1-1. 何から話せばいいだろうか。


掛けたはずのドアの鍵が開いていて、一人暮らしの玄関に男物の靴が揃えておいてあった。
嫌なわけじゃないけど、なんとなく複雑な気分に見舞われながらリビングのドアを開けた。
リビングには居らず、彼は私の部屋のソファに寛いで読書をしていた。

「クロロ、来るときは連絡してって言ってるでしょ。
それに、予告もしないで女の子の部屋に勝手に入らないでよ」

すると彼は涼しい顔で言った。

「この家は俺の所有物だ」
「あなた名義だけど生活しているのは私です!」
「堅苦しいことはいうものじゃないさ、真珠」

以上の会話を聞いて誤解しないでいただきたいのだが、彼は私の恋人などではない。
言うなれば、単なるスポンサーだ。


何から話せばいいだろうか。

私は昔から本好きな子供だった。
読書家なんてぬるいものじゃない、極度の活字中毒だ。
本に埋もれて暮らしたいと本気で思っていた。
食欲や睡眠欲は頑張れば三日くらい耐えられると思うけど、読書欲は無理無理。
たとえば受験時代はなによりも飢えと戦う毎日だった。


そんな私の人生が大きく捻じ曲がったのは大学が決まった冬のことだった。
やっと受験が終わって、私は意気揚々と学校の図書室に向かった。
本屋にも行くけど、欲に任せて本を購入してたら財布がもたない。
故に学生の間は図書室という特権を最大限に利用することにしていた。
図書室の本を在学中に読み尽くすのが目標だった。

荷物を置いた私は、早速本棚の間を練り歩き始めた。
本に囲まれた空間は歩いているだけでマイナスイオン並みに癒された。
文字通り図書室の隅から隅まで本棚を眺めて、気に入ったものを手にとっていく。
一列目、二列目、三列目……、
そして私は久しぶりに来たものだから、本棚の列が本来よりも一つ多いことに気づかなかった。
新しい本が入荷しているかもしれないと思って、夢中で角を曲がったのだ。

その本棚に収めてある本は、どれも見覚えがないものだった。
タイトルが日本語でも、英語でもなかった。
けれどどこかで見たことのある文字の形だ。
どこだったか…と本を一冊手にとって頭を捻った。

あ。

「ハンター文字?」

ありえないと思ったから声に出してしまった。
なんで漫画の世界で使われている言語の本が出版されていて、それが学校の図書室にあるんだ。図書室に、と。
そう繰り返して、私はやっと周囲の異変に気づいた。見渡して、二歩ほど後退った。

本棚の形が、雰囲気が、居慣れた図書室と違う。
ハンター文字で書かれた本が並んでいたのはその本棚だけじゃなかった。
どこの空間を埋め尽くす本棚の殆どにその言語が記されていたのだ。
カウンターがある方に目を向けた。テーブルを見て、司書さんを見る。
そこはもう学校の図書室なんかじゃなかったのだ。


それから私がどうしたかというと、考えることを放棄して読書に没頭した。
祈っても狼狽しても何も変わらないと本能が告げていた。
正直に言わせてもらうが、見たこともない本が並んでいる空間にいて、私の読書欲が疼かないわけがなかった。
のちに知ったことだが、そこはとある大きな国立図書館だったらしい。蔵書の数はいうまでもない。

幸い私は漫画も人並み以上に読む人間で、
一度読んだ本の内容は忘れないというなんとも都合の良い特技を持っていたので、
記憶と照り合わせればハンター文字を読めないこともなかった。
というか、情熱があったのですぐに慣れることができた。


無心で10冊ほど読み終えたとき、後ろから声を掛けられた。それがクロロだった。
たしか最初の言葉は「ねえ、君」だった。今さらながら「ナンパか」と突っ込みたい。
のちの彼曰く、「突然現れた女が自分好みの本を無心かつ高速かつ黙々と読み続けていたら気になる」そうだが、
一般的な感性を持った人間ならそんな変な女に近寄りたくないと思う。
というか私は突然現れた瞬間を見られていたらしい。それが主な彼の興味の原因だろうか。

ちなみに近寄ってほしくなかったのは私の方だ。振り向いて後悔した。
ハンター文字という前提もあり、彼の容姿を見てすぐにピンときた。
幻影旅団団長クロロ=ルシルフル。
一瞬いろいろな思考が脳裏を駆け巡ったが、すぐに状況を理解した。
私が今いるのはそういう世界で、彼は幸せな読書ライフのためには関わっていけない物騒な人物だ。

「はい、…なんでしょう」
「その本面白いよね」
「ええと」

物分りの良い内心とは反して、口からはおどおどした敬語を出た。


最初は「迷惑だこっちは本を読んでいるんだ邪魔するな」を、
回りくどくそれでもはっきり言って遠ざけていたけれど、気づけば閉館時間。
私には帰る場所、宛、および手段がなく、食事に誘ってくれたクロロを頼るしかなかったのだ。
というか閉館時間まで何食わぬ顔で待っていた彼の興味はあの時点で小さいものではなかったのだろう。

格調高いレストランでの食事は未だかつて味わったことがないほど美味しくて、会話も弾んだ。
話題はもちろん本。
最初は出来るだけ話さないようにしていたのだけど、クロロも読書好きで、私たちは驚くほど趣味が合った。
彼はさっきまで私が読んでいた本に一通り目を通したことがあるらしかった。

しかし、それはあくまでさっきの図書館にあった本の話で、クロロが私の世界の本を読んだことがあるはずがない。
彼は、趣味が合うわりに、私が挙げる本を悉く見たことがないということを訝しく思ったらしい。
問い詰められて、私は隠す理由もないので事のあらましをはなした。
HUNTER×HUNTERという漫画の存在については触れなかったけれども。
すると彼は疑うどころか、本格的に興味を覚えたらしく、その日の宿を提供してくれた。
それが始まりだ。



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