さよなら、アイネクライネ


「お守り袋が一つ壊れたので今日は万屋に行きます」
「……俺は店にはついていかない」
「わかってます。お店の前まででいいですよ」

大倶利伽羅は忌々しげに舌打ちをしたが、それ以上文句を言うでもなく私の支度を待っている。
以前、外出の何がどう嫌なのかしつこく聞いたら「買い物に付き合うなんて冗談じゃない」と言われたので、町中の護衛だけ頼むことにした。立場上近侍もつけずに一人歩きというわけにはいかない。
丸め込んだのではない。道具は使われるためにあるのだ。術式を用いた主従契約を結んでいるから、彼らが望む望まないにかかわらず、この本丸の采配は私に一任されている。

資材の残りや内番を指示してから出かけた。
道中は会話が弾むこともなく、私が先を行き、大倶利伽羅は少し離れてついてくる。
それでも彼の間合いを考えれば護衛としては十分だ。

「……買い物なんて行きたがる奴が他にいくらでもいるだろ」
「そうですね。だからといって希望を取っていては時間がかかりますから」

大倶利伽羅がごちるのはいつものことなので、やんわりと受け流す。
チクチクと愚痴を言われても、この距離感が私には楽だ。
こうして本丸――あの箱庭から離れると少し自由な気分になれる。

帰りの時間を決めて、それまでに戻ってきてくれればどこにいてもいいとも言ったけど、大倶利伽羅は「移動が面倒だ」と言って結局店の入口に凭れて立って待つので、できるだけ手早く買い物を済ませることになる。
万屋を出ると、抱えていた荷物を黙って奪われる。
彼は私よりもよっぽど軽々と荷を運ぶので、取り戻すことも言及することもない。
また静かな帰路につく。

「あんたは、なんで俺を近侍から外さない」

行きの話題の続きだろうか。
大倶利伽羅は刀剣男士の中でも反抗的なほうだ。少なくとも表面上は。
主たる私に気に入られようとか、忠義を尽くして仕えようとはしない。
任務をこなすにあたってはもっと意欲的で従順な刀剣男士のほうが近侍に向いていると言いたいのだろうか。

歴史修正主義者と戦うためには政府に従順な駒が必要だった。
戦場は危険で、時空は繊細で、機密は多く、いたちごっこは途方もない。
臨機応変な戦術と強さ、そして決して裏切らない存在として、刀剣男士が選ばれた。

「あなたは私を"主"と呼ばないから」

付喪神を人の形に押し込めて、自ら戦えるようにする。
呪術を用いた呪術契約により、決して裏切られないようにする。
主に逆らうことはできない。
痛みなき道具として扱うなら、なぜ道具に心など自覚させたのだろう。

「……呼ばれたくないならそう言えばいい」
「そういうことじゃないんです」

呼び名を変えれば心まで変わるだけじゃない。
主と呼ぶその声が、忠義の目が、振る舞いがどうしようもなく重荷なのだ。

任務を命じるためには主と見なされるのが正しいとわかっている。
理由を説明することも、この役目から逃れることもできないのだから、この葛藤は私が抱え秘めなくてはいけないのだ。

大倶利伽羅に突き放すような言動が多いのは、私にきっと嫌われたいのだろう。
小さな気遣いや義理堅さ、誠意ある行いを見れば嫌いになれるわけがないのだけど。

今だって、そうじゃないならどういうことなのかと追及されることはなかった。
馴れ合いを嫌う彼は、私のことを必要以上には理解しようとしない。
そういうところが、やっぱり気楽だ。

問われたら黙るしかない。慕われると騙さなくてはいけない。
守秘義務によって彼らに告げずにいることの中には山ほどの偽りを孕んでおり、いつかきっと露呈する。
その瞬間のことを考えると足が竦む。

たとえば私たちの守る「正史」はすでに歴史修正の手が入っているのだ、ということ。

そもそも2205年の歴史書で未来人の存在が確認されたからこそ歴史修正主義者の存在が明らかになったのだ。
その時点で観測された時空こそがそこに生きる人間にとっての正史となる。
歴史修正主義者に今以上に歴史を変えられることも、すでに変わってしまった歴史を必要以上に正すことも、私を送り込んだ政府にとっては不都合なのだ。

