草刈り姫7.



篠岡は慌てて先輩を立ち上がらせると、
よしよしと頭を撫でながら「怪我してない?」と小さい子をあやすように尋ねて、
ひとりにしてごめんね、ちょっと監督に呼ばれていたの、と謝った。
まるで小さい妹を守る姉みたいな態度だ。
そして、俺たちのほうをきっと睨んだ。
悪いのは阿部だと思っていたから、普通に話しかける。

「しのーか、その人って年上じゃねーの?」
「うん、そうだよ」
「敬語とか使わねーの?」

篠岡は、中学時代にも運動部で、普段は年上に対する態度がしっかりしている。
それが会って間もない先輩を妹みたいに扱っているギャップに驚いた。

「あー……、自己紹介すんでから学年知ったからさ、
もう普通に話してたし、敬語に変えようとすると嫌がられちゃって」
「だ、だってわたしが千代ちゃんに敬われることなんて、どこにも……」

『嫌がる』という響きにびくびくしながらも言い繕った先輩は、社交辞令が通じないタチらしい。
おそらく篠岡が敬語を使うと、それ以上に恐縮されてしまうのだろうことが、
今までの様子を見ていて、だいたい想像できてしまった。
年上の自覚がまったくないというわけだ。
たった一年早く生まれただけだと思っているのかもしれない。
けれど、先輩自身が年上にタメ口をきいたりはしないのだろう。
なんせ年下である俺たちに向かって半分敬語で話していたくらいだ。

『主張している』ということが大きなプレッシャーなのか、声は段々小さくなり、
話を聴こうとしている俺たちの沈黙が痛かったのか、ついに黙り込んだ。
篠岡は先輩が泣き出す前に、にっこりと笑顔を作った。

「私も仲良くしたかったし、どうせ昼休みには他に人もいないから、いいかなと思って」
「ま、本人たちがいいならそれでいいと思うぜ」

先輩は、篠岡の後ろに隠れるようにしがみついていた。
まだ阿部に怯えているらしい。
知ってても年上に見えないんだから、俺たちの勘違いは仕方なかったな、と泉は思う。
篠岡は田島の持っていたクーラーボックスに目をつけた。

「あ、それ真珠ちゃんの差し入れだよね?
ひとりで重かったでしょ。大変だったね。ありがとう!」
「わ、わたしは……」
「うん?」

謙遜しすぎて人の感謝とかそういうものを素直に受け取れなさそうだ、と泉は思った。
篠岡は慣れているらしく、微笑んだ表情のまま待機している。
今日は、なんかいつもの三倍くらい笑顔だな。

「……どういたしまして」

先輩は、さっき田島が教えていたことを忠実に守って、蚊の鳴くような声で呟いた。
なんだか本当に小さな子供みたいな人だ。
篠岡が思い余ってぎゅっと抱き締める。
女子同士のスキンシップにしても、先輩は免疫がなさそうだ。
それから、田島がにっと笑って頭を撫でると、耳まで赤くした。
というか、未だに当然のように隣にいる田島の立場がわからない。

「さてと、じゃあこれ中に持っていくね。真珠ちゃんも行こ?」
「え……、でっ、でも」
「そろそろ練習再開しなきゃ! ベンチで見学していってね」
「わ、わたしは、だめ、だよ」

人の意見に流されそうな人の明確な拒否は俺たちを驚かせた。
なにが駄目なのか。予定があるのか、部外者だからか。
ここまで篠岡と仲が良いし、せっかく差し入れを持ってきてくれたんだから、
ベンチに座っていることくらいかまわないだろうに。

「これから予定があるの?」
「ない、けど」
「遠慮してるの?」
「……だって、わたしなんか、が」

なんか、と来た。
どこまでも卑屈な言動に、阿部がストレスを募らせているのがわかる。
ただでさえ聞いていて疲れるというか、見ていて肩の凝る会話だ。
篠岡はそれに苛立つどころか、意地でも見学させる気らしく、くるりを俺たちを振り向いた。

「ねえ花井君、いいよね? あ、監督には私から言ってあるから」
「監督に…? 監督に言ってあんなら、俺らは全然かまわないけど」
「ほら、いいって!」

篠岡は先輩に笑顔を向ける。
先輩は思わず頷きそうになって留まり、戸惑い顔だ。
篠岡ってこんなに強引なやつだっけ?

