■ 28話B

手元の簡素な地図を確認しながら足を進める。
風に乗ってふわりと芳る香の匂い。ここは地獄の花街、集合地獄であった。
あの後、鬼灯くんにばれるとお仕置きで済みそうにないんだよ!とこの世の終わりのような顔をされたうえ、出張代を上乗せで出すから届けてほしいと頼まれてしまったのである。
閻魔大王涙ながらの懇願を、嫌ですとバッサリ切り捨てられるほど私の精神は強靭ではなかった。それに出張代という給料上乗せの甘言を振り切れるほどの鋼の心もなかった。
まあ集合地獄には何度か足を運んでいるし、ほかの場所への配達を頼まれるくらいなら、と安易に考えてしまった部分もある。
そんなこんなで私はプチ出張と題し、集合地獄にお小遣いがっぽりのお使いを引き受けたのであった。

「…迷った」

と、意気込んだのが一時間前の話。
閻魔大王に見送られながら意気揚々と鬼灯様と約束した行動範囲内を飛び出してきたはいいが、集合地獄到着早々まさかの迷子である。
どこの誰だ、集合地獄なら迷わないなんて言ったやつは。私か。
名前はげっそりとした表情を浮かべながら、腹の底から響く溜息を吐き出した。
意気揚々と集合地獄に足を踏み入れて早10分。道なりに行けばすぐだと駅員さんに教わった通り歩いてきたはずなのだが、いつのまにやら周りは見慣れぬ建物に埋め尽くされていた。
赤い格子にうすぼんやりとした桃色提灯。艶やかな衣装を身に身を包んだ狐、鬼、亡者。道行く人は圧倒的に男性が多く、そういったお仕事就く人以外、女性の数は少ない。
いかにこういうところに明るくない私でもわかる。これはあれだ、白澤様御用達のそういうお店の立ち並ぶ場所だ。
集合地獄はそういった側面を持つことを、曲がりなりにも知識として理解はしていたのだが、まさかこんなところに迷い込むとは微塵も思ってはいなかった。自業自得なのだが。
なんてこった、と半ば絶望に染まった声が漏れ出る。もはや絶望の二文字しか浮かばない。こんなところで迷子なんておいそれと道も聞けやしないのだから。
右を見ればピンクの明かりに照らされた店が、左を見ればいかがわしい看板を掲げた店が。
そんなところ、とてもじゃないが入れない。よほどの用がない限り入ろうとも思わない。
せめてもう少し入りやすそうな店はないものかと辺りを見渡していると、視界の端にほわんとお金の形をした煙が浮き上がった。

「なんじゃ嬢ちゃん探し物か?ちっとばかりうちで一服していかん?かわいい狐がいっぱいおるよ〜」



今日は客が少ない。月中なことも災いしてか、それともここいらで最近喧騒があったからか――おそらく後者だが――ここ数日は客足がめっきり減っていた。
はぁぁと面倒くさそうな溜息をつきながら、檎は細まった目をさらに細めながら肩を落とした。
集合地獄で《そういう》店を構える者たちは、互いに商売敵ながらある一定の約束を守っている。暗黙の了解というやつだ。内容は一つ、警察に目をつけられない程度にぼったくれ、である。
古くからここらにいるものや、そいつらとつながりがあるものはここらのルールをある程度把握している。問題になるのは新参者だ。
少し前からここらに居ついた大判と名乗る遊女がどうも、手当たり次第に法外な値を吹っ掛けまわったらしい。あまりのぼったくりっぷりに、普段ならある程度目を瞑っている警察も検挙に乗り出したというわけだ。
そんな騒ぎがあれば、ここらに通うお客の足も重くなる。そんなこんなでこの数日の売り上げは思わしくなかった。
そうは言っても狐カフェ自体は後ろ暗いことは何一つしていないのだ。の、だが残念なことに立地が最高に悪い。
なにせホストクラブの後釜の建物だ。居を構えるは歓楽街の一角である。
それだけでも日の元からは一歩遠のくというのに、それに加えて総取締役はぼったくり妓楼の女主人ときた。妓楼伝いに警察に睨まれるということも無きにしもあらず。
正直なところ檎としては、狐カフェも軌道に乗り、随分懐も温まっているところなので数日間売り上げが落ち込んだことなど特に気にはしていなかった。
許さなかったのはその上司、男を篭絡することにかけては右に出る者はいない女狐である。
客足が何割か減っている、という知らせを即座に聞きつけた女上司が訪れたのはほんの昨日のことだった。

