昔から祖母の喫茶店の雰囲気が好きだった。居心地が良くて、よく居座り手伝っていた。
調理学校を卒業してから地元に戻って、祖母の喫茶店を手伝い、料理を少しずつメニューに加えてもらい、だんだんと店を任されるようになった。
昼のピーク時しかアルバイトを雇わない、細々とした店だ。
ある夕方、チリンチリンと扉のベルが鳴って、お客さんが入ってきたことがわかる。
調理場から入り口を見ると、いつもの人だった。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
声をかけた私を一瞥し、彼は奥のソファ席へと足を向かわせていった。
20代の秀麗な青年。
黒いスーツが恐ろしいくらいよく似合うが、サラリーマンといったふうではない。ホストにしては威厳があり、若くしてさぞかし有能なのだろうと思わせる。
以前店が混んでいた日、待機表に書かれた名前は「ヒバリ」だった。きっと苗字なのだろう。ちなみにその日は席が空くのを待たず2分ほどで帰ってしまわれた。
おしぼりを渡し、お冷のグラスとメニューをテーブルに置くと、いつもの注文を告げられる。
「ハンバーグランチと、食後にコーヒー」
「かしこまりました」
料理を待っているあいだに彼は新聞を読んでいることが多いが、店に置いてある物には手を付けない。持参した新聞、雑誌、書類などに目を通している。
祖母直伝のハンバーグは、昔から作っているだけあって調理学校時代の同期にも大好評で、一番最初にお店に出すことを許されたメニューだ。
奇を衒った特徴があるわけではない素朴な味だからこそ、彼のような人に認めてもらえるのはとても嬉しい。
みじん切りにして炒めた玉ねぎ、パン粉、牛乳、挽き肉、卵、塩胡椒、ナツメグをよく捏ねて、フライパンで焼く。
ふっくら焼けたら皿に載せてデミグラスソースをかける。
目玉焼き、ミートソーススパゲティ、人参のグラッセ、いんげん豆を添えて、別の皿にライスを盛れば完成だ。
「お待ち遠さまです」
「…………」
無言が返され、料理を並べる。お客さんというのはそういうものだろう。
一見すれば不機嫌そうに見えるが、いつも無言で平らげ、また足を運んでくれる。
それが何よりだと思うし、常連さんがいるというのは誇らしい。
そんなふうに、穏やかな職場だ。
彼はたいてい同じ料理を注文するが、気まぐれに変わることもある。
とはいえ、『5月5日こどもの日スペシャルメニュー』のポスターを指差して「これにして」と言われたときにはぎょっとした。
一日限りのメニューなんて設定しても、ちょうどよく家族連れが多く訪れるとは限らない。
季節ごとのイベントや記念日が好きな私の自己満足にすぎないつもりだったから、頼んでもらえるとは思っていなかった。
年間行事が多いほうがカレンダーが華やぐ。私は、たとえば友達の誕生日会を主催するのも好きだ。
「こどもの日のメニューですけど、いいんですか?」
「いいから、これ」
端午の節句なのだから柏餅やちまき、鯉のぼりに菖蒲など、関連物はいろいろあるけれど、よりによって「こどもの日」という響きから連想して、お子様ランチにしてしまった。
困惑し、恐縮しながらも、メニューを掲げ、注文を受けたからには、店主としては作るしかない。
こどもの頃を懐かしむつもりなのだろうか。
いつものハンバーグランチと内容はあまり変わらないが、盛り付けが違う。
いつもは添え物のスパゲティを多めに載せ、エビフライも二つ。
ライスの代わりにピラフを、小さく山型にして盛り、百均で見つけた旗を立てた。旗の模様、どこかでみたことがあると思って調べたら、ここから近くの中学校の校章だった。
そしてデザートに、近くの商店街の和菓子店で仕入れた柏餅がつく。
調理は予行通り滞りなく、盛り付けも会心の出来だったけれど、彼の前に可愛らしいプレートランチを運ぶときには手が震えた。
「お待ち遠さまです」という声まで震えた。
子供用のスプーンとフォークも用意していたのだけど、さすがに出せない。
いつもどおりの彼の無言が怖くて、一礼してから逃げるようにテーブルを去る。
レジのベルが鳴らされて、彼が会計をするところだった。
妙な気まずさがあるけれど、幸いにも彼は不機嫌ではないようだ。
むしろ上機嫌……に見えるのは、さすがに思い込みだろうか。
伝票通りに打ち込んで、金額が表示され、彼が長財布を取り出す。
ふと、彼がカードを取り出した並びの中で、"5月5日"という文字が目に入った。
人のお財布の中なんて勝手に見るものじゃないけれど、それが偶然にも今日の日付だから意識に留まった。
カードは身分証や会員証の類だろうか。
たとえば入会日、有効期限、……――生年月日。
もしかして、このひとは、きょう、誕生日なのかしら?
だから特別メニューなんて注文する気になったのかしら?
気づいたことによって焦った。
急に知っても、何も用意していない。
財布の中を盗み見て「誕生日なんですか」なんて声をかける勇気はない。
でも、知ってしまったからには祝わないのも気まずい。少なくとも私は祝いたい性質なのだ。
「あ、そうだ! ちょっと待っててください」
ティータイムセット用のシフォンケーキが、今日はまだホールのまま残っている。それを持ち帰り用の紙の箱に入れて、手提げにする。
ちょうど他にお客さんもいない。いつも贔屓にしてもらっているから、これくらいいいだろう。
彼にとっては高くない品だろうけど、ケーキと名が付くし、私の気分は満たされる。
「こんなものですが、よかったら召し上がってください。シフォンケーキなので、お好みでジャムや生クリーム添えてもいいです」
甘いモノを食べてるイメージないけど、いらなかったら捨てても、知り合いにあげてもいい。手作りとは言っても店に出してる品だ。
「……いくら」
「お代はいりません。普段ご贔屓にしていただいているので」
「へえ……。もらっておくよ」
彼はケーキの箱を受け取るとき、ふっと笑った気がした。
呆然としてる間に、チリンチリンと店の扉が閉まる音がする。
彼を見送り、冷静になって、あらためて思い返してみると、衝動的とはいえ非常に大胆な行動だったのではないかと思えてくる。
男性にお菓子を渡すのが許されるのなんて、たとえばチョコレートの日くらいじゃないだろうか。
まるで告白めいている。
とはいえ、今更深読みしても遅いし、何かが起きるわけではない。
その後まさか、どこで私の誕生日を知ったんだろうって驚く日が来るなんて、想像できるわけもなく。
( 題名提供: 臥野さん )