名前の付く前の感情




1.

これはまだ、弥子がネウロの視線の意味に気付く前のお話。


中学三年になって半年ほど過ぎたころだっただろうか、弥子はひょんなところから県の科学展に作品を出展することになった。幼い頃から博物館に通い詰めていた影響から部活動には科学部を選んでいたのだが、そこで顧問の笹塚に自分の植物標本のコレクションを見せたのがきっかけだった。

時折ネウロに連れて言ってもらっては集めていた、シダやヒカゲノカズラの標本。弥子自身は意識していなかったのだが、それは現役の研究員に教えられながらの収集だったために、どうやら中学生の道楽レベルをはるかに超えていたらしい。ネウロが話すそれぞれの植物についての話をメモしていたノートも、自分なりに文献などを調べてまとめなおしたうえで標本と共に出展すると、どういう訳か最優秀賞などを取ってしまった。

ただただ茫然としていると、笹塚から、優良賞以上を取ったものは十月に開かれる展示会で作品を展示しなくてはならないのだと聞かされる。そこで、高校の部で最優秀賞を取ったのだという匪口という先輩と共に、展示会のためのスライド作りやレポートの見直しで目の回るほど忙しくなった。

弥子の通う中学は、中高一貫の私立校である。いわゆる「進学校」だが、その割に学費はかなり安く、よって競争率はかなり高い。あまり成績の良くない弥子がこんなところに入れたのは、入試説明会のために訪れた時に何げなく立ち寄った学食のレベルの高さに惚れ込んだからに他ならないが、それはここでは置いておく。一方、匪口はここにトップ入学し、その後も軽々とトップ台の成績を保持し続けている天才であり、多方面で賞を取っている。いくつかのIT企業から卒業後の引き抜きの声もかかっているらしいが、彼本人はそれに応じるでもなく飄々とした態度を崩さずにいる。

一度その理由を尋ねてみた時、彼は笑って「俺、将来は警察に入るって決めてるからさ」と言った。警察?と驚いて聞き返すと、「昔世話になったんだ」と言う。どうやら、警察にいる笹塚の幼馴染の人物に幼い頃とても世話になったらしく、その恩返しをしようと考えているらしい。それでは笹塚とも幼い頃からの知り合いなわけだ、と思い、匪口が笹塚に教師に対する者とは思えない言動をすることに得心がいった。最も、彼は誰に対しても大体そのような態度なわけだが。

知り合って少し経った頃、彼が幼い頃に両親を亡くし、施設で育った身であることを知った。そして、「世話になった」という言葉の意味を改めて思い、時折何処か遠くを見てぼんやりと考えごとにふける彼のことを思った。
それは匪口自身の抱えるべき問題であり、弥子が口を出すべきことではないと知っている。だが、その上で、いつか彼が彼自身の意志で弥子にその苦しみの一端を見せてくれたらいいと思う。何もできないなりに、彼の苦しみを分かち合ってあげることができたらいいと、静かに思う。

賞が決まったのが七月半ばのことだったため、弥子と匪口は夏休みの間目の回るほど忙しい日々を過ごす羽目になった。匪口は慣れているらしくスライド作りやレポートのチェックなどを淡々とこなしていたが、そもそもパソコンに触ったことのほとんどない弥子は細かい操作に慣れるだけでも精一杯という有り様である。その上、集めたデータは一度デジタル化して保存をかけておいた方がいいという笹塚の指示により、パワーポイントだけでなくワードやエクセルとも格闘する羽目になった。

部のデジタルカメラを使って標本の写真を撮っては、そのデータをワードに取り込んでレポート化するという作業の繰り返し。弥子がこの作業を夏休みのうちにあらかた終えることができたのは、ひとえに匪口のおかげである。自分のパソコンを持っている彼が、わざわざ登校して部のパソコンで弥子と一緒にまとめの作業をしてくれていなかったら、間違いなく展示会に間に合わなかっただろう。ちなみに、一度匪口に彼の研究の内容について尋ねてみたら、ちょうどチェックしていたのだというデータを見せられた。

