拾い上げたメーデー


刀に宿る付喪神だった大倶利伽羅を、刀剣男士として人の形をして現世に顕在化させたのが審神者という存在だ。
顕在時に主従の契りが結ばれ、それは強く逆らうことのできない呪縛となっている。

「お守り袋が一つ壊れたので今日は万屋に行きます」
「……俺は店にはついていかない」
「わかってます。お店の前まででいいですよ」

涼やかに宣言する声は、大倶利伽羅に向けられた指名だ。
しれっと拒否を流され、これ以上抗っても無駄だとわかって舌打ちをする。

馴れ合うつもりはない、俺のことは放っておいてくれと何度言ってもこの女は聞きやしない。
人の身を与えられてなお、物言わぬ道具のように扱われることが忌まわしい。
武器としての本分を果たすよう戦闘に用いられるならまだわかるが、この女の買い物に付きあわければならない道理はどこにもない。

実際、強引に買い物に伴われても、道中話しかけてくるわけでもない。
数歩後ろを黙って歩く。
馴れ合いの会話を求められるよりはマシだが、やはり大倶利伽羅である必要がない。
供なら好き好んで行く刀剣男士を選べばいい。

「……買い物なんて行きたがる奴が他にいくらでもいるだろ」
「そうですね。だからといって希望を取っていては時間がかかりますから」
「あんたは、なんで俺を近侍から外さない」

近侍に選ばれることを一番の誉れと考える奴らもいる。
大倶利伽羅が彼女の陣にくるまで、近侍は出陣のたびに替わっていたのだという。
隊長は索敵の経験を積める。隊全体の練度を高めるためにはたびたび入れ替えたほうが効率的だ。
しかし一度大倶利伽羅を近侍にしてからは交代がない。
主人の決定には従うしかないといえ、内心で面白くないと思っている者もいるだろう。
本丸の空気を乱してまで、嫌がる者をわざわざ近侍に選ぶ理由はなんなのか。
審神者は一時足を止めて大倶利伽羅を見上げる。

「あなたは私を"主"と呼ばないから」

思いもよらない回答に目を瞠る。
刀剣男士に主と呼ばれることを重荷に感じていたということなのだろうか。
時に容赦なく、的確な命令を下して任務をこなすこの女が、そんな弱弱しい気性の持ち主なのか。

「……呼ばれたくないならそう言えばいい」

この女に好かれたい連中は一言いわれれば、快諾して呼び名くらい変えるだろう。
大倶利伽羅が主と呼ばないのは、彼女を気遣ってのことではもちろんなかった。
名前も知らない女など、それなりの呼び方で十分だと思っていた。
一線引いて拒絶を示しているつもりだったが裏目に出ただけだ。

「そういうことじゃないんです」

この女がこんなふうに曖昧な回答をして、困ったような表情でごまかすのはよくあることだった。
その態度を見ていると腹が立って仕方ない。言いたいことがあるなら言えばいいのだ。
こうなったら続く言葉はなく、沈黙に戻る。

その呼び名は嫌だと、伝えるつもりがないのだとしたら、不毛なすれ違いは今後も続くのだろう。
連中の無駄な努力を哀れに思うが、教えてやる義理もない。
大倶利伽羅は、いっそ"主"と呼んでやろうかとさえ思った。裏目を裏返せばいいだけだ。
だがそんなわざわざそんなやりとりをするのも、苦い馴れ合いのようでうんざりした。
"主"と呼ばないだけなら他にも条件に当てはまる刀剣男士もいるから、きっと他にもわかりにくい条件があるのだろう。

ふと、加州清光の言っていたことを思い出す。
『お前が来るまで、主はもっといつもニコニコしてる人だったよ』
大倶利伽羅の目に映る審神者は、特別無愛想というわけではないが、必要以上に笑ったりもしない。
年中愛嬌を振りまくような性質ではない。
それが無理をしなくなっただけなら、馴れ合いに疲れて、馴れ合わずに済む大倶利伽羅を近侍に据えるのか――。

話すことも途絶えて、ただ思考をめぐらせながら、路を行く。
飛び交う声に溢れてて騒がしい町を、人の間を縫うように歩く。
先をゆく“主”はどこか上の空で、おぼつかない足取りでぼんやり歩いていた。
前から荷車が向かっているのも見えていないらしい。