訪れたことのある戦場で、敵の本陣がわかっていても、必ず方位を占う。
占い結果に従って敵の本陣と違う方位へと指揮すれば部隊から不満げな進言をされることもあるが、
そのとき、別の道にいる「倒してはいけない歴史修正主義者」と彼らを対面させるわけにはいかないのだ。

無数ある時空から一つを正史として選択し、他の時空を殲滅せんとす。
過去に生きる人が未来人の凶刃に斃れても、それが正史なら保存する。
政府の都合で守りたいものだけを守る。そこに大義はない。
かつての主の生きた歴史を汚されぬためにと戦っている男士を想えば、
こんな戦いは歴史を弄んでいるようなものだ。

検非違使の概念も、遭遇後に政府へ問い合わせて初めて知った。
我らも等しく歴史の異物だと断罪されることは、刀剣男士たちに少なくない疑念を抱かせた。
私も詳しくは知らされていないのだと言って、十分な説明はできない。
いつまでも隠しておけることじゃないだろうと思っても、彼らに告げる権限はない。

私には、主と仰がれる資格がない。
所詮政府に縛られた駒にすぎないのだ。

タイムリミットを告げる砂時計の砂は少しずつ落ちている。
今にも剥がれそうなメッキをまといながら、日々出陣の指示を出す。

いつかすべてが明らかになって、糾弾されることは覚悟している。
騙していたのかと憤って、見限って、いっそ去ってくれればいい、と思う。
任務によって縛られている私の代わりに、この本丸から自由になってほしい。
そのときまでの辛抱だから、期間限定の"主"を戴く。

「おい」

ぼんやりと思考の海を漂っていると、ぐい、と腕を引かれた。
少し乱暴に引き寄せられたところを荷車が通る。
庇われた、その拍子に、懐に入れていた軍配団扇が落ちる。

「あ……」

振るうのは戦場だけれど、大事なものだから携帯していた。
拾い上げる間もなく、道行く若者が蹴り上げ、別の荷車の後輪に踏まれ、軋む音がした。

頑丈にできているので壊れるほどではない。
少し端が欠けたかもしれない。彼らで言うところの"軽傷"だ。

近くにいた男が拾い上げてくれて、大倶利伽羅が受け取りに行った。
そしてそれを私に返そうとして――。

「その怪我は何だ」

顎で指された額に触れると、ぬるりと血が付いた。
不愉快そうな視線を呆然と受け止める。
言い逃れできない状況が諦念を生み、ついにきたか、と気持ちが凪いだ。

"軽傷"になったみたいです。
とは声に出せなかったので、曖昧に笑う。禁則事項にひっかかった。

刀が欠ければ彼らが血を流すように、私も本体たる軍配団扇の破損と無関係ではいられない。
薄笑いを浮かべてもごまかせることではない。
つい先程まで、私が彼らと同じ存在である事実は、決して明らかになってはいけない最重要機密だった。

正史を保つための管理者――審神者という役目は、ただ霊力があって術を知っていればいいというものでなく、現代から離れ、無期限で、決して裏切らず任務に忠実に務める必要があり、慢性的な人手不足だった。
そこで審神者の資質を持つ人間の中で優秀な者は、直接刀剣男士と主従契約を結ぶのではなく、
私のような軍配女士を配下に置いて、司令官として派遣して、彼らの"主"を務めさせ、間接的に本丸を運用するようになったのだ。

戦に際して方角を見極め、天文を読んで軍陣を適切に配置する。
軍配を行う者として、軍配団扇の付喪神に人の姿を与えて用いることは、それほど愚かではないだろう。

しかし「道具」という存在は、「道具」の主にはなれない。
物は物の所有者になれない。それは所詮"所有物"だ。
人の手によって人に使われるために生み出されたのだから、人を主に戴くものだ。
道具に宿った付喪神にとっての主とは、その道具の持ち主や使い手であり、大前提として、人なのだ。

