舐め傷


「つまり貴女の話では」

 拳法着を纏った物腰柔らかな黒髪の男が、穏やかな口調で微笑を浮かべる。

「昔なじみの私に単身で死の戦場へ乗り込むよう願いにきた と」

 刺のある口ぶりに言い淀み、気まずく目を逸らしたが、ここが正念場と縋るようにふたたび目を合わせる。

「そう……だけど……。アナタしかいないの」
「でしょうね」

 懇願はただ受け流されるだけだった。拳法着の男――風(フォン)は淡々と肯定する。

「貴女の父上が敵に回したのは中国最大を謳われるマフィア。同盟にも愛想を尽かされたというなら、私が力を貸すくらいしか打つ手はないでしょう」
「わかっているなら!」

 風は最強の拳法使いと名高く、だからこそ暴力世界には中立であり続けている。手頃だった幼馴染の男は、いまや巨大組織にも恐れられる達人になっていた。

「気に入りません。
 貴女は昔からそうだ。本来無関係な命の駆け引きを他人に要求しておきながら、自分は何もしない。顔の皮の厚さは昔から変わらないようですね。他人は貴女の都合のいい玩具ではないんですよ」

 歳はそう変わらないのに随分上から諭されているようだった。
 ――たしかに昔の私は父様の威光を笠に着て、我が儘全開で自分勝手で横暴だった。子供同士の喧嘩で叩いたりしたこともある。今思えばとんでもないことだ。風は窘めるだけで罰したことはなかった。当時から拳法をやっていたのは知っていたが、子供たちの間でその力を振るったことはなかった。

「さすがにあの頃とは違うわよ!」
「そうは思えませんね。貴女も良い歳なんですから、そろそろ下手に出るということを覚えてはどうですか。そんなふうだから敵を作るんですよ」

 それは暗にこの状況は自業自得だと言っているらしい。否定はできない。
 風は真に私を案じて助言してくれているのかもしれない。けれど……このままでは明日にでも家は戦場と化すだろう。父も、ずっと仕えてくれていたファミリーのみんなも死んでしまう。

「どうすればいいのよ……」
「自分で考えてください」
「……なんでも、するから」
「若い女性がそんなことを軽々しくいうものではないですよ。
 そうですね……たとえば私の足でも舐められるようになって出直してください」

 言外に私には無理だと言うのが伝わってきた。悔しくて歯噛みする。自らの肥大したプライドの腐臭を嗅いだ。こんな言い方しかできない、人の性質は一朝一夕では変わることができない。

「さて、この話は終わりにしましょう。私は稽古があるのでこれで。あぁそうだ、家が危険なら今日は泊まっていきますか? 貴女の身の安全くらいなら頼まれなくとも守ります」
「……舐めるわ」

 意識していたよりも低い声が出て、可愛げのなさに笑えてくる。

「はい?」

風は珍しく間抜けた声を上げた。

「アンタの足を舐めてやるって言ったのよ」
「はぁ……。そういう意味ではなかったんですが、まぁいいでしょう。お入りなさい」

 一度自分の口から提示した条件には責任を持つ。風というのはそういう男だ。彼はちゃんと正解を用意していたのかもしれないが、他の選択肢を考えている暇がなかった。

 *
 *
 *

 裸足を水でざっと流し洗って拭いたのはせめてもの情けなのか。椅子に座った風は、組んで上になった脚のつま先を床から少し浮かせてみせた。

「どうぞ」

 立ち竦んだが今更引き下がれず、迷った挙げ句 彼の足許に跪いた。ちらりと見上げれば、風は流麗な笑みを保ったまま私を見下ろしている。覚悟を決めて、彼のつま先にゆっくり顔を近づけた。洗ったばかりだからか、そっと舌を出して触れれば、水の味がした。
 ――よかった、できた。
 そこでパッと離れて目標達成とばかりに風を見た。私は一瞬得意げな顔をしたと思うのだけど、彼の変わらぬ表情を見てそれは間違いだと知る。
 ――風が私に要求したのは、誠意であり、対価であり、プライドを折る覚悟だった。
 今のでそれを示せたとはたしかに思えない。
 俯いて、ふたたび彼の足と向き合う。
 抵抗はあるが、大したことじゃないと自分に言い聞かせる。
 たったこれだけのことなのにできない と馬鹿にされるのは我慢ならない。私にはプライドがあるはずだ。そのプライドは覚悟に変えられる。
 両手で彼の片足を少し掬い上げる。さらに自分の顔を近づけ、舌を這わせた。さきほどのように舌の先で撫でるのではなく、舌の腹を使って足背を舐め回す。
 水気の膜が剥がれたのか、皮膚独特の味を感じた。手の甲も足背も滑らかな触り心地はあまり変わらないので、味もそうかもしれない。
乾いていると舐めにくいので唾液を垂らして塗るようにすると、一瞬抵抗されたようだった。汚かった? と疑問に思うけど、今更だ。
 普段、この足から鮮烈な蹴りが繰り出されている。
 風はいたずらに足を揺らして、私の頬を小突く。
 だんだん自棄になって徹底的に遂行してやろうと思えてきたが、唾液を使って舐めていたせいか、口の中がずいぶん乾いた。