「おい」

腕を強引に引き寄せたためか、女の懐から物が落ちる。
黒い漆の艶は、戦場で振るう軍配団扇だ。
大事なものだとわかったが、護衛としては審神者自身が優先だった。
道から庇うように抱き寄せると、腕の中で「あ……」と呟きが零れた。

地面に落ちた軍配団扇を道行く若者が蹴り上げ、さらに別の荷車の後輪に踏まれ、軋む音がするのを、ただ見ていた。
審神者の不注意がいけないのだと思いながらも、この女の大切なものを傷つけたことに、苦い憤りが湧く。

荷車が通りすぎてから落ちた軍配団扇を取りに行った。
拾い上げた町人から受け取ると、縁が少し欠けていた。
修理できるだろうかと思案してから顔を上げると、"主"たる女の額から血が流れるのが目に入った。

「……その怪我は何だ」

思わず眉を顰める。先ほどまではなかった怪我だ。
腕を引いただけで額が擦れる道理はない。
どこかにぶつかったということもないだろう。
傷ついたというなら――手の中の軍配団扇だ。

女の目が暗く淀んだ。唇が薄っすら開くが、声はない。
何か言おうとしたようだがやめ、引き攣った笑みを浮かべるだけだった。
――それはまるで術に縛られ、行動を制限された物の怪のようだった。

この女の普段の振る舞いが脳裏に浮かぶ。
部隊を編成し、陣形を決め、進軍の方位を占う、軍配者の働き。
この女の正体は、この軍配団扇なのだと、天啓のように理解した。

――ふつり。と、その瞬間、大倶利伽羅と審神者の間にあった絆が一つ、断たれた。
使役の呪縛が切り離され、解放されたのだ。

物は物の"主”にはなれない。
審神者が人で、持ち主だから、使われることに甘んじたのだ。
しかしそれは偽りだった。
管理者や指揮官としての指示を聞くだけならともかく、主と仰ぎ、意に沿わないことまで従わされる契約を結ぶ道理はない。
主従契約は無効だ。

「あんたは……――いや、どうでもいいな 」

問えば、困るのだろう。あの表情を浮かべて黙すのだろう。
主と言う呼び名を肯定も否定もできず遠ざけたように。

この女が人間ではないという事実に少なからず衝撃を受けたが、同時に納得もした。
よく言葉を濁し、黙りこむこと。主と呼ばれるのを避けること。そのくせ主と呼んでくれるなとは言わないこと。
呪縛によって思考が制限されて見えなかった事実が見えてくる。
この女が己と同じように物の怪の一種だとして、使役する主は別に存在するのだろう。おそらく、政府の人間だ。彼女はそれに従っていただけ。
偽りがこの女を縛っていたのだ。

「聞かないんですか」
「あんたの事情に興味はない」

元々主と仰いでいたわけじゃない。
責めるほどの使命感も、問いただすほどの興味も、罵るほどの怒りも、案じるほどの関心も、持ち合わせていない。
怒りがあるとすれば、この女よりも黒幕たる政府に対してだ。

込み上げる不快感は、女の額から流れる血のせいでもある。
知らなかったとはいえ、どんな形であれ、刀剣男士たる己がいて、主たる審神者と思い込んでいた者に、怪我をさせた。
無理やりとはいえ、伴われたからには護衛の任を果たすつもりはあったのに。
主と仰ぐ必要のない相手だったとしても、男が共にいて、女に怪我をさせたというだけで不快なことに代わりはない。

大倶利伽羅には、呪縛から逃れたといっても、他にしいて仕えたい相手もない。
裏切られたと喚くほど信じていたわけでもなければ、今更、偽りがあったからといって変えるほどの態度もない。
――だが、他の連中は違うだろうな、と思う。

過去に赴き、苦渋の決断して昔の主よりも今の主の命令を優先している者もいる。
主だからと特別視して仕える者もいる。
真実を知れば動揺し、主従関係から解き放たれれば本丸を去る者もいるだろう。

ああ。だから、大倶利伽羅をそばに置いていたのか。
たとえ真実を知ってなじるとしても、どうせ普段から冷めた態度だ。
主、主と慕う者に豹変した態度を取られるよりも、恐れが少ないのだろう。
偽りの露見を恐れて今の方針を取っているのなら、本当は、この女の望みは別のところにあるのだろう。

