草刈り姫3.



しばらくして、草刈りは一段落した。
汗を拭ったとき、遥かな背後からこちらに向かって大きな声がした。
フェンスのドアが開いた音を聞き逃したような気がする。

「しのーかー!」

まさか誰か来るなんて思わなかったから、わたしは飛び上がるほど驚いた。
間延びしているのによく響く、男の子の声だった。
きっと聞いたことがある。野球部員だ。
千代ちゃんを探しに来たんだわ。
すぐに簡単な状況は理解したけれど、そこにいるのが自分だったから、全身が緊張した。

男の子が、歩み寄ってくるのがわかる。
振り向くことができない。だって声で誰だか予想してしまった。
そうじゃなくても、人と話せないのに。まさか憧れの人だなんて。
野球部員のみんなは、みんなかっこいいと思うけど!

今わたしは汗だくで、肩にはタオルで、頭には麦藁帽子で、手には草刈り鎌で、
そうだ。前髪だって上がっている ってことは、視界を遮るものがないってことだ。
顔を隠してくれるものがないってことだ。わたしを守ってくれる壁がないってことだ。
逃げ出したくて動けなくて身を縮ませた。

「あれ、しのーかじゃ ない?」

声はもう数歩後ろで発せられていた。
わたしが千代ちゃんじゃないことを責められているようで、ひいっと情けない声を上げた。
ごめんなさいごめんなさいという呪文に支配された。
あのとき勇気を出してよかったなんていう感慨は、一瞬でひっくり返った。

「だれ?」

その男の子、つまり田島君は、わたしの正面に回りこんで、顔を覗き込んだ。
こんなに人に近づいたことがないってくらい、目前に顔があって、クリアな視界にはっきりと映し出された。
頬に、耳に、顔中に、むしろ全身に血が上って駆け巡った。
野球部に憧れて応援しているわたしにとっては『あの田島君』という時点で容量オーバーだ。
彼はヒーロー。真剣な眼差しで打席に立つ。

わたしは裏返った悲鳴を上げ、腰を抜かしてその場に尻餅をついた。
自分が声を上げたことが信じられなくて、言葉を失った。
口を閉じることもできないくらい動揺していた。
あまりにも近くでまっすぐに見られたために、視線を逃がそうとしても逃げ道が見つからず、目を回しそうになった。

「あああ……わ、わたしは」
「草刈りしてんの?」
「はっ はい……」
「しのーかの友達?」
「や、そんなっ おそれおおい!」

全力で首を振ると、田島君は怪訝そうな顔をした。

「じゃー なんで手伝ってんの?」
「て 手伝いたくて……」

どうしようもなくて泣きそうになった。
でも無視するわけにいかないから必死で言葉を紡ぐ。

「あの……ち、千代ちゃんは、今日は、ここにはいなくて、……ごめっ、ごめんなさい」
「なんで謝んのさー。なあ、じゃあさ、しのーかがどこにいるか知らねー?」
「わ、っかりません……」

いちいち動悸がして声が裏返る。穴があったら入りたい。
でも田島君は、わたしの満足に返事もできていなくておどおどしているのを気にしてないみたいで、まるで普通に話しかけてきてくれる。
話しやすさを感じたことに、戸惑った。

田島君は「そっかー、困ったなー」と全然困ってなさそうに言ってから、
呟くように「この前はここにいるって言ってたのになー、教室かなあ」とそれも声に出してから、
「まあいいや」とあっさり諦めると(え、いいの?)、またわたしの顔を覗き込んで笑った。
……わ、笑った!

「なんか、三橋と話してるみてェ」
「み、みはしくん?」
「あれ、しらねー?」
「知ってます、投手の!」
「そーそ、その三橋みたいな感じがする」

三橋君、三橋君、……と、余裕のない中で必死に回想する。
直接話したことなんかもちろんないけど、人と視線を合わせるのが苦手そうなのは、たしかにわたしと同じだ。
……わたしと同じにしたら失礼だってわかってるけど!
だって、あの広いマウンドに一人で立って、ひたむきにボールを投げて、いくつも三振を取るの。すごいの。かっこいいの!

「おまえ、毎日グラウンドの草刈りしてんの?」

ぼんやりしていると、話題が転じていた。
えええ、と言葉を彷徨わせてから、質問に答えなくちゃ! と思って、何度も首を縦に振った。
説明しようと思って、千代ちゃんに言ったようなことをもごもごと口にするけれど、うまくまとまらない。
けれど、田島君は大まかに理解してくれたようだった。


「ありがとな!」


頭に手を置かれ、太陽よりも眩しくて青空よりも爽やかな笑顔を直に向けられた。
「しのーか探さなきゃ」と、田島君は校舎へ去っていったけど、
わたしは地面に尻餅をついたまま、もう立ち上がれない、と思った。


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