人であればなんでもいいわけではなく、
たとえば運搬者とは違うし、博物館の職員などはただの管理者とみなされる。
その曖昧な境界を呪術契約で補って審神者を主と定めているとはいえ、大前提が崩れれば、彼らを縛る契約に綻びが生じる。
彼らを刀剣男士として喚び出したときに結んだ契約。それは欺瞞の上に成り立っていた。

複数の軍配女士に自らの能力の一部を貸与し、使役できるほどの実力者。
そんな審神者からの直接支配だけあって、私が"主"と結んでいる契約は彼ら刀剣男士が私と結んでいるものよりも呪縛が強い。
真名さえ握られ、自分の名も忘れて、多くの制限を課せられた。
自らの意思で機密を明かすことも、愚かで不毛だと思う任務から逃れることも、刀剣男士たちを解放してやることも決してできなかった。

だから、こんな形で露呈するとは思わなかった――。
不慮の事故でなく、むしろ降って湧いた幸運と呼べるだろうか。

「あんたは……――」

人間じゃないのか。俺たちと同じなのか。
続く言葉を待ったけど、大倶利伽羅は「いや、どうでもいいな」と呟き、それきり口を閉ざして、帰る方向へ歩き始めた。拍子抜けだ。

「聞かないんですか」
「あんたの事情に興味はない」

守秘義務があるので聞かれたところで肯くこともできないのだけど、素通りするには大きすぎる事実ではないのか。

主従契約はほつれてしまった。
"道具"同士、自由意思による尊重以外で従う理由がない。
呪術による強制力も契約が無効になっているから効かない。

今の大倶利伽羅は私から解放されている。
任務や命令に背くことも、本丸に帰らないことだってできるのだ。
それなのに。

そのまま何事もなく本丸に着いて、門をくぐって敷居をまたぐ。
口止めという概念が脳裏をよぎったけれど、馴れ合いを嫌う大倶利伽羅が告発や吹聴をするところが想像できなかった。
信じるとか厚意に縋るとかでなくて、自分がこの機密の露呈を防ぎたいのかどうかも、わからない。

「……手入れ部屋に行くなら裏手へ回れ」

そう声をかけられて、自分が額から流血していることを思い出した。
大した怪我でないといっても他の者に見られれば事情を問われるだろう。
本当のことは言えないから転んだことにして、人間のような手当てをして、その後で人目を避けて手入れ部屋を使うよりは、最初から直してしまったほうがいい。
言われなければ忘れていた。
すぐさま本丸を混乱させないという意味ではありがたい。

「ありがとうございます」

契約が切れた今、彼を縛るものはない。
いつ私の前を去っても不思議ではないから、今生の別れのつもりで感謝を伝えた。
別れは寂しいけれど、どこにもいけない私の代わりに、どこにでもいって自由になってほしいという気持ちもある。

その背中を見送って胸の裡でさよならと呟いたのに、
大倶利伽羅は一週間経っても二週間経っても、変わらない態度で本丸にいた。
誰かに何か言った様子も、立ち去る準備をしている様子もない。

これまで嫌々従っていたのだから、まっさきに去っていくかと思ったのに、
私に対する嫌悪が膨らんでいる様子もなく、むしろ以前よりも穏やかなほどだ。
普段通りの出陣や遠征を頼むと舌打ちしながらも従ってくれるところも、変わらない。
従う義理はないと言われても不思議じゃないのに、契約の綻びに気づいてないのだろうか。
情けをかけてくれているのだろうか。

こんなに嘘だらけの存在で、何もかも破綻しているのに。
他の偽りが露呈すれば、愛想を尽かされるだろうか。
義務を失った今、大義さえ失ったら――。

何もかも、永遠に隠しとおせるようなものじゃない。
いつかは他の刀剣男士に露呈することがあるだろう。
離反の流れが起こって、一人また一人と去っていくようになれば、彼も去るのだろうか。
それともずっとここにいてくれる?