逆らえない忌々しい存在として反発していた審神者は、あやうい均衡の上に成り立つひどく脆い存在だった。
理不尽なほど絶対的に思われた呪縛が、こんなにあっけなく崩れるとは思いもよらなかった。
無数の刀剣男士と絆を結んでいるこの女は、僅かな切っ掛けですべての絆を失うことがありうるのだ。
本当は刀剣男士どもの主ではないのだと、言うこともできず、声ならざる声を上げていたのかもしれない。

女は正体を知られても、言い訳も口止めもしなかった。
まるで何が起きても受け入れるとでも言うように。
黙秘のときと同じ、貼りつけたような微笑。
――そうか、この表情は諦念だ。

本丸に着くと、女はそのままふらふらと玄関口から入ろうとするので、正体を隠しているんじゃないのかとあきれる。
主に傷があれば騒ぎになるし、人と同じ手当てでは治らないだろう。

「……手入れ部屋に行くなら裏手へ回れ」
「ありがとうございます」

助言すれば、意外そうに目を瞬かせて、それから表情を綻ばせて礼を言う。
この女は、こういう顔もできるのか。
主従関係の解かれた今、大倶利伽羅にとってこの物の怪はただの女でしかない。

そのまま本丸の裏手へと立ち去り、大倶利伽羅に口止めもしない迂闊さに苛ついた。
信頼されていると言えば聞こえがいいが、不用心で、無防備がすぎる。
言いふらすつもりもなかったが、大倶利伽羅以外に知られれば立場を危うくするのだと、自覚していないのか。
それとも何もかも自覚した上で、その秋(とき)が来たらまた諦念の微笑を浮かべるだけなのか――。

そんな愚かな女を、見捨てる道も容易く拓かれていた。
正体を言い広めなくとも、一人ただ本丸を去ればいい。
あんなに簡単な切っ掛けで明らかになったのだから、またいつか破綻の時が来るだろう。
だが、そうしようとは思わなかった。

「あの、どうして、変わらないでいてくれるんですか」

正体が知られても、……正体が知られたからこそ、だろうか。
いまだに他の奴らでなく大倶利伽羅に近侍や用事を頼むのは、これ以上悪くならないと開き直っているからだろうと思って従っていると、ある日そわそわと問うてきた。

彼女に対して苛立っていたのは行動原理が見えなかったからだ。
大倶利伽羅を近侍に据えていたのは嫌がらせでなく、その無関心を欲し、縋っていたのだとわかってからは、割り切って命令をこなした。
主従の強権を振りかざすような理不尽な命令はない。職務に忠実で有能な指揮官だ。
真実を知れば、水面下でもがくような懸命さが際立って見えた。

「あんたは変わってほしいのか」
「だって、もうどこにでもいけるのに」

どこにも行けないのはこの女のほうなのかもしれない。
何も話さないが、その態度から、事情は想像できる。
刀剣男士と似たような存在だというなら、この女を顕在化した人間が――真の主がどこかにいて、絶対服従の主従契約を結んでいるのだろう。
大倶利伽羅の知る限り、この本丸に他に人間は住んでいない。
おそらくその契約は日常的な監視下に置かれてその都度命令を下されるのとは違い、恒常的にこの女の行動を強く制限するものだ。

「俺がどこに行くかは俺が決める」

不思議なことに、 主従関係の契約という強制的な絆を失って、ただの他者として対峙することになってはじめて、強いられない絆が残っていることに気づいた。
身動きできない中で懸命に任務を遂行する様は、自らの意思で仕えるに値する主のように思えた。
契約があるから従うのではなく、仕えるに値すると認めたから、従う。

それ以上に、できることは何もない。
正体を隠すことに有用な協力方法があるわけでもない。
他の刀剣男士に知られたとき、それが少数なら、喋れない審神者の代わりに口止めでもしてやろうかと思案しても、そのときがくるまで、これまでどおり黙すことが、唯一の守り方だと思っていた。

しかし、彼女が黙秘を義務付けられた、大倶利伽羅の知らない"秘密"は他にもあったのだ。

――刀剣男士が守っているのは、正史でなく歴史修正主義者の手によってすでに歪んだ歴史である。

それを知ったとき、大倶利伽羅は途轍もない憤りを感じた。
審神者を、この女を、大義もなにもない任務のために、ただ偽りを強いられる無為な存在に仕立てあげた政府に。
偽りの主として君臨させ、やがて真実が明らかになって批難を浴び、絆を失うことまで責務として背負わせた、残忍な存在に。
彼女にはきっと怒りの矛先さえない。

