毒林檎にくちづけ


日本号を迎えてから本丸での酒宴はますます賑やかになって、つい長居をしてしまう。
飲めないわけじゃないけど、紅一点の慎みというもので、以前はいつも短刀の寝る時間には引き上げていたのに。

「ええー! 主の旦那さんってお酒一滴も飲めないのー?」
「そうなの。それでもいつもよそで飲まされそうになるから、回避するのに苦労してるみたい」

うちの人、と軽やかに笑いながら話しているのは兄のこと。
例えば、馴れ初めを聞かれて話すのは師匠夫妻のこと。
話題を振られるたび知人を思い浮かべてそれらしく話しているから、私が里に旦那を待たせていると誰も疑っていない。
我ながら、器用なことをしている。

はじめ、黒留袖を着て本丸に入ったのは、必要に迫られてのことだった。
政府からの徴兵の通達の中に『刀剣男士と寝食を共にする当たって間違いが起こらぬように此度の審神者は男または既婚女性が好ましい』とあったが、門下で適任が私しかいなかったので、”装う”ことを条件として認められた。
明らかな女顔・声・身長と揃って男装の選択肢はなく、妙齢ということもあって既婚女性になりきることにした。

早々にぼろが出るかと思いきや、思いのほか性に合ったらしい。
里での自分を知る人間が誰もいない本丸という非日常な箱庭で、自由に羽を伸ばして振る舞う。
自分ではない”誰か”を演じることにだんだん興が乗って、騙すのが楽しくなってしまった。余計な設定が増えていく。

「それじゃ普段は飲まなかったのか」
「家ではね

口を開けばふにゃふにゃと意味のない笑みが溢れる。
くらっとする眠気を感じて、潮時かなと思う。

「ふふふー。私はそろそろ寝るね。おやすみなさい」
「おー、おやすみ」
「おやすみなさい」
「おお、もう寝るのか?」

ほうぼうから声をかけられ、ご機嫌のまま手を振って応える。
宴会場を出るところで一期一振が「部屋までお送りします」と申し出た。
なにしろ主として・紅一点として大事にされているので、彼が来なければ他の誰かが送ってくれたかもしれないけど、一期一振だった。
ーーああ、こういうところが。

「さすが、我が近侍様は紳士なことね。じゃあよろしく」

紳士が送り狼に化けるかもしれないなんて邪推は、この本丸では起こらない。
生来従者たる性質の彼らは、いくら人の男の形をしているといっても、どんなに女に餓えていても、主に対して”わるいこと”はしない。義を重んじ、既婚の主を手籠めにしようなどとは考えない、というのが共通認識だ。ましてや真面目な一期一振のこと。
そういう意味では政府の方針は正しい。
誤算だったのは、私が、この紳士な王子様がいっそ送り狼になればいいのにと願うような尻軽だったことだ。

「頬が赤いですよ。弱いのにお飲みになるから」
「楽しかったからいいの」

宴の喧騒が遠ざかってふわふわと微睡むような夜だ。
足元がふらつくのを支えるように腕を取られる。二の腕から体温が伝わる。
匂いも呼吸音もわかる距離で、冷たい空気を裂いて、体は火照る。
首元の、襦袢の合わせ目のあたりに視線を感じた。

「御主人の目がないからと、羽目を外しすぎでは?」
「向こうもそれなりに宜しくやってるからいいのよ」
「そうですか。信頼なさっているんですね……」

唇がゆるりを弧を描くけど、目が笑っていない。
忌々しげな言いざまが可笑しくてたまらない。
苦い物を食べたような顔をするくらいなら、はじめから”旦那”のことなど聞かなければいいのに。
聡明なこの男が見せる、この愚かさが猛毒のように甘美でたまらない。
綺麗で整ったこの王子様に相応しくない、矛盾だらけで歪でぐちゃぐちゃな執着心。
それを向けられるたび、甘い痺れが脳髄を侵す。

