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 お恥ずかしい話、小学生のころのわたしのあだ名は『ぶたみょうじ』だった。当時の写真は、とてもじゃないけど見返したくない。良くいえば健康的な体型、悪くいえばデブ。そんなわたしの容姿は意地の悪い男子からすれば格好の標的であり、登校から下校まで延々と、思いつくかぎり体型についての悪口を浴びせられた。笑って流すことが出来れば良かったけれどわたしはそれに耐えきれず、ついに卒業を目前に控えた六年生の冬、学校に行くのをきっぱりとやめた。両親は「なまえが行きたくないならずっと行かなくっていいよ」と優しく言ってくれたけど、きっと本心ではちゃんと元気に学校に通って、普通の子と同じように普通に卒業してほしいと思っていただろう。でもそれは出来ないんです、わたしは普通の子と同じ見た目じゃないから。
 痩せて、普通の子と同じようになりたい。もうぶたなんて呼ばれたくない。痩せたい、痩せたい。それでもお腹は減ってぐうぐうと鳴るから、情けなくてしんどくて、頭がおかしくなりそうだった。
 最初はご飯を残すことから始まった。もう食べたくないと言って、大半を残す。でも、体調が悪いの? そんなにいきなり食欲が落ちるなんてどこか悪いのかもしれない、病院に行ってみる? と心配するお母さんの様子を見ると、それを続ける気にはなれなかった。
 もちろん運動も、たくさんした。家族がみんな寝静まった夜中に家を出て、みんなが起きだしてくるぎりぎりの時間まで近所を走った。でも体重は思うように落ちず、二次性徴とかいうものが始まってしまったわたしの身体は、以前にも増して肉が付きやすくなった気さえした。
 それから暫くして、わたしは、ご飯を食べるのをやめた。いや、厳密には食べているのだ。けれどわたしの身体は、食べ物の運搬をするだけの容れ物になった。いただきますと食べはじめて、ごちそうさまと食べ終わったらすぐにトイレに行って、全てを吐き戻す。口のなかへ指を突っ込んで、喉の奥をぐいぐいと押すと、さっきまで咀嚼していた食べ物がほとんど形を保ったまま、便器に落ちていく。

「……ッ、おえ、えっ……う、ぐっ、……」

 そんな生活を続けて、もうどのぐらい経つか、厳密には覚えていない。
 わたしは、中学三年生になっていた。


「なまえさあ、マジでスタイル良いよね!」
「わかるー! 毎日何食べてんの? ってかんじ。羨ましー!」
「私なんて最近めちゃデブっちゃっててさ、無理すぎ」
「いやそれな? 夏近いし痩せなきゃやばい! 今ブタだもん私」
「そ、そんなことないよ……別に太ってなくないー?」
「なまえは痩せてるからそんなこと言えるんだってー!」

 食べてないから、痩せてるんだよ。あなたの体型がブタなら、昔のわたしはなんなの。わたしだって、ずっと今の体型だったわけじゃないんだよ。楽して、何もしないで、好きなもの食べて、それで苦しい思いなんて何一つしないで痩せていられるなんて、そんなのごく一部の限られた人間だけに与えられた特権だ。
 えー、そうかなあ、って、笑った顔が引きつっていること、バレてないだろうか。不自然な声色になっていないだろうか。机の下でスカートの裾をきつく握っていたこと、気付かれて、ないだろうか。

「ごめん、ちょっとトイレ」
「次移動なんだから早く戻ってきなよー」
「うん、行ってきまーす」

 廊下に出て、変な目で見られない程度の早足で女子トイレに向かう。昼休み後の日課だった。今日みたいにうっかりお喋りに花が咲いてしまう日は、もどかしくてイライラしさえする。
 もうこの廊下を曲がればトイレはすぐそこ。それなのにわたしは、突然角から出てきた何かに思い切り激突してしまった。不注意だったな、謝らないと。衝撃で思わず尻餅をついてしまったけれど、慌てて顔を上げるとそこには、あの悪名高いテニス部のひとり、知念くんが立っていた。

