昇降口へ向かう。
 さっきまでの会話を反芻しても、ふわふわして現実味がない。
 わかること、見えること。特有の感覚を肯定されたのは生まれて初めてだ。
 まるで刀のようだと感じていた人に、昔は刀だったのだと言われた。
 冗談ではないと信じるとして、一体どういうことなんだろう。想像が追いつかない。
 一期せんせいから見た世界と、私に見えている世界はどれくらい違うんだろう。

「悪い。教頭先生に呼び止められてしまって」
「大丈夫。……せんせいの車、大きいね」

 後部座席に十人は乗れそうだ。

「大家族でなぁ」
「結婚してるんだっけ?」
「いいや。実家に兄弟が多いんだ」
「カノジョとかは?」
「今はいないよ」

 見るからにモテそうなのになぁ……。

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