「私、怠慢は許せないほうなのよね」

客足遠のく狐カフェに入口から堂々と入店した妲己は開口一番そう言葉を漏らした。艶めく唇から紡ぎだされる小鳥の囀りとは裏腹に、その奥には鋭い牙がのぞく。
明日の天気はどうかしら、といわんばかりの明るい声色のまま檎に向き直った妲己は、にこりと一つ笑みをこぼした。
これはやばい奴だ、妲己様が自分を蛇の餌にする直前の態度だ。そういえば妲己様はこういうお方だった、と対抗策を講じもしなかった己を恨むが後の祭り。背中を伝う嫌な汗を感じながら、檎は背中を縮こまらせるばかり。
ぶるぶると怯えに怯える従業員の様子を一瞥した妲己は、興味なさげに視線をそらすと、きれいに整えられた爪の並ぶ嫋やかな指で檎の頭を林檎よろしくわし掴む。

「あれこれと面倒ごとが重なって客足が遠のいてるって?それは仕方がないことだけど、だからといって売り上げを落としていいなんて私は言ってないわよ?」
「……ハイ」
「ねえ檎、もう少し真面目に仕事なさいな。私の言いたいことはわかるかしら?…四の五の言わずにさっさと客捕まえてこいっつってんのよ」

そういうなり妲己は頭を握りつぶしていた手をそのまま下げ、檎ののど元をひっつかむと宙に持ち上げぎりぎりと気道を締め上げた。
元の売り上げ以上にしなきゃこのまま首を捩じ切るぞ、と鋭い眼光で言い渡されれば檎に成す術はない。
蚊の鳴くような声ですみません、と告げられる従業員の返事にひとまず納得した妲己は、ならば用はないばかりにどしゃぁと檎を地面に放り捨て、二度目はないわよと言い残すと煌びやかな衣を翻して去っていった。
檎からすればまるで猛烈な嵐である。

――そんなやりとりから数時間後、無策の檎は客引きをすべく店の表へと足を運んでいた。もちろん妲己に絞殺されないために。

「いやー無理じゃろ無理、だって客がおらんのよ?」

いないものはいないのだ、ゼロに何を乗算したところで答えはゼロである。寺子屋サボった自分でもわかる。
うへぇと死にかけた声をもらす檎とは真逆に、くわぁと心底眠たそうな欠伸を浮かべたゴシップ記者は、別れた尾をペチンペチンと長椅子に打ち付けながらつまらなそうに口を開いた。

「へぇ、そりゃあ大変なこって。わっちには関係ニャイいけどな」
「他人事じゃと思って小判ニャン。はぁー…困ったもんじゃな」

そういいつつも煙管に火を点す作業は辞めない檎は図々しいのか、心底阿呆なのか。
それぐらいの度胸がなきゃここらで仕事はできないのかもな、と無理やりその疑問を頭の端に押しのけた小判は、いつものようにネタは転がってないかと周囲を見渡した。
周囲に人通りは少なく、いつもの喧騒に比べれば驚くほど静かだ。ここらに来れば大なり小なりなにかしらのネタが転がっていることが多いのだが。
今日は不作だなと目星をつけた小判の耳に、ふぅと煙管の煙を吐き出だす音が届く。横を見れば、のんびりと煙をふかす檎の姿が。
無理だ、手立てがない、せっぱつまっているなどとのたまう割には余裕綽綽――言い換えれば現実逃避をかましている。
今日のこいつは使い物にならない。それにちょいとばかり面倒ごとを抱えてると来た。
――割りを食わないうちに今日のところは退散するが吉か。

