箱庭と方舟(前編)


人の身でありながら、付喪神に人の姿を与えることができるほどの霊力。
審神者の力を、歴史の修復に使うよう政府に要請されたとき、お師匠様には生涯離れることを赦されぬ御役目になるだろうと告げられた。
歴史の改変(敵はそれを歴史の「修正」と呼ぶ)が成されれば、波及的に現代の在り方さえ変わってしまうことがありうる。
それを防ぐためには生涯、歴史改変の影響を受けぬ”神域”という特異点にある山城に篭って、過去への干渉を繰り返すことになるのだ。
「極めて霊力の高い乙女」という神域に立ち入るための条件もあり、適正のある者は限られていた。

任を受け入れぬのなら敵に利用されることがないように幽閉、という半ば脅しのような通告を、それでも受け入れたのは、自分も大切な人も失いたくなかったからだ。
歴史修正主義者が動き出したことによって、すでにいくつかの歴史書に不自然な空白が見受けられるようになっていた。その空白に元とは別の事柄が記されるようになれば、改変された歴史がこの時空に固定されるのだろう。
早く修復を施さなければ、"今"が別のものになってしまう。
大切な人が煙のように消えてしまわないように、私は戦うことを決めたのだ。

最初の頃は知り合いから引き離された慣れぬ生活で、悩みも多かった。
戦いの緊迫感も審神者の役目も重荷でしかなく、刀剣男士たる彼らと心を通わせることも難しかった。
そこから、だんだんと彼ら一人ひとりと言葉を交わして性格もわかってきて、私に心を許してくれていると感じることもあって、ここが私の居場所だと思うこともあった。
一つ勝利を持ち帰ってくれれば手を叩いて喜んで、 頑張ってくれてありがとうと抱きしめて出迎えたものだ。

そう、小さな影響を小さな介入で勝利し、阻止していた内はよかった。
けれど、歴史上でいくら勝利を重ねても、敵は同じ時代にも次々と湧いて出てくる。
修正と修復のいたちごっこを繰り返して、みすぼらしい継ぎ接ぎが増えていく。
歪んだ歴史を元に軌道修正しようとする、その行為もまた歴史に歪みを作る。
作り出した歪みは、手垢がつくほどに無視できないものになっていった。
小さな焚き火から立ち上った煙が遥か彼方まで広がって、気づいた頃には山火事になっているのを、呆然と立ち尽くして見るように。

違和感を感じることはいくらでもあったはずだけど、ずっと見ないふりをしていた。
私も彼らも必死で歴史を修復するために戦って、これ以上何をどう頑張れというのかわからなかったから。

「おかしいな」という違和感を無視できなくなったのは、
定期的に来ていた政府の使いが途切れたときだった。
私は時空の管理人としてできるかぎり神域である山城を下りないようにしており、政府からの指令は使いの少女たちが運んでいた。指令を携え、報奨や必需品を運んで、報告しに帰っていくのが常だったのに。

"忘れられている” “見捨てられた”など、様々な可能性が浮かんでは沈み、不安が募る。
鍛刀――別の時空から刀剣を喚び出すための儀式――に用いるための資材だって、自力での調達には限界がある。
御役目を果たすためにも物資不足は無視できず、自ら確かめに赴くことにしたのだ。

なにしろ幾年も山篭りしていたものだから、流行には疎い。
人里に下りて、 見慣れない服装の若者が多かろうと、知らない語句が会話に入り込んでいようと、知らぬふりをできた。

けれど、さすがに国政の要地の名称が変わっていたときには絶句せざるをえなかった。
政府の要人の名を挙げても「存じ上げません」と返されて不気味を感じ、思い出せる限りの知人の連絡先を挙げては別人が出た。

ここはもう私の知っている時空じゃない。
いつのまにか神域の外は私の知らない世界になっていた。
背筋が凍り、帰り道さえ閉ざされてしまったらどうしようという恐怖に駆られ、慌てて本丸へと逃げ帰った。
幸い、神域は時空の特異点というだけあって、彼らは日常のまま、ほんの少し出かけていただけの私を出迎えてくれたのだ。

帰ってきた私は顔面蒼白だったらしいが、事情を聞かれても、うまく言葉にできなかった。
"役目を離れれば歴史の修復が追いつかなくなり、やがて現代は変容してしまう”と聞かされていた。
私が御役目に就いていても、日々務めていても、時空は変容してしまうもの らしい。

毎日が忙しくて、両親や友達に想いを馳せる時間が減った。
彼らと過ごすことが楽しく感じるようになり、つかの間の幸せに溺れて、見失っていたものがある。

目を閉じて、両親の顔を想起した。 声は、性格は、思い出は――?
なにもかも思い出せないわけじゃないのに、不自然な空白はたしかにある。
歴史の教科書が白抜きになっていくように、歴史を説かれた記憶が飛び飛びになったように、家族や友人、 自分自身の過去さえ、こぼれ落ちていく。
歴史改変の影響はもうとっくに現代まで届いて、修復不可能なところまできていたのだ。
恐ろしいことに気づいて、立っていられなくなる。

戦って、戦い続ければ元の時代に帰れる? 一度溢れてしまった水を戻せる?
味付けを間違えた料理に、調味料をさらに足したって別の味になっていくのに?