「水が飲みたい」
「そこの水筒に入っているので飲んでいいですよ」

 一度立てば再び膝をつくことに抵抗を覚えると思ったから、近距離だったので四つん這いのまま進んで、地面に膝をついたままで水筒に手を伸ばした。同じようにして戻ってきて、水を一口飲み、いつでも飲める状態のまま傍らに置いておくことにする。
 そして私を待っていたかのように角度を浮かしたままだった風の右足を手に取り、顔を近づけた。足の裏を舐めるために彼の右足を持ち上げて正面に顔を持ってくると、角度的に風と目が合った。
機嫌を窺うように上目遣いになっていたのだろうか、風はさきほどより柔らかく微笑し、手を伸ばして私の髪を撫でた。あぁこれで間違ってないのだと感じ、作業を続行する。
 丁寧に舐める。綺麗にしているのか汚しているのかわからない。気に入られようと、媚びていることになるんだろうか。まるで犬のように尻尾を振って。
 もごもごと指をしゃぶって爪まで舐め上げ、くるぶしへと移る

「美味しいですか?」

 澄ました声で問われ、屈辱にカッと頬が熱くなる。よろこんでいるように見えた、と言われたようで。
 抗議しようと口を開いて、気づき、言葉を飲み込む。ここで噛み付いたら元の木阿弥だ。
こくりと頷き、舐める作業に戻った。
 非日常の船に揺られ、風と目が合うたびに、不思議な気分になる。
 男のくせに、武道家のくせに、つくづく綺麗な脚をしている。軟弱なわけではなく、彼の経歴を知っているからこそ見事だと言いたくなる完成された脚だ。
 風の爪先が私の服の合わせ目を掻いた。胸に触れているけれど、気にするより作業が先だ。
 彼の踵の皮膚は特に厚く、舌を這わせれば紋理の凹凸がよくわかった。
 脹ら脛まで舐めたところで、風は私の頭をぽんぽんと軽く叩いて、制止の合図をした。

「もういいの?」
「ええ。脚を組み直します」

 倍の労力を宣告され、絶望が顔に出たのか、風は「冗談です」と手の平を返した。本当に冗談だったかどうかはわからない。

「そもそも足を舐めろというのも冗談だったんですよ?」
「……そんなことより、家を助けてくれるの? くれないの?」
「約束は守ります。けれど貴女に知っておいてほしいことがあります」
「何?」
「貴女の父上も私に助力を乞い、対価の一つとして貴女を挙げました」

 彼の言う意味がよくわからず、小首を傾げた。

「伴侶としてなら意味がわからなくもありません。しかしそれでは不足と思ったのか、彼は貴女の生殺与奪の権を私に売りつけようとしました。命惜しさに、娘を。そんな方々を救いたいと本当に思いますか?」

 父様が風に連絡を取っていたのは初めて知った。ショックを受けなかったといえば嘘だが、私よりも組織を取るというのは不思議なことじゃない。ただ私が自分の意志でここに来たのだ。

「なんでもする覚悟を持てと言ったのは風じゃない」
「そんなことは言っていません。貴女、本当に何でもできるんですか?」
「足を舐めてみせたわ」
「それ以上は?」
「わからない、けど……」

 そもそも何が"足を舐める"行為の上位にあたるのかわからない。風はそんなことをしないと心のどこかで信用していた。女の弱みに付け込まれる想像ができないほど子供ではないが、その想像を凌駕していたのかもしれない。浅はかだったと今になって思う。

「うちに来るからには、もっと自分を大切にしてもらわなければ困ります」
「えっ、うん。……うん?」

 風は相変わらず流麗な笑みを浮かべていた。

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