籠の外のてのひら


その声を聞いたのはずいぶん久々な気がした。

「まだ起きているのか」

本丸の奥、主たる私の寝室のある区域には近侍さえ立ち入るのを禁じている。
こんな夜分に、 障子に人影がうつるのは珍しい。
部屋の灯りがついていたから声をかけられたのだろうか。

「そちらこそ。月見でもしていたの?」
「今夜は星月夜だ。月はない。
  少し夜風に当たっていた。……悪いとは言うまいな。あの部屋は息が詰まる 」
「それくらいかまわないけど……。入ったら?」

障子越しに会話しているのも妙な気がして、入室を促す。
「いいのか」 確認されると咄嗟に駄目だと返したくなるが、撤回するより戸が開くほうが早かった。
美しい男。三日月宗近が寒々しい笑みを浮かべて立っていた。
まばゆいほどの美貌には、憔悴したような隈が浮かんでいる。

「顔を見るのは久々だな」
「そうかな。最近検非違使だの京都だのと 表のほうが忙しかったからあまり奥にはいなかったかもしれない。
宗近はずいぶん疲れた顔をしているのね。 ちゃんと眠ってる? 」
「飼い殺しにしておいてよく言う。夜になっても眠くはならん」
「不眠? それは困ったわね。…… 飼い殺し? に、したつもりはないけど」
「飼い殺しでなければ幽閉か。自覚がなかったのか?  この区画から出てはならないと言ったのはお前だろう。」
「たしかに言った、けど」

三日月宗近には一度も出陣を経験させていない。出陣のための訓練さえ禁じている。
他の刀剣男士にはその存在すら隠している。
新参の男士はこの本陣にまだ三日月宗近が来ていないと思っているし、古参の男士は三日月宗近がすでに刀解か錬結されたと思っているのだろう。
近侍も入ってこない寝室の傍なら、隠せると思った。

「俺の何が気に入らなくて重用しない? 美しさを讃えられることが多いが、斬れ味で実戦刀に劣るつもりもない。こんなふうに蔑ろな扱いを受けたのは初めてだ」

蔑ろにしたつもりはなかったけれど、そうか。
三日月宗近は国宝であり、三条の刀であり、天下五剣でもある。
宝物として何よりも大事にされることに慣れているのだ。
だからこんなふうに誇りを傷つけられたと憤る。

「……戦いたいの?」
「持ち腐れにされるよりはな」

戦に出るということは傷つき、折れる可能性さえあるということだ。
政府から出陣の指令がある以上、すべての刀に「戦わなくていい」とはいえないけれど、一振りくらい、喪うことを前提としない刀がほしかった。
代替可能でないたったひとつが。
美しい刀だから、宝物のように思えたから、 傷つけずにしまっておこうと思った。

「気に入らないわけじゃ、なくて。 …… 道具なのにただ仕舞われてはくれないの」

あからさまな贔屓だから、 無駄な軋轢を生まないように、表とは明確に区別した。
他の刀剣男士たちが使っている設備とは違っても、奥には私が使うための食事場や風呂場もあるから、不自由させていないつもりだった。

私情で彼を庇い立てしている負い目や後ろめたさの分まで、私は馬車馬のように働いた。
彼にはなにもせず優雅に過ごしてもらえればと思っていた。
そんな、私の「大事にする」じゃ不足だったのだ。それならどうやればよかったんだろう。

「俺に人の身を与え心を目覚めさせたのはお前だろう? 道具は手入れせねば錆びるものだ」

彼らは、どこまで”人”でどこまで"物"なんだろう。
付喪神ならば放っておかれることにも慣れているのだ思っていたが、たしかに今は人の身だ。
ただの人間なら己の身は己で勝手に大事にするけど、彼らが心を得ても「物」のままだと言うなら、人が大事にしなきゃ心が錆びてしまうのだろうか。
壊れないように戦に出さずにいるのに、ただしまっておくだけでは磨り減っていくのか。

「……めんどくさいね」

つい本音が口を滑ると、三日月宗近から冷ややかな視線を感じる。
こうして不満を直接ぶつけられるのも、物とは違う。
人は人で煩わしく、物は物で厄介で。その間は間で難儀だ。