「ね、私 真珠ちゃんに一回来てほしかったんだ。
いつもみんなにわからないところで頑張ってくれてるし、
いつもみんなにわからないように練習見にきてるでしょ?」

さらりと、篠岡はなんだか重要なことを暴露した。
普段から応援してくれているんだろうということは予想できていたが、
先輩にとっては大事で、目を白黒させている。

「うっ…が、頑張ってるのは千代ちゃんのほう、が」
「私はいっつも近くで練習見てるよ!」

別に練習は見世物じゃないのだが、見学することが『ご褒美』みたいな会話をされるのはむずがゆかった。
けれど、ぐっと答えに詰まった先輩を見て、そんな説得でいいのか、と思った。
この人はいったいどれだけ野球が好きなんだろう。

先輩は、篠岡を見て、俺たちを見て、グラウンドを見て、また篠岡に視線を戻した。
甘い誘惑にぐらぐらと揺れているようだ。
いいじゃん見学していけよ、と軽く誘ったのは田島である。
よくわからないが、一見正反対に見えるこの二人は波長が合うのだろうか。
ね? と篠岡に念を押されると、ついにコクリと頷いた。

「よーし、じゃあ練習に戻るぞ!」

ぱんっと手を叩いたのは花井だ。場をしめるのはさすがに主将の役目か。
そろそろ俺たちも戻らなきゃいけないだろう。
他の部員が訝しげにこっちを見ている。
近寄ってこなかったのは阿部の不機嫌オーラのせいだな。

なんだかどっと疲れて肩が凝った。
田島と三橋の天然ぶりに慣れている泉でも、
あの先輩に慣れるのにはもう少し掛かりそうだ。

篠岡は嬉しそうに先輩の手を引いて、ベンチへと向かった。
一歩一歩緊張した様子で進む先輩は、見ているこっちが疲れた。
グラウンドに入るときに、田島が普段どおり脱帽したので、
先輩はぎしっと背筋を正して、深々と頭を下げた。
昼休みにはここで草刈りをしているはずなのに、
まるで神聖な場所みたいに呼吸をして、きょろきょろと視線を彷徨わせている。
それから、近寄ってきそうだった部員にびくりと身を震わせていた。
そんな水谷は俺たちが止めておいたが、好奇の視線はあちらこちらから注がれた。

けれど、いざ練習が始まると、ベンチにひとり取り残されたからだろうか、
俯きがちだった顔は上がり、おろおろしていた瞳は練習に食い入るように見開かれた。
まるで光景を焼き付けようとしているかのようだった。
田島の依頼と篠岡の実行により先輩は前髪を上げていたから生き生きとした表情がよくわかる。
最初に話しかけられたときとは、まるで別人みたいだ、と泉は思った。
視線はきらきらと澄んで、白球に、部員に注がれてる。
心から応援されているのだと、純粋な好意がびしびしと伝わってくる。
もちろん、悪い気はしない。

篠岡の雑用を手伝おうとしているところも端々に見えた。
案の定、手際は悪いみたいだけど、ひとつでも仕事が減れば篠岡にとって悪くないだろう。

見られていることに気づくと狼狽えるから、気にしないふりを意識していた。
けれど、ちらちらと先輩のほうを見てしまうのは誰かに限られたことではなかった。
女子にいいとこを見せたいと思うのは男のサガである。
いつもより打球が伸びていたりして、監督がにやにやと嬉しそうにしているのが見えた。
監督も先輩を気に入ったらしく、たびたび話しかけていた。そのたびに先輩は背筋を正す。
休憩時間になると、待ってましたといわんばかりに、アイスを持って田島や水谷が駆け寄っていた。


 main 
- ナノ -