「まあたまにはお前も頭使えってことじゃニャアの。頑張れよ」

そこまで瞬時に答えをはじいた小判は、じゃあまた来るわ、と言い残すなりぐだぐだ狐を一度も振り返ることなく路地裏に滑り込むことにした。
時は金なり、上司は鬼なり。ここ最近いい記事を上げられていないから、編集長のご機嫌は右肩下がりだ。
もしここらで油を売っていたなんて事実が知れれば給料カットの可能性濃厚である。
仕方ない閻魔大王にでもインタビューするかと行き先を決めた小判は、一瞬脳裏をよぎった逆さ鬼灯を思い出して首を振った。
いいや大丈夫だ、確かな筋によれば奴は今日は外回りだそうだ。遭遇する確率は低いはず。
あのお人よし大王からゴシップ聞き出してやる、と息巻く小判はそそくさと裏道を駆け抜けた。


一方の檎はというと、いつもならばもうあと少しは居座って金を返せと催促してくる小判が、あっさり退散してしまいほんの少し拍子抜けしていた。
ちっ、ついでにいいアイディア考えてもらうつもりだったのに。
そう後悔してももうすでに仕事仲間の姿は見えず。これはやはり真面目に仕事をしろということなのだろうか。
うぅんと唸り首をひねる。―――三度の飯よりサボることが大好きな自分が真面目に仕事?
うん無理じゃな、と迷うことなく即刻結論を出した檎は結局、まぁどうにかなるかといつもの通り椅子に体を横たえた。
脳裏に自分の首が捩じ切れる姿が浮かんだが、やはり今すぐ働こうと思い立つ原動力にはならなかった。
まさに自堕落極まりない野干であると自覚したところで今更それを矯正する気もなく。
はぁと軽いため息をつきながらも、だらりだらりと道行く人を眺めながら思考を明後日に飛ばしかけた檎の視界の端に――集合地獄に似つかわしくない女の影がちらりと映った。

「迷った。なんてこった」

地図と思わしい紙と道とを見比べながら、うんうんと唸る女はいってはなんだが正直色気と縁がなさそうだ。
よく言えば素朴といえるだろうその見た目は、艶やかな女が闊歩するこの界隈では微妙に目立つ。それと同時にものすごく…チョロそうな雰囲気が醸し出されていた。
…よし、とりあえず客一人ゲット。
千里の道も一歩から、塵も積もれば山となる。さぼりにさぼった寺子屋時代の教えをほんのり思い出しながら、檎は愛用の煙管を片手に集合地獄に不釣り合いなカモ、もとい女に近寄っていった。



「なんじゃ嬢ちゃん探し物か?ちっとばかりうちで一服していかん?かわいい狐がいっぱいおるよ〜」

うんうんと地図とにらめっこして早数分。もはや道を尋ねる以外迷子打破の方法はないかと思い立っていたところに、かるーい調子の声がかかった。
つられて振り向くとそこには…おや、見覚えのある姿が。
そう、白澤様に届け物を届けた時だ。妙なチンピラっぽいのに絡まれた際に助けてもらった、確か―――

「…檎さん?」
「うん?ワシを知っとんか?」

そうだそうだ、野干の檎さんだ。
前に見た時と変わらず、片手に煙管を構えた姿はどこかけだるげな雰囲気を醸し出している。
その節はお世話になりました、とぺこりと頭を下げれば、当の檎さんは頭の上にハテナを浮かべながらこてんと首を傾げた。

「礼を言われて悪い気はせんが…いやワシ、嬢ちゃんと会ったことあったんかな?」
「あの、白澤様に届け物を持っていく道すがら、変な人に絡まれたときに助けていただきました」