昔の主のために歴史を正すと意気込み、元の主の死にかかわりながら任務をこなしていた奴らの動揺は大きかった。
自らが正義を行っていると信じていた者も同様だ。
非討伐対象の歴史修正主義者が存在することについて、刀剣男士がどれだけ問いただしても、せめて事情を知りたいと追いすがっても、審神者は口を結んで俯くだけだった。

大倶利伽羅には「言わない」のではなく「言えない」のだと察しがついたが、
政府からの呪縛を説明すれば、審神者が物であることも伏せきれないだろう。
この女の境遇を知れば同情を買えるかもしれないが、代わりに契約の呪縛を失う。
契約が切れれば、この状況なら本丸を去ることを選択する者もいるだろう。

おそらく契約が切れても彼女に手を貸す奴はいるだろうが、どちらになるか、 それは賭けになる。
失うものもあるとわかっていて、彼女の持ち物を賭けて勝手に賽を振る資格は大倶利伽羅にはない。

だから、やはり黙すことを選んだ。
黙って、不干渉を欲した彼女の傍にいることしかできなかった。

「あんたは政府のやり方に納得してるのか」
「納得するとかしないとかは、関係ないんです」

さびしそうに笑う女の、がんじがらめの運命に吐き気がする。
秘められた真実が多いほど制限が増えて、言えないことも多かったのだろう。
彼女はずっと一人で戦ってきたのだ。
誰にも言わずに、言うことを許されずに。言えないことを受け入れて、理解されることを諦めて。
いつか切れる絆の束を握らされて、望まない偽りに塗れて、逃げ場も同類もなく。
それはどんなに息苦しく、おぞましい暗がりだろうか。

「私がふさわしい身分でないと知れば、許さない者もいるでしょう。知って黙っていたら、あなたまで共犯です」

この期に及んで自分でなく大倶利伽羅の身を案じるのは、すべて知られてもいいと諦めているからだろうか。

「俺の勝手だ。誰が敵になっても、俺は最初から一人で戦ってる」

その孤独を取り除くことはできなくても、寄り添うことはできる。
同じ荷を抱えた二人になることはできなくても、一人と一人として、立ち向かうことはできるだろう。
だが、それだけでいいのか?

このまま正体を隠して偽りの契約の上で命令を下すのと、正体を明らかにして去る者は去り残る者は残った本丸で任務をこなすのと、この女にとってどちらがいいのか、大倶利伽羅には判断がつかない。
幸も不幸も自分が決めることで、他人は関与できない領域だ。
だが、この女はもう自分で選ぶことができないところに追い込まれている。

「心中、してくれるんですか」

弱々しい声は、震えていた。
追い詰められて、もう限界だと悲鳴を聞いているようだった。
懇願は、縋るような救難だった。

「俺がいつ死ぬかは俺が決める。だがそのときは――あんたのために死んでやる」

一緒に死んだりなどしない。
この女が死ぬとしたら自分よりも後だ。
指揮官たるこの女が、武器もなくたった一人で戦えるわけがないのだから。
戦うのは刀の役目だ。

生死を預けられたことで、この女の荷物を奪って、背負う覚悟を決めた。
この女の抱える難題を自分の問題として決断し、選ぶことができない彼女の代わりに選び、この女の戦を、代わりに戦ってやろうと思った。

つ、と真珠のような粒が女の頬を伝う。

誰かこの馬鹿をしがらみから放ち、元通りに笑わせてやってくれ。
そう願い、大倶利伽羅はまるで馴れ合いのように、翌日から刀剣男士どもを一人一人当たって説明した。

「あの女が事情を問うと黙るのは政府との契約で縛られているからだ」
「それは本人が言ったの?」
「見ていればわかる」

それで納得する者もいれば、しない者もいた。
近侍として一番長くいたから気づくことがあったのだろうと頷く者もいれば、人と人の契約にしては縛りが強すぎると訝しむ者もいた。

刀剣男士が審神者も物の怪だと思い至れば契約が切れる。
二度と歴史を歪めることに手を貸さないようにと本丸から去る者が現れれば、更に詮索する者が出て、審神者から軍配団扇を借りて全員に証明さえした。

偽りの絆はすべて切れて、彼女自身に仕える者が残った。
fin.

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