「長い付き合いだからね」
「しかし、主が本丸に入られて、もう数ヶ月は会っていらっしゃらないのでは?」
「そうね、手紙のやり取りがあるくらいだけど……」

私とて、使命感は持っている。持っていた。
欲の対象から外れるために嘘を纏ったのに、欲を向けられたいと願ってしまった自分の浅ましさを激しく嫌悪し、封じよう、鍵をかけようと努力したこともある。

でも、彼が、一期一振がこんなふうに、わざわざ線引きするみたいに”旦那”の話をあえて振ってくるから。
聞かれたからには偽りと悟られないように話すしかなくて、線引きのはずなのに、良好な仲を示せば、嫉妬の滲む目をするから。
何度も壁の所在をたしかめなければ、踏み越えてしまいそうだと言っているように聞こえるから、唆したくなってしまった。

「だけど……。だからこそ、こんな夜は時々さみしいの」
「ーー酔っておられるのですか」
「そうね、きっと酔ってるんだわ……」

欲と本能と感情と道徳と倫理と潔癖と節操と責任と義理。
せめぎあい、切迫し、私のために苦悩するあなたが愛おしい。
私のために狂ってほしいだなんて、まるで呪いの言葉。
マドラーで混ぜて溶かしてしまった理性が毒に転じる。
どうか、もっと汚れて。

「ね、酔い覚ましに、少し付き合って」
「……よろしいのですか?」
「今夜はいい夜だから、終わらせるのがもったいないでしょう」

彼らは主を裏切らない。
どんなに嫉妬しても、既婚という防波堤があれば、真面目で誠実なこの男は決して一線を踏み越えないだろう。
ーーだから、私が誘った。その腕を引いて、その線の内側へ引っ張りこんだ。

酔ってはいたが、理性はあった。
頭はぼうっとのぼせるようでいて、体の芯は冷えていて、打算的で、あたためてほしかった。

それが、ハジマリ。

 * * *

朝起きると隣に誰もいなかったが、体の軋みが夢じゃないと教えてくれた。
目覚めると全身の気怠さや不快感、頭痛、吐き気。
二日酔いに加えて、あらぬところが痛い。
久々だったし、酔った状態で激しい運動をしたのだから自業自得だ。

記憶は飛んでない。全部覚えている。
あらぬところを舐められ、吸われ、擦られ、撫で回され、食まれ、噛まれ、齧られ、押しつけられ、啼いて、縋りついて、淫らに狂った。
征服欲と嫉妬の狭間で余裕なく吐息を漏らし汗を滴らせる獣は凄絶にうつくしかった。
酔いで箍が外れて大胆な言動をしたのはたしかで、「ついにやってしまった」とは思うが、不思議と後悔はない。
ずっとああしたかったのだし、思い出しても充足感がある。
ここにくるまでの私はこんなふうじゃなかったはずなのに、それも遠い昔に感じる。
こんなにも陰湿でふしだらで卑しい本性。

一期一振が他の男士どもの寝起きの時間までに長屋に戻っていったのは賢明な判断だ。
帰るなら一言かけてくれればよかったのにと思うが、鈍感な自分を恨むしかない。
布団の中に彼の体温の名残を探したが、見つからなかったのでしぶしぶ身支度をする。
悔しかったので、会ってもそしらぬふりをした。
何もなかったことにしよう、という態度を作りながら、……結局、繰り返すことになった。

時機を見て懲りずに閨へ誘えば、ふしだらな女だと、軽蔑し目を眇める瞬間があるのに、
ありもせぬ面影との比較を前提としているから、決して手を抜かずに、痕跡を塗り替えようと必死に抱く。
私の体を作り変えようとする。
−−もうとっくに、心まで作り変わっているとも知らずに。