「・・・あの、これ、何ですか・・・?」

どう見てもわけのわからない文字の羅列にしか見えないそれを指さして恐る恐る聞くと、匪口は楽しげに笑って答えた。

「今世間で流行してる、とあるコンピュータウイルスのデータ」
「コンピュータウイルス・・・って危ないじゃないですか!!それ部のパソコンですよ!?」

パソコンに詳しくない弥子でも、コンピュータウイルスがどのようなものであるかということくらいはわかる。焦って「だ、大丈夫なんですか・・・?」と聞くと、匪口はまた楽しげに笑った。

「大丈夫大丈夫。無害化してあるから。というか、無害化するプログラムを組むためにわざとウイルスを拾ってきて解析したんだからさ」
「・・・もしかして、匪口さんの研究って」
「世間で流行した強力なコンピュータウイルスと、それに対する有効とされてる対処法やワクチンソフトをいくつか解析して比べて、改良すべき点を自分なりに割り出して新型ワクチンを作ってみた」

その時点で、匪口の研究を理解しようという気はなくなった。というより、諦めた。そして、どうしてこんな人がこんな小さな高校の一生徒に収まっているのか全く分からなくなった。


兎にも角にも夏休みは一瞬にして過ぎ去り、九月が過ぎ、十月が来た。

そして弥子はレポートのチェックをするたびに繰り返し、最近ネウロの顔を見ていないな、と思った。毎日下校時間のギリギリまで学校に居て休日もほとんど潰していたため、博物館を訪問する機会が全く無かったからだ。ネウロのおかげで始めた研究なのにな、と少しおかしくなり、そして少し悲しくなる。

思えば弥子はネウロの携帯の番号もメールアドレスも知らない。ネウロも弥子の番号を知らない。つまり、弥子が博物館を訪ねなくなったら、それっきり自分たちは合うことも連絡を取ることもないのだ。

どうしてこれまで聞かなかったんだろう。考えてみる。そして、聞く必要がなかったからだ、と結論する。思えばこれまでは、何だかんだで月に一、二度は博物館に行く機会があった。特別展示会を見に行ったり、催し物に参加したりで、何も考えなくてもネウロに会っていたのだ。特別会いたいと考えて会ったことはなかった。どの道顔を合わせるのだから、連絡を取る必要もなかったのだ。

つまり、今まで弥子にとってネウロと会うということは、あくまで「博物館に出かける」という行為の付属物であり、スーパーに出かけて顔なじみの店員と会うのと同じような感覚だったのだ。

なんとなく、それは嫌だな、と思った。

なぜなら、弥子は知っている。ネウロが弥子を、多少なりとも他の客と区別していることを。弥子がネウロを他の博物館員と区別しているのと同じように。ネウロにとって弥子は「客」ではなく「ヤコ」だ。弥子にとってネウロが「館員」ではなく「ネウロ」であるのと同じように。

それなのに、自分たちの間にあるのは、あくまで「博物館員」と「客」としての関係だけだ。こんなに長い付き合いなのに、まだネウロのことを何も知らない。実際に話して、実際に知ったネウロの姿しか。

それで十分だ、と人は言うのかもしれないが、要するにそれは、「彼」という存在を定義するような情報をまだなにも知らない、ということだ。そんなのは嫌だ、と思う。博物館を訪ねなくなったらそれで終わり、それだけの関係のままではいたくない。かといって、彼との独特の関係に名前を付けるのも難しい気はするが。敢えて言うなら「友人」が一番近いのだろうが、十五も年上の男を「友人」と称するのもなんだか奇妙だ。

まあ難しいことはいいや、と弥子は割り切る。
とにかく、この展示会が終わったらあの博物館に行こう。そしてネウロに会って、アドレスを交換しよう。口実は何にしようか。何と言えばあの偏屈が素直にアドレスを教えるだろうか。それを想像するだけでなんだか疲れが取れていくようで、弥子は「よし」と気合を入れなおし、再びパソコンと格闘を始めた。



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