「お前は何をしていたんだ?」

怒って出て行くかと思いきや、別の話をするらしい。少しほっとする。
こうして話をするのも久しぶりだ。
さきほど恨みごとのようなことを言われたから、嫌われているのだと思った。
ああ、でも。嫌われているのだとしても、物は、黙って離れていかない。勝手に錆びついて劣化したり壊れることがあっても、 そういうところは人と違って、好ましい。

「爪を切っていたの。割れてきちゃって」
「おなごは爪を削るものだと思っていたが」
「削る人もいるだろうけど、私は切るの。切った爪はお守り袋に入れるから」

自分の体の一部を依代にするのは、呪術でよく用いられる手段だ。
清めるとは言え、他人の爪や髪を持ち歩きたいとは思えないので男士たちに教えたことはないが、曲がりなりにも彼らの主であり、審神者としての霊力も有する私の肉片は効力が高い。
そういえば切った爪は三日月形だなと、ふと思う。

「俺にもひとつくれ」
「あなたを戦に出すつもりはないから」

髪を切っても手入れ部屋で直ってしまう彼らと違い、髪も爪も、私が用意できる人体の一部は有限だ。
戦に赴く全員分に予備も含めると、十分とはいえない。
ただでさえ贔屓にしているのに、不要の物を与えるなんてできない。

「持っていたいだけだ」
「数が十分じゃないから今はだめ」
「……そもそも、体の一部を誰彼かまわず配るとは迂闊すぎないか。俺たちは人ならざる者だ、弱みを握られても知らんぞ」

呪術の依代として悪用されることを案じているのだろうか。
たとえば藁人形に髪を入れられるような。
相手が妖だろうと神刀だろうと、その程度のことで危機になるようなら、審神者なという存在が彼らを従わせられるはずがない。

「付喪神と言っても、あなたたちは刀剣男士という型に嵌められている。物の怪としての使い方は思い出せないでしょう?
身に宿る霊力はすべて戦うための力、すなわち刀の斬れ味に変換されているはず」

神刀だったり実戦刀だったり、本体が現存していたりいなかったり、
事情の異なる多くの刀を画一的な兵器にするために「刀剣男士」という型が用意され、理不尽な当て嵌めさえしている。
私も含め、政府側の身勝手さは、彼らに対して罪悪感を抱くことさえおこがましい。

「警戒心が足りないと言っている」
「警戒は無用だと言っているの。 私が審神者である以上、逆らえないでしょう。だから不満に思ってもこの区画の結界は効くし、出てはいけないという命にも逆らえないんでしょう?」

彼らに対しては傲慢であろうと決めた。
人の形をしていても、物として扱うことに慣れなくていけなかったから。
そのかわり傲慢の根拠にできるくらいの力は有しているつもりだ。

「俺がこの区画から出ず、他の奴らに知られぬよう気を使っているのはお前の言を尊重しているからだ。抜け道を探せば見つかるかもしれん」
「結界を強めておく」
「対症療法だな。 今だって憎いと言えど男を寝室に招くなど、何をされても文句はいえんぞ」
「…… 憎いって、誰が?」

三日月宗近が私を憎いというならわかる。不自由を強いた相手だから。
好かれていなくても、道具として手元に置くことはできるから、それでかまわないと思っていた。
逆はわからない。憎いものを、隠れてまで贔屓したりしない。

「憎いという言い様が気に食わないか? だが隠匿し蓋をするほど俺を疎んでいるのだろう。時間が経てば親しむことがあるやもと思ったが、その様子もない」
「疎んでなんかいない」
「ではなぜ押し隠す」

じいっと睨まれて、どうしてこんな行き違いが生じたのか考えてみるけど、結局、一言に集約される。
また駄目だった。最初から無理だったのかもしれない。向いていないものはどうしようもない。

「私は、物を大事にするのがへたみたい」

割れた形見。咲かずに枯れた朝顔。轢かれた飼い猫。死んだ金魚。
そんな過ぎ去った宝物を想起する。
私の無知で、不運で、油断で、不注意で、どうしようもなく損なわれていったものたち。

「俺は虐待されていたのではなくて、大事にされていたのか 」

三日月宗近は心底から意外そうに言った。嫌われているのだと思っていた、と。
私は物の扱いだけじゃなくて、人に心を伝えることだって苦手だ。ようするに何も得意ではない。
こんなふうに、伝わっているべきことが伝わっていなかったりする。