いたちごっこを続け、微調整たる"修復"を繰り返して、時空を完全に元通りにすることを考えると途方もない。
心から 『無理だ、できるわけない』と思ってしまった。

それじゃあなんのために戦うの?
大切なものはもう消えてしまったのに。
彼らに、元の主の死を何度も見届けさせて、戦いの場に引っ張りだして、何度も重傷を負わせて……。

もう限界だ。
心の支柱がなくなって、ぐらぐらふらつく。

「和泉守。ねえ、土方歳三を……あなたの前の主を、助けに行ってもいいよって言ったら、どうする?」
「……歴史は変えちゃいけねーんだろ。オレを試してんのか?」 
「和泉守じゃなくてもいいの。みんなの悔いを晴らせるように、歴史を変えてしまっても、もういいかな、って」

誰のために戦っているのかわからないくらいなら、もういっそ
彼らの望む形に歴史を変えてしまったほうが、「私の知る誰かのため」になるんじゃないかって、思ってしまった。
だって、私にはもう幸せを願える相手が彼らしか残っていないのだ。
ああ、もしかしたら歴史修正主義者とは今の私のような存在を言うのかもしれない――。

「ッんで、あんたがそんなこと言う。今更……! オレ達の主はもうお前だろうが!」

目に涙を浮かべ、苦しいほど私の胸倉を掴む彼を見て、とてつもなく残酷なことを聞いたと自覚した。
彼が今までどんな思いで歴史の修正を防いできたのか。
ずっと残酷なことをさせてきた。 せめて最後くらいはと思ったけど、逆効果だったらしい。
叱り飛ばしてくれる”友人”を持てて、私は幸せだ。

このまま黒く歪んで、彼らの主であることさえ誇れなくなるところだった。
審神者たるもの、自ら歴史を歪める存在になることだけは避けなければいけない。

思いとどまることで、思い出すことができた。
そうだ、審神者の任につく前日、両親に託された桐の箱があった。
お師匠様から、もう耐えられないと感じるようになったら開けなさいと言付かったそうだ。
あの人は無意味な物を授けたりしない。自害の道具が入っているならありがたい。
いとしい彼らに介錯なんて、頼めないから。

もう、彼らに過去への出陣を命じるつもりはない。
私達が戦うことをやめれば、敵による歴史の改変は加速度的に進んでいくことだろう。
けれど、もうどんな形の現代を守ればいいのか私にはわからないのだ。
本来付喪神である彼らは、もう私という楔から解放されるべきだ。

政府が審神者の役目を与えた事実まで消えてしまったのだから、私もいつまで自己を保っていられるかわからない。
この神域にいる間は記憶の書き換えを免れるのかもしれないけど、正気でいられる自信もない。
せめて、書き換わっていく記憶が自分自身まで変えてしまわぬうちに、彼らのことを忘れたり失ったりしてしまわぬうちに、彼らとの出会いや日々がなかったことにならないように、幕を下ろそう。

誰も私の部屋に近づかないようにと命じて、白装束に着替え、桐の箱を取り出す。
――嫉妬されそうだから刃物は嫌だな。眠るように終われる毒だったら一番いいのに。
そんなことを考えながら開けた。
中に入っていたのは、分厚い手紙と古い鍵だった。

手紙はお師匠様からのもので、枚数が多かったけれど正座して読むことにした。
この箱を開けたということは――と綴られている。
私の現状を見透かしたような文章が並ぶ。
苦悩も危機も軋轢も、監視カメラで見ていたような口ぶりだ。
たしかにお師匠様には先見の力があったけど、歴史が変わってしまった今、未来は曇ってしまったと仰せだったのに。

そうです、私はどこまでも未熟で、ふがいなくて、この立派な御役目を正しく果たすことはできなかったのです。
手紙を一行追うごとに目頭が熱くなって、何度も頷く。
散々足掻いて藻掻いてそれでも岸には届かなくて、ずっと溺れそうだった。
ずっとこぼれないように胸に溜めてきた弱音が、堰を切って嗚咽としてあふれた。

せめて最期くらいは潔くあることを、ゆるされるだろうか。
審神者として、審神者のままで死ねるなら、悪くない最期かもしれない。

さて、凶器の場所はいつ教えてもらえるのかと読み進めていると、
一枚目は『これを以って、そなたに審神者の任を離れることを許す』と締めくくられていた。

ああ、諦めたことを、ゆるしてもらえた――。
もう頑張らなくていいのだと、赦しをもらえた。

それだけで十分だ。
たとえ楽な道具が用意されていなくとも、背を押された。自分を手放す覚悟ができた。

"審神者たる力が敵の手に渡り利用されることがないように"
政府の人間さえ消えてしまった今、私が自らこの力をこの身ごと処分する必要があると感じていた。


『すべての霊力を刀剣男士たちに譲り渡し、審神者としての力を手放せ。
只人となった刀剣男士と共に、神域を離れ、この新たな時代に只人として生きよ』


お師匠様の文にそう記されていて、きょとんと、視線止まる。
どういうことだろう?
幼い頃から身に宿していた霊力は私と切り離せないもので、手放すことができるなんて想像したこともなかった。
任を離れる=死だと信じて疑わなかった。
それに、刀剣男士たちを人間にする?

――曰く、遠い過去や未来に介在して歴史を正すことは本来神の所業である。
ただでさえ、付喪神に人の姿を与えることができるほどの霊力。付喪神と共に時空の番人を行ってきた私の霊力はすでに神の真似事ができるほどに達している。
その状態で神域を離れるのは極めて危険である。
しかし、その過剰な霊力を使い切ることができれば、只人に身を落とすことができる。
幸いにして霊力を注いでも受け止めることができる対象――刀剣男士たちがいる。
付喪神たる彼らを「人の紛い物」ではなく「完全な人間」に変えてしまう奇跡を起こせば……私も彼らも、審神者と刀剣男士ではなく、只人同士となるだろう。

手紙には、そのように書かれていた。

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