――この人は耳で音楽をやっていない。
その違和感は根深く私に突き刺さった。
そもそも、初心者が、一年生で、強豪吹奏楽部の学生指揮者を目指すなんてむちゃくちゃなんだ。
突然現れた神峰翔太という存在に、正直良い気分ではなかった。
だけど、指揮もアドバイスもたしかに的確だったりするし、あの刻坂くんが見出したのだから音楽の才能はあるのかもしれない。
トランペットパートでは音羽先輩の問題を解決してしまったし、他の部員にも徐々に受け入れられているようだ。
天才っているものなんだなぁと、この部活に入って痛いほど身にしみていたことを、もう一度噛み締めた頃だった。
違和感に気づいたのはちょっとした偶然からだ。
私はちょっとばかり耳がいい。
絶対音感もあるし、目を瞑っていても音の反響からだいたいの空間を把握するというコウモリみたいな真似もできる。
聴こえたとおりの音色を再現するには技量が足りなくて演奏者としてはまだまだ未熟だけど、吹奏楽が好きで、尊敬できる先輩や同輩が好きで、音に囲まれる中で演奏するのは心地よくて、練習も苦じゃなった。
そんな私だからきっと気づいたんだ。神峰くんは耳で音楽をやってないって。
＊ ＊ ＊
昼休み、たまたま友達に会いに隣のクラスに行って、神峰くんの机の上に、食後に飲んだと思われる薬が放置されているのを見た。
風邪気味なんだろうか。
でも、あれは――フラベリック錠は、飲むと音感が狂うのだ。すべての音が半音や半々音、ずれて聴こえるようになって気持ち悪くてしょうがない。度の合わない眼鏡をずっとかけて、視界が歪んでいるようなものだ。吹奏楽には致命的……。
ただでさえ風邪を引くと耳鳴りも起こしやすいし、鼻づまりを直すと耳に不調が来る。体調的に学校に来られるか、という問題じゃなくて、音楽家にとって風邪は大敵なのだ。ただでさえ指揮者は演奏全体を聴いて把握する繊細な立場なのに。
もう飲んでしまったみたいだけど、せめて原因くらいわかったほうがいいだろうな。
できれば今日は無理しないでって言ったほうがいい。
私なら、ずれた音が耳に残るくらいなら耳栓してしまったほうがマシだ。
音羽先輩なら、頭の中でズレた音を直せるくらい器用なのかもしれないけど――。
＊ ＊ ＊
「その薬、音感狂うんだよ。前に飲んだとき全部の音が半々音ズレて聞こえて、すごい気持ち悪かったから飲まないほうがいいよ」
「マジか。飲んじまった。あー だから、なんか今日違和感あったんだ」
反応は納得。
薬の副作用は誰にでも出るわけじゃないが、神峰くんにはすでに出ているらしい。
「部活、やめといたら？」
「心配してくれてんだよな。ありがと。でも熱も引いたし、今日どうしても試したいことがあるんだ。駄目って言われても一回は振らせてもらうつもり」
ぐわんぐわんと、ただでさえ気持ち悪いはずだ。
聴覚の不調は深刻な問題だと思ってしまうのは、私が生活で耳に頼りすぎているせいだろうか。
でも、門外漢ならともかく、神峰くんだって"音楽"の人なのに。
「大丈夫か、神峰」と刻坂くんに聞かれても、
「ああ、俺はみんなを信じてるから」と頷くだけだった。
＊ ＊ ＊
風邪気味でマスクしていたけど薬を飲んで鼻水も引いたという神峰くん。
「俺、振れます。これくらいの不調で練習サボりたくないっす」と宣言して、
谺先生も「本番常に万全で臨めるとも限らないしね。ただし無理はしないで早めに帰ってさっさと寝ること！」と許可を出した。
そして、その指揮は――。
＊ ＊ ＊
奏者を見つめる顔がいつもより険しいなと思った途端、ニカッとこちらを安心させるような笑顔が向けられる。
それでスッと力が抜けたのは私だけじゃないんだろう。
澄んだ音が放たれて、音響設備が急に増えたような空間の広がりを感じる。
「思ったより平気そうだな」
「頭から落っこちても指揮振るような奴だしね」
神峰くんが振る指揮棒から伝わってくる指示はどれも的確なもので、演奏のバランスが絶妙に噛み合うようだ。
風邪を引いているだけなら私だって疑問を持たなかった。演奏がまともに聴こえていないなんて信じられない。
特に、《少しピッチ（音程）を上げろ》という指示が出て驚愕する。
ズレて聴こえているはずなのに、どうしてそんなに正確な音程がわかるの？
半音、半々音を相対的に計算しているのだろうか。
……そんな器用なものじゃない気がした。
神峰くんは演奏を聴いていない。
耳でないなら、なんだ。
音じゃないなら――
演奏者を観察している？
各パートの奏者の反応を見てる？
態度を目で見て判断している？
空気を読んで指揮を振っているの？
そんなことが可能なんだろうか。あっていいんだろうか。
私が目を瞑っても空間を見られるように、
神峰くんは耳を塞いでも演奏が聴けるんだろうか。
みんなを信じてるから、と言った神峰くんは、きっと、耳栓しても指揮できるのだ。
＊ ＊ ＊
音楽って、なんだろう？