忘れられた、


 ここ数日は心に穴が開いたように気分が沈み込んでいて、それを埋めてくれそうな何かを求めていた。
 美術館に興味はなかったのに、ゲルテナ展のポスターを見たとき、その穴にぴったり嵌り込んでくれそうな期待を抱いた。

 初めて訪れる美術館はそれほど閉鎖的でなく、若い子も家族連れもいた。
 展示物は興味深いものが多く、私でも思いのほか楽しめた。
 タイトルと作品のアンバランスさが逆に調和して、心に訴えるような。

 けれど今では、泣きわめきながらその選択を後悔している。


「いやぁっ! こないでよ……!」

 化粧していたはずの顔は涙でぐちゃぐちゃに濡れ、声を上げ続けた喉は嗄れている。
 走り回った足は棒で、肺は焼けるようで、何よりも精神的に極限だった。
 お化け屋敷ならとっくに係員さんが出口まで付き添って誘導してくれているはずだが、誰も助けにきてくれない。

 どうしてこうなった?
 ゲルテナ展の作品を見ていて、気付けば周囲に人がいなかった。
 閉館か時間の区切りが近づいたのかと思って受付を確認しに行ったが、どうにも様子が可笑しかった。
 受付にも人がおらず、出口も開かない。
 窓に手の跡。怪奇音。壁に現れる赤い文字。
 まるで美術館が突然お化け屋敷になったみたいで、なんの冗談かと思った。

「なんかイベントが始まったのかな……。勘弁してよ、こういうのほんとに無理なんだから……」

 変化が起きるたびに悲鳴を上げ、ひとりごとを声に出さなければならないほど不安だったが、まだ引き攣った笑みを浮かべられていた。
 出口は固く閉ざされていて、叩いても応答がない。
 どこかにスタッフがいるはずだと思って、壁文字の導き通り地下へ降りたのがすべての間違いだった。

 真におぞましく恐ろしい場所に迷い込んでしまったと気付いた頃には遅い。
 薄暗い空間で、美術品が動く。壁が手を伸ばして私を掴もうとする。知らぬ間に絵が変化している。赤く脅迫の文字が宿る。絵から女性が這い出して追ってくる。不気味な人形が転がっている。

「怖い怖い怖い怖い怖い!!」

 逃げ惑って、”もう嫌だ”ってうずくまって目を閉じて耳を塞いでも、独りのまま。
 ただ目を開けるのが怖くなるだけで、時間が過ぎる。
 恐ろしくてしかたないから、誰かいるはずという希望を求めて、先へ進んだ。

 でも、もう無理だ。
 奪われたオレンジ色の薔薇が絵の女性に千切られるたび、全身の様々な箇所に激痛が走る。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ逃げたい帰りたい帰りたい。
 このわけのわからない世界で、こんなに痛くて恐ろしい絶望のまま、私は死ぬのか。
 今までの人生がすべて無意味に感じるほど辛くて、憎くて、無念で、何も考えられない。

「ちょっとアンタ、大丈夫!?」

 痛みの波が止んだ。

「ほらしっかりしなさい! バラは取り返したから」
「係員……さん…………?」

 声の低さも外見も成人程度の男の人でちょっとカッコイイくらいなのに、言葉遣いはオネェだ。
 この人が助けてくれたらしい。

「係員じゃないけど、アンタの味方よ!」
「人間? 私とおんなじ、美術館のお客さん?」
「――そうよ」

 感嘆に似た溜め息が漏れた。
 初対面の男性だというのに、もう普通の人間に会えただけで嬉しい。
 彼の気安い口調が安心感を与えるのかもしれない。

「出口まで一緒に行きましょう?」
「うん!」
「アタシはギャリー。アンタは?」
「私はティア。よろしくね、ギャリー!」

 ギャリーのおかげで恐怖は少し和らぎ、一縷の希望が差した。
 自分の薔薇は青色だと、彼は歩きながら教えてくれた。



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