助けていただいたおかげであの後無事に帰れたのだ。再度お礼を言っても損はあるまい。…そのあとひと悶着はあったのだが。
どうにか任務達成できました、と告げれば、檎さんはちょっと斜めになっている首をさらに傾げるとんんん?と小さく呻きながら疑問の声を上げた。

「白澤の旦那?と絡まれた時助けた?……ううん?記憶に違いなければあの時会うたんは兎―――」

ぶつぶつとこちらを見ながら腑に落ちない表情を浮かべる檎さん。
つぶやくワードの中に兎という単語があったことから、おそらく私の今の姿と兎の姿が結びつかないようだ。当たり前である。
時間が許せばそのあたりも説明すべきだろうが、残念なことに今は時間がない。早く配達物を渡して閻魔庁に帰らなければ約束反故の大目玉を食らう可能性大だ。
檎さんに仔細を話すことと、鬼灯様からの雷を天秤にかければ―――いや、かけるまでもなくどちらを優先すべきか阿呆でもわかる。後者だ、絶対。
そうときまれば第一村人もとい檎さんに今ここで、道を聞くよりほかの手はない。頭に?を浮かべる檎さんに気づかないふりをして、手元の地図をそっと彼に見せるよう広げた。

「すみません、不躾ですが道に迷ってしまいまして。ここに行くにはどうしたらいいですか?」
「え?ああ…そこはその道を右に曲がって、突き当りを左じゃな」

そういうと私の手元の地図をくるりとひっくり返した檎さんは、ずいぶんと逆方向まできたなぁと苦笑いをこぼした。
どうやら地図は正確だったらしいが、私が逆に地形を把握してしまっていたらしい。これでは確かに目的地に着くはずもない。

「あぁこれ私真逆に見ちゃってたんですね!これは着かないわけだ」
「この界隈は入りくんどるからな、迷いやすい」

まあわざと入り組んだ地形にしとるんじゃがな、といいつつ煙管から煙を吐き出した檎さん。その煙は兎と人の形をしている。
相変わらずすごい芸ですね、とほめると、檎さんは数秒間をおいて、そうじゃろうと笑った。
何か少し値踏みをされるような、見透かされるような視線だった気がするが、きっと私の気のせいだ。気のせいにしておこう。
うん、と自分を納得させると急に本来の目的が頭に降ってくる。時計を見ると、自分が予定していた時刻よりだいぶ時計の針が進んでいた。
まずい、早く仕事を終わらせて閻魔殿に帰らねば。寸分のロスも許されぬ時間になっている。
もし鬼灯様との約束を破ったことがばれれば仕事契約を破棄されてしまう。そうなれば臨時収入がパァだ
さぁと頭の血が下りる。目的地まで全力ダッシュだ、兎時に鍛えた脚力を今発揮するとき!
ともかくお礼を言わねばとガッと檎さんに視線を向けると、私の剣幕に驚いたのか少し引き気味の檎さんが目に入った。だがそんなことを気にしている場合ではない。

「ごっ、檎さん!本当にありがとうございました、すごく助かりました!」
「え、あ…まぁワシ大したことしてないし」
「いえ本当に天の助けでした!急ですがこれで!失礼します!」

檎さんの返事を聞かずにくるりと進行方向に体を向けると、今持ちうる限りの力で全力ダッシュする。
まずいまずい、あと数時間で鬼灯様が出先からたぶん帰ってくる時間だ。それまでに…それまでに!
大分食い気味の礼を言い放つなり、全速力で駆け出した妙な女を不可抗力にも見送った檎は煙管をふかしながら一つの結論に至った。

「やっぱりあれ、白澤の旦那のとこにおった妙な兎か」

これは面白いことを知った、と独り言を漏らした檎は、今更ながらカモにする予定の客に逃げられたことを思い出し、一人青ざめた。

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