2.

何も云わずに引っ張り出された弥子にとって、これはいささか不本意な展開と言わざるをえなかった。

前を行く魔人の背を喘ぎながら必死に追う。もともと体力にとりわけ秀でているとは言いがたい弥子にとって突然の山歩きは少々刺激的過ぎた。第一突然引っ張り出されたのだから事務所に来たときの服装のままだ。ヒールでこそないものの運動に決して向いているとはいえない厚底の革靴に黒の袖なしのワンピースに膝丈の編み上げのジーンズ。かろうじてジーンズをはいていてよかったと溜め息をついて弥子はまた顔を上げた。

ぜいぜいと声に不吉な響きが混じり始めているというのに張本人の魔人は一言も説明しようとしない。そもそも何故紅葉狩りなのだろうと考え込む暇すら与えてくれない。違いすぎるコンパスと体力の差を埋める気もない男が相手では仕方ないのだとも言えるが。

景色は確かに素晴らしく、色づいた枝々や舞い降りる葉の調和がこうした場所にしかない一種独特の美を醸し出してはいたが、今の弥子にそれをじっくり眺める余裕はなかった。下手をすると置いていかれそうになる大きな青い背中を必死に追ってゆく。

小一時間ほども歩いただろうか、脚の感覚がなくなりはじめ呼吸に笛の音が混じり始め、そろそろ立ち止まってくれないだろうかと切実に考えはじめたころ、いきなりネウロが弥子を抱き上げた。

「え、ちょっと、何」

ぜいぜいひゅうひゅうという音の隙間に何とか言葉を滑り込ませると、ネウロはにやりと笑って煩い貴様は黙っていろと言った。

諦めてされるがままにネウロの首に腕を回す。

せめて説明くらいはしてもらいたいという思いも虚しく、ネウロはいきなり物凄い勢いで山腹を駆け登りはじめた。天地が引っくり返る。ひゅうっという音とともに景色が凄まじい速度で後ろに流れさってゆく。腰をしめつけるネウロの長い腕を感じ、顔の横に映る白い端正な顔を見つめながら、弥子は必死に回した腕に力を込めた。

それでも先ほどまでの過酷な山登りより遥かにましだ。この胸には身を委ねても大丈夫、何があってもこの腕が自分を投げ出すことはないと知っているから。全身に風を感じながらすぐ傍の金の髪に顔を埋め、人より冷たい魔人の体温にくるまれて、弥子は眼を閉じた。


「…ネウロ」


ほんの五分ほどでネウロは山を中腹から頂上まで突っ切ったらしい。途中にあった崖も森も魔人の手に掛かっては障害にもならなかった。山腹を片手でよじ登り、もう片方の手で少女を抱え込む魔人の姿はきっととても奇妙だったろうと思う。やっと地面に下ろされて、溜め息を吐いた。

「ここ、どこよ」
「貴様の気にすることではない。来いヤコ」

おもむろにネウロが歩き出した。この上まだ歩くのかとげんなりした途端、魔人はいきなり歩みを止めてこちらに振り向いた。

「ここだ」

差しまねく革手袋を掴み、引かれるままに2、3歩歩いて、弥子は思わず立ち止まった。

急に開けた台地に、空を埋め尽くすほどたくさんの紅い朱い枝が腕を伸ばし絡まりあっていた。弥子が腕を回せないだろう太い幹に、素朴な力強い脈動を感じる。青い透き通る空気の中に佇む生命の証のような大樹は、山を彩るたくさんの楓の中でも特別に美しく鮮やかだった。伊呂波紅葉だろうか、楓の中でも最も代表的で美しいもののひとつだ。足元に降り積もる赤い葉も、恐らくはこの楓から降り注いだものだろう。

木々に囲まれた台地の真ん中にぽっかりと一本だけ枝を広げる大樹。それは感動を超えて、崇敬の念すら抱かせる光景だった。

「美しいものだな」

ネウロが楓へと歩み寄り、幹に掌を添えてこちらを見た。紅く染められた空の中にネウロの纏う青いスーツはひどくくっきりと照り映えた。際立って整った白い顔立ち、金と黒の髪の毛。舞い散る紅い葉はまるで綺麗な装飾品のように魔人を彩る。弥子は息もできずにそれを見つめ続けた。絵のように止まった時間の中で、魔人だけが息をしているかのようだった。

「ネウ、ロ」
「来い、ヤコ」

もう一度、手が差し伸べられる。

「え、でも、」
「来い」

これは、人でないものの―あやかしの、魔性のものの美しさだ。人が触れてはならないものだ。

近づいたなら捕まってしまう。取り込まれてしまう。逃れられなく、なる。

けれど、差しまねく魔人の瞳はあまりに透明に澄んで、らしくもない真剣な光をたたえていた。射抜くようなまなざしの中に混ざる哀しみにさえ見える何かに弥子は息を呑む。

濡れた唇の赤い色の上を同じくらい赤い舌があでやかになぞるのを声も上げられずに見つめた。濃翠色の瞳はいつになく黒みがかった深い暗い色に変化していて、その奥にうねる渦に引き込まれそうな気がした。


そして、悟った。


もう、遅いのだ。あまりにも遅すぎたのだ。自分はとっくに、こんなにもこの男に囚われているのだから。

知らぬうちに前に進み出る脚が、自分のものでないかのように体を魔人のほうへ引きずってゆく。ネウロのてのひらが再び弥子の手を掴み取った。引き寄せられた。ネウロの腕がまた腰に回る。抱きしめられるのを感じ、弥子は反射的に目をつぶった。つい先ほど抱き上げられたときとされていることに差はないのに、全身をはしる感覚が大声で弥子に叫んでいた。

違う、と。

それは例えて言うなら夜空に浮かぶ月と水面に映る月だった。表面上は同じに見えても、その奥に含まれるものは圧倒的に違うのだ。



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