隠し事の詰まった入れ物が落ちて中身が飛び出して散らばったのに、どこも壊れていなくて、拾って蓋をすれば元通りになってしまったと錯覚してしまう。
入れ物がひびだらけだというのが、まるで大したことじゃないかのように。

「どうして、変わらないでいてくれるんですか」
「あんたは変わってほしいのか」
「だって、もうどこにでもいけるのに」
「俺がどこに行くかは俺が決める」

淡々と返される答えが嬉しいのに、だからこそ、怖かった。
いつ真実が露呈して糾弾されてもいいように、誰にも情を移さないように、慕われないように慕わないようにしていたのに。
一度許されてから翻って蔑視されることを思うと、調理されるのを待つまな板の鯉になったようだ。

それでも、私の終わりが彼らの解放であることが、心の支えだった。
誰かの幸せを願えるのは、きっと幸せなことだ。

そして月日は流れ、大倶利伽羅に露呈したことを忘れかけた頃になって、
非討伐対象の歴史修正主義者の存在が刀剣男士たちに知られた。

部隊のすぐそばを通った異形を「倒してはいけない」と一喝すると、
「あいつらも敵だろ?」と不思議がられる。
認可を受けていない時空門を越えると姿が歪むから、
その異形が歴史修正主義者であることは一目瞭然だ。

「何か理由があるんだろう?」と問われ、私が説明を拒否するから、彼らは徐々に懐疑的になっていった。
検非違使の件と言い、不審点は無視できないほど観測された。
この役目は全うする価値があるのだろうかと、私と同じ気持ちを持った者も少なくない。

「俺、主のこと信じたいんだよ。信じさせてよ……」

騙していたのかふざけるなと詰め寄られたほうがまだましだったかもしれない。
信じさせてほしいと泣かれるから、覚悟していた以上に心の臓がねじれた。
私が人であれば、いとしい配下にここまで追いすがられたら意志がくじけて守秘義務を破っていたかもしれない。
でも私は物だから、契約に縛られて、持ち主の意向に逆らうことはできないのだ。

どうして道具に心など自覚させたのだろう。
歯車として決められた通りに動くことを求めるくせに。
心があるから、「これが正しいことなのかどうか」なんて葛藤が生まれるのだ。

情報規制を解いてくれないかと政府に要請を出したけど、認められなかった。
真実を話して離反者を出すくらいなら既存の部隊をすべて刀解して、何も知らない刀を新たに鍛えて一から任務に当たればいいとすら言われた。
蜥蜴の尻尾として、裏切りの責任を追って切り離されることさえ、私の役目に含まれている。

彼らの心が離れていく。
信じたいという真心を踏みにじり、忠義を削り損ない続けたのは私だ。
まだ他にも「秘密」がある以上、いずれ来る結末に変わりはなかったはずだ。
問い詰められても守秘義務に引っかかって説明一つできない私を、彼らは裏切られたような目で見る。
もどかしくて、辛くて、このままでは当たり散らしそうで、最後には口を閉ざして眼だけで詰る。

大義を見失って、情も離れて。
あとは契約さえ解けてしまったら、この本丸は瓦解するだろう。
ここに至って大倶利伽羅が私の秘密を守る必要はますますない。
絆を失うことになっても、刀剣男士たちを解放してやりたい。

「あんたは政府のやり方に納得してるのか」
「納得するとかしないとかは、関係ないんです。私がふさわしい身分でないと知れば、許さない者もいるでしょう。知って黙っていたら、あなたまで共犯です」

私の代わりにみんなに真実を伝えてほしいと、教唆のようなことは直接言えないので、こんなにふうに詰って、いっそ見捨ててくれたらいいと願う。

もう私から解放されてくれていい。
私ももう、罪悪から解放されたいのだ。

「俺の勝手だ。誰が敵になっても、俺は最初から一人で戦ってる」

大倶利伽羅の態度は、泣きたくなるほどに変わりがない。
たとえば一人また一人と離反が続いて、最後の一人になっても、ここにいてくれるつもりだろうか。
それなら、もしもそうなら、どんな未来も恐ろしくはないのに。

「心中、してくれるんですか?」

秘密に縛られ、契約に縛られ、この本丸に縛られ、どこにでもいけない私のかわりに自由を得てほしかった。
けれどその自由の使い道は、やさしい仮定だった。

「俺がいつ死ぬかは俺が決める。だがそのときは――あんたのために死んでやる」

人の身でなければ知らなかった熱が、頬を流れた。
fin.

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