旦那がいるなんて嘘だよ、と言ってもよかったのだが、なんとなく言わないままにした。
彼が人なら、共に歩む将来を一緒に思い描くことのできる間柄なら、正直に告げただろうか。
ーーでも、そうじゃないから。
裸体を晒しても、この本丸に来てから被り続けている猫を脱ぐのはやめた。
操立てした相手のいない身軽な己を差し出すことは容易いけれど、人妻という化粧のまま彼に抱かれたかった。
倫理との狭間に苦悩する彼の執着が心地よく、私を想って思い悩み傷つき苛立つのが愛おしい。
品行方正な一期一振の獣を暴いてやったと征服感が何よりも甘美に心を揺らした。
体面をかなぐり捨てて、暗い情欲を向ける彼が見たかった。
決して喰らい尽くすことのできないもののほうが、貪りがいがあるだろう。

二人の夜を何度か繰り返せば、明け方でも身じろぎ気配で起きれるようになった。
黙って見送るのが惜しくて、身支度する背中に「帰るの」声をかければ、
冷えた声で「もう、こんなことはやめましょう」と言われて頭が真っ白になる。

「今更……そんなことを言うの」
「冷静なときに伝えておきたかったのです。ご自分を涜(ケガ)すようなことはおやめください」

まるで私だけが望んでいて、意向を断れなかったようなことを言う。
その手が私を暴き、肌を重ね、その唇で吸い上げたくせに。
後悔されるのは屈辱的だった。
苦悩して思いつめたところが愛おしかったのに、迷いを断ち切られたら興ざめだ。
ーー悔しい。私はとっくに後戻りできないのに。一人だけ元に戻るつもりなの?
未練は怒りに転じ、私を醜悪にする。
どうしたら彼の冷静の仮面を引き剥がせるだろう?

「そう……。わかった。今後あなたとこんなことがないように、気をつけます」

今更愛に縋ることなんてできるはずもなく、努めて静かに言い捨てた。
俯いて、頭の中ではどうしたら彼の気を変えられるだろうかと演算している。

何事もなかった顔をして、いつもより少し、他の刀剣男士との距離を近くする。
特に一期一振に見えるところでは、見せつけるように甘えた。
最初は平静を保った顔をしていても、日増しに苛立っているのがわかった。
早くここまで堕ちてきて、と ほくそ笑む。逃がしては、あげない。

「主。今、よろしいですか」
「なぁに?」

他の刀剣男士ーー光忠と談笑しているところに割って入ってきて、
「明日の出陣について話したいことがあります」と言われたからには、チェックメイトを予感する。
顰め面の一期一振は、光忠の肩に触れさせていた手を睨んでいるように見えた。

「僕は外したほうがよさそうだね」
「いえ。できれば主にご足労願いたいのですが」
「いいよ。出陣のことなら執務室で話そう」
「助かります」

それきり無言で歩き、人目のないところまで移動すると、一期一振は振り向いて言った。

「どうしてあなたはそう、節操がないんですか」
「だって寂しいと”誰か”に頼りたくなるでしょう?」

私ばっかり、あなたでなければだめなんだと思うのが悔しいから、代わりに、あなたでなくても構わないのだと虚勢を張った。

「あなたは……! 誰でも良いんですか!?」

燃えるような怒気に心がときめく。
強引に手を引かれて、壁に押しつけられる。
奪うようなくちづけにうっとりした。
毒林檎を食べた娘に、躊躇いもなくくちづけるような王子様でいてほしい。

「誰でもよくは、ないよ」

そんな本音は、きっと取り繕った嘘にしか聞こえないだろう。
それでもいい。
ただ彼に欲を向けられたい。
仮面をはぎとって、みっともない原始の欲望を呼び覚まして、剥き出しのまま抱き合いたい。
愛しさと憎しみの表裏一体のはざまを、きっと執着と呼ぶのだろう。

甘ったるい声で擦り寄ると、眇めた目で見つめられる。
いっそ手酷くしてほしい。

先のない、どうしようもない関係だとわかっているのに、
ずるずる引き伸ばして、終わりなく続くことを期待している。

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