「……! ご、ごめんなさい」
「いや、わーも悪かった。わっさいびーん」
「全然いいんです! じゃあ、わたし、もう行くので」
「待て! やー、怪我してないばあ?」

 うちの中学のテニス部は部長の木手くんを筆頭に美形揃いだ。けれど、他校との試合でラフプレイをしているだの、顧問の晴美先生の指導が体罰上等のスパルタだの、米兵と殴り合いのケンカをしているところが目撃されただのと(どこまでが嘘か本当かわからないが)黒い噂が多く、顔につられたミーハーな子や派手なギャルっぽい子以外の女生徒は極力関わらないようにしているのが現状だった。
 急いで立ち上がりそそくさと立ち去ろうとするわたしを、知念くんは肩を掴み引き止めて来た。心配してくれるのは、優しいなって株が上がるんだけれど、あいにく悠長にやっている時間なんてないんだ。はやく、はやく、はやく全部出さなきゃ。
 今日のお弁当は、昨日の晩ご飯の残りの唐揚げが沢山入っていた。はやく吐かなきゃ。こうしている間にも、腕や脚が太くなっていく幻覚さえあった。急がないと、カロリーとして吸収されてしまう、また太ってしまう、また周囲からからかわれて、いじめられる生活に逆戻りだ。せっかく痩せて、わざわざ誰もわたしのことを知らないような私立中学校に入って、そのために一時間もかけて通学して、せっかくここまで、一生懸命やったのに。

「怪我なんてないです、大丈夫」
「……じゅんにか?」

 言ったはいいけれど、さっきの尻餅で強打した腰がずきんと痛む。痣になっている可能性はじゅうぶんにあった。疑いのまなざしを向けられ、思わず目をそらす。本当かと問う彼の目はいやに真っ直ぐで、直視できない。

「どこか打ってたら保健室行った方がいいさぁ」
「ほんとに大丈夫、ですから」

 それにしてもこの人、すごく、細いな。
 ほとんど骨と皮膚しかないように見える。頬もこけているし、逸らした視線の先にある半袖シャツから伸びた腕だって同学年の他の男子に比べ一回り細い。よくよく見ればテニス部らしい筋肉もついているけど、それにしたって痩躯だ。羨ましいなあ。

「――良いなあ、細くって」
「あい?」

 気付いた時には口に出していた。
 怪訝そうに眉根をよせる知念くん。
 変なやつだと思われてしまう、どうしよう。そう思った瞬間、わたしは知念くんの横をすり抜け、廊下を全力で駆けた。女子トイレに逃げこもうとしたが休み時間も終わる間際、入り口から中を覗くと手洗い場に数人の女子がたむろして髪を直したりしながらお喋りに興じている。この中に走り込んで悪目立ちしたくもない。進行方向を変え、人気のないトイレを必死になって探した。けれど女子トイレはどこに行っても同じような状態で、とても入れそうにない。
 この際、仕方がない。

「……っは、はあっ……うう……」

 走りすぎて肺が痛い。
 内鍵を締め、壁に凭れて胸を押さえつける。
 わたしが駆け込んだのは、この学校唯一の多目的トイレ。人通りの少ない廊下の端にぽつんとあり、使われているところをほとんど見たことがない。どうしても女子トイレに入れない時、わたしは時折利用させてもらっている。勿論目的は、あれだ。

「……ぐ、ぇ」

 喉の奥へ奥へと指を押し込む。
 既にこの行為に順応した身体は、十数分前に飲み下した昼ご飯を泥状に変化させて口へと押し戻し始める。
 お母さん、ごめんね。せっかく作ってくれたご飯、ちゃんと食べなくて。
 食べては吐く、食べては吐く。それを続けて何年か経ち、わたしはいつからか食べ物の味を感じ取る機能が退化してしまったらしい。何を口に入れて咀嚼しても、感じるのは胃液の残滓みたいな、酸っぱくて苦い味。それが白米でも、お肉でも、ケーキでも果物でも、すべて同じだった。食べると太る。太るといじめられる。思えばその恐怖が、わたしの舌を殺してしまったのかもしれなかった。

「えぇ、大丈夫ひーじーばー?」

 外から声が聞こえるのは、知念くんの声だ。何だか焦っている様。何? あの後、わたしのことを探して居たんだろうか。一度吐くのをやめ、唾液と胃液に濡れた口回りと手をティッシュで拭う。そしてなるべく平然を装い、返事を返した。

「ど、どうしたんですか」
「いや、……やー、さっきぶつかった女子さーねえ? 追いかけて来てぃみたら、ぬーか吐いてるみたいなじらー音したからよ……体調悪っさんとぅくるにぶつかっちまって、……心配やたん」