「あなたは月のように綺麗だったから……本当に月のようだったらいいのにと、思った」

三日月宗近は特別な刀だった。
打ち除けが多いから三日月、と聞いても、輝く刀身が月そのもののようで、何度も見惚れた。
人の形をしてまばゆいほどの美貌には「傾国の」と付きそうだ。

手に入りにくいというのは噂で聞いていた。
同門の審神者などは"仏の御石の鉢・蓬莱の玉の枝・火鼠の裘・龍の首の珠・燕の産んだ子安貝と同じような存在だ”とまで言っていた。話にしか聞かない珍宝だ、と。

「……その、心は?」

そんな特別な刀が、どん底の失意にあるときに顕在化するから、運命じみたものを感じたのだ。
だから、絶対に折るまい、特別扱いをしようと決めた。心の支えにするつもりだった。
毛並みのいい猫を眺めるように、 心をずいぶん慰められた。

「いつもそこにあって、愛でたいときだけ見上げればよくて、私が手を伸ばしても触れることはできなくて、汚すことも壊すこともない」

名刀ばかり、四十も五十も個人で保有するなんて、天下人でもなかなかないだろう。
でもそれは何もかもが私のものというわけじゃない。戦道具を預かっているにすぎない。壊れる可能性があるから、ずっと私の物である保証はない。審神者の使命は彼らを戦わせることだ。
でも、たった一振りなら、喪うことを恐れなくていい物として、 ずっと手元に置いてもいいんじゃないかと、欲が出た。

「くっ、ふははは」

誰にも言ったことがなかったことを吐露すると、三日月宗近はこみ上げたように急に笑い出して、腹を抱えた。
本心を笑われたようでむっとするが、翳りが晴れたような笑い顏を見ると、笑われるかいがある気がしてくる。
あんまりにも大声で笑うから、夜分のしじまに響いて、 他の男士に聞かれるんじゃないかとひやひやした。
でも笑い声に掻き消えてしまうと思えば、なさけない懺悔もできた。

「――私は、初期刀を折ってしまった。初めて私の力で顕在化した刀だった 」

物として割り切って接していたつもりでも、どうしても思い入れが深くなってしまった。
大事にしたかった。大事にしているつもりだった。それでも折れてしまった。

「あの子が最後の鍛刀で出してくれたのがあなた」

今度こそ大事にしようと思ったのに、 顔を見ればあの子を思い出すから目をそらした。
あの子を大事にできなかった罰を自分に課したくて、好かれることは諦めた。
心までは手に入れていないことは、心が離れていくと怯えなくて済むからいいのだと思った。
贔屓することが選別のようで他の男士に後ろめたくて、あまり近づかないようにした。

「でも、もう」

間違ったやり方だった、大事にできていなかったというなら、留めてはおけない。
今からでも表の男士たちと同じ扱いにするのだろうか。
こんなに特別扱いして、情を移したのに?
逃げた小鳥が変わり果てた姿で見つかるのはもう見たくないけど、その羽が心労で傷ついているというなら、鳥籠から逃してやるべきなのだろう。

「もう、 あなたの自由にしてくれていい」

意を決して籠を開け放った。
すると一頻り笑い終えた三日月宗近は、目尻の涙を拭ってから、こう宣った。

「よし、わかった。お前の気が済むまで囲われてやろう」
「え?」

今までの話の流れでどうしてそうなるかわからなくて、目を瞬かせる。
三日月宗近はとろけるような笑みを浮かべていた。

「好きなだけ放置し、好きなときに愛で、好きなように触れて、好きなふうに撫でるがいい」
「なにそれ……。おまえはそれでいいの?」
「遠慮はするな 。愛でられるのも放っておかれるのにもなれている。
戦うだけが刀ではないからな。持ち主の心を慰めるのも道具の立派な仕事だ」

毛並みのいい高級猫のように飼われるのを受け入れるということだろうか。
天下五剣のプライドはそれでいいのだろうか。
私は本当に、人も物も、大事にするってことができないのに。
これじゃ対価に払えるものが何もない契約だ。

「ふふ……俺はもう決めたぞ。お前の元へ来たのも縁だ。最後まで付き合ってやろう 」

この区画から出てはいけないと告げたときでさえ渋るだけだったのに、なぜだか今は強固な意志を感じた。
ぐい、と手を引かれ、指を彼の頬に触れさせられる。

「大事にしてくれるんだろう?」

艶めいた眼差しにぞくりと背が粟立つ。
手中に収められたのは、きっと私だった。


( 題名提供: 広原さん )

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