 き、聞かれていた。どうしよう。
 体調が悪いと言っても心配されるし、かと言って本当の理由を喋ったらきっと引かれてしまう。

「とにかく平気なので……もう教室戻った方が良いですよ」
「うりやそっちも同じだろ」
「わたし、は、」

 まだ全部出しきれてないから。
 そう言いかけて、口を手で覆った。そうだ、まだお腹の中に食べ物が、ある。その事実自体が気持ち悪く、吐き気を催してくる。

「――っ、う……!」
「えぇ、開けれ!」
「無理、です……」

 胃から込み上げてきた何か大きな塊が、首の管のなかに詰まった感覚があった。
 あ、だめだ。
 意識を失うその瞬間、ぐう、とお腹が鳴った。
 あはは、こんなに食べたくないのに、何でか身体は、食べろ食べろってうるさいんだ。


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「っ、は……?」

 ここは、どこ。
 身体を起こして周囲を見渡すと、どうやらここは保健室のベッドらしいということに気がついた。やわらかなマットレスを撫で、混乱する自身を静めるために深く息を吸い込んだ。うう、喉が気持ち悪い。それにしても、わたしは一体、どうして保健室にいるんだろう。ええと、廊下でテニス部の知念くんにぶつかって、逃げて、トイレに入って、それから。

「目ー、醒めたばぁ?」

 目隠しのカーテンが引かれ、顔を出したのは保健の先生ではなかった。思わず身体を引いてしまう。

「ち、知念くん……?」
「フラー!」

 いきなり知念くんの顔が近付いて、喉がぎゅうと絞まる。おえ、と嘔吐感が再来してきた。知念くんに胸ぐらを掴まれた、と理解できたのは数秒経ってからだった。ベッド脇に立つ知念くんがセーラー服の襟元を掴み、今にも持ち上げんばかりだ。怖すぎる、何で怒ってるんだろうこの人! フラッシュバックする、小学生時代の記憶。しゃがみこんだわたしを何人ものクラスメイトが囲い、上から見下してなじられた時の、あの感じと同じだ。

「ご、ごめんなさい……」
「……謝らんけー、わーが言いたいのは……。……ただ、何であんな無理してたんだって話さぁ」
「無理なんて、してない、です」
「何も食ってねえんだろ、最近」
「なんでそんなこと、」
「保健ぬ先生があびてたさぁ、やー、どう考えても痩せすぎだってよ。無理なダイエットやぁ、よくねーらん」
「……ダイエットじゃないです」
「あい?」
「食べたく、ないんです。何食べても、おいしくないんです」

 半分は嘘、半分は本当。
 俯いたわたしに、知念くんは手を離して黙り込んでしまった。
 保健室を包む静寂。表情を見るのが恐ろしくて、顔を上げる事も出来ない。

 ――ぐう。

「あっ、えっ」
「……はっ、何が、“食いたくない”だよ」

 静寂を破ったのは、わたしのお腹が空腹を訴えるまぬけな音であった。
 張り詰めていた空気は一気に弛緩し、知念くんがふきだす。耳まで熱い! わたしの顔、きっと真っ赤になっているんだろうなあ。
 知念くんは手にしていたお弁当袋を取り出して、ベッド傍の棚に俄に置いた。視線で、食べろ、と促される。

「やー、腹減ってるんだろ」
「減ってないです!」

 食べたらまた、吐かないといけなくなる。
 また鳴りそうになるお腹をぎゅうと押さえつけ、首を左右に振った。

「良いから」

 お弁当の包みを開く知念くんを見て、目の奥がちかちかとゆれた。それとお箸を手渡され、思わず受け取ったけれど、躊躇って彼の顔色を伺ってみる。じっとこちらを見据える黄味がかった瞳は、何を考えているのだかさっぱり分からない。おずおずと、お弁当に箸を付けて、口にはこぶ。噛んで、飲み下す。この数年間、食べ物を運ぶ袋としての機能しかさせていなかった胃袋に、いつものように。
 けれど二口目、三口目と食べ進めても、いつもの罪悪感はさっぱり沸いて来はしなかった。早く吐かないとという焦燥も、ない。何より、


「うり、もっとめー」

 おいしい、と、驚いて、言った。
 すると、知念くんは満足そうに頷く。
 そのまなざしの、優しいことと言ったら。

「ン、……げほっ」
「喉つまらすんどー」
「ごめん、でも、こんなの久しぶりで」
「飯は逃げねーらん」

 ご飯がおいしい、なんて感じたの、一体いつぶりだろう。
 食べたら吐かなきゃっていう気持ちに支配されない食事って、いつぶりだろう。

 吐瀉物が喉につまって呼吸ができなくなった時は死ぬかと思って恐怖したけど、知念くんの料理で喉がつまって死ぬなら、それは幸せなのかな、とか思った。



(これはある種の飢饉なのだ)
title 「愛とかだるい」さまより
企画『sink』さまへ提出