■ 22話

「おはようございます。昨晩はよく眠れましたか」

幼子二人の微妙な誤解に怯えながらも、なぜだかぐっすりと快眠できた翌日。すがすがしい朝の空気とともに飛び込んできたのは、眉ひとつ動かさない第一補佐官殿のドアップだった。キチンと鍵をがっちり掛けて就寝したのだが…まあここは鬼灯様のお部屋だし、合い鍵の一つや二つ持っていて当たり前か。チラリと鬼灯様の手の方に目をやると、なんと細長い針金が一本握られていた。もう片方の手は手ぶらで鍵などは握られていない。…まさかピッキング?いやいやまさか官吏様がピッキングなんてする訳ないだろう。きっと偶々針金でも拾ったんだろう。そうに違いない。
そんな事を考えていると、大きな紙袋を持った鬼灯様が布団をワシっと掴み、私の上からばさりと取りはらってしまった。暖かな布団が無くなり、温まっていた身体にひんやりとした冷気が肌を撫ぜると、ようやく私はいまだに自分が兎に戻っていない事に気が付いた。
昨日は満月だったのに、何で戻らないんだろう?別段身体に異常もないし、昨日の人騒がせな黒犬が飛び出して行った時の様な気だるさもないのに。
人型から戻らない事に疑問を浮かべつつも、何時までも鬼灯様のベッドを占領する訳にもいかないので急いでベッドから飛び降りる。ひやりとした地面に素足の足が付いたと同時に鬼灯様がずい、と紙袋を突き出してきた。

「着替えです。念のために持ってきて正解でしたね」

少し可愛らしい装飾がなされた紙袋の中には、新品ではないが随分と綺麗な着物が一着入っている。おずおずと取りだしてみると、紺色に近い色の綺麗な小袖が出てきた。綺麗に整えられたそれを広げて見ると、覚えのある文様をしている事に気が付く。…そうだ、大浴場でみたお香さんの着物の柄と少し似ている。ただ少しだけ違うのは、お香さんの本紫よりも少しだけ色がくすんでおり、紺色に近くなっている事か。しかもそのくすみは満遍なく全体を覆っている訳ではなく、ぽちぽちとまるでシミのように小袖のあちこちに点在している。それもよくよく眼を凝らさねば分からない程の微細な沁みではあるのだが。
なんじゃこりゃとそれを凝視していると、ああそれはですね、と少し楽しげな声が背中に掛る。

「それは亡者の体液でできたシミでして。端的に言うと血飛沫です」
「血飛沫!?」
「ちゃんとクリーニングには出してますので御心配なく」
「えっ、いや、あの、そういう問題では…」

珠にいるんですよねぇ、針山地獄に猛烈な勢いで突っ込む煩悩まみれな亡者が、と小首を傾げながら顎に手をやる鬼灯様。その形の変わらない瞳は、実に愉快だと語る。大方呵責が円滑に行われて楽しいと言ったところか。残念ながら血飛沫舞う着物を寄こされた私の気分は急降下どころではないのだが。
手元の着物に視線を下ろすと、先程までただの紺色にしか見えなかったそれが急に生臭い代物に感じられた。…これを着るの?いやでもこれしかないよね。そもそもタダで貸してくれるものなんだから文句は言える立場ではない。腹を括って震える声でお礼を告げると、鬼灯様は満足げに一つ頷き、準備が出来た頃にまた来ますと部屋を出て行った。
パタリとドアが閉じられると、残されたのは皺苦茶になった浴衣を着た私と、中々生臭い経緯を持つ紺色の着物だけだ。ちらりと散らばるシミを見つめるも、それらが無くなる訳もなく。はぁ、とため息をつきつつも、着替える選択肢以外私には許されて無かった。



寒っ、地獄は暖かいと聞いていたのに何故だか隙間風が吹いたような寒さが、浴衣を脱ぎかけた半裸の身に沁みる。もしかしてどこぞの窓か扉でも空いてるんじゃなかろうかときょろきょろと周りを見渡すと――逆鬼灯文が描かれた扉から、ぴょこんと白いふさふさが飛び出していた。白い体毛に覆われた顔の中心には、黒い鼻ときらきらとした黒い瞳が二つ並んでいる。思わぬ来訪者に着替えの手を止めたまま、時を忘れてその犬と見つめ合う。と、先に我に帰った犬がその体躯にに合わない程の大声で、急にぶんぶんと頭を下げた。

「うわあごめんなさい!着替え中に!」

白いふさふさ――中型犬ほどの白犬は、女性の着替えは見ちゃいけないって鬼灯様が言ってた!と叫びながら物凄い勢いでドアを閉める。よくもまあ犬の前足の可動域であそこまでの力が出せたものだとバターンと勢いよくしまった扉を数秒ほど見つめていると、じわじわと現在の状況が思わしくない事に気が付いた。
…見ず知らずの犬にみっとも無い着替え姿を目撃された。しかも鬼灯様の部屋で。しかもあの犬、何となく口が軽そうに見えた。ドアを閉める時も鬼灯様の言いつけがあーだこーだと叫んでたし。もしかしたら今も、ドアの向こうで大声で私がこの部屋にいることを喋っている可能性も…?
そこまで考えてからの私の行動は早かった。脱ぎかけていた浴衣を即座に脱ぎ捨て、迷いなく藍色の小袖を身につける。血が沁み込んでたって構うものか。それより阻止せなばならないのはあの白犬の口止めだ。一部で有名な地獄の官吏との醜聞なんて、週刊誌の小見出しを飾ってしまうかもしれない。嫌だ嫌だ、そんな悪目立ちは嫌だ。

「あの!」

急ぎで整えたため、帯が少し緩いが仕方がない。それよりも犬だ、とドアを急いで開くと、犬・猿・雉とどこかで見覚えのあるような取り合わせの三匹がお行儀よく、横一列に並んで座っていた。

「あー!着替え終わったの?お姉さん」

白犬は私を目にとめるや否や、目をきらきらと輝かせながらじゃれ付いてきた。もふりとした感触と少し固い肉球が私の足の甲を踏みつける。重たい、でもかわいい。当初の目的も忘れて誘われるように白犬の首元を撫でると、白犬は小さく目を細めて喉を小さく鳴らした。なにこの犬、かわいい。
暫らく無心でふさふさを堪能していると、されるがままに撫でられている犬にしびれを切らしたのか、行儀よく並んで座っていた一匹の猿が小さく右手をあげながら、あのぉと口を開いた。

「俺達ちょっと用事があってきたんですけど…」
「新入りの件で鬼灯様に話が――」

猿の言葉を皮切りに、その傍で静かに佇んでいた雉も会話に加わる。随分と落ちついた物言いをする雉の“鬼灯様”という単語によりもふもふの世界へと飛んでいた意識が急に覚醒した。鬼灯様。そうだ私この三匹に口止めするために支度もそこそこに飛び出してきたんだった。つい白犬の無邪気さと人懐っこさにつられて和んでしまったけど、それどころじゃない。和んでいる場合じゃない、と気持ちよさげにされるがままになっている犬に向き直り、くれぐれも私がこの部屋にいたことは内密に、と釘を刺そうと口を開いた瞬間、自分の声に重なるようにして聞き慣れた低音が頭上から降ってきた。

「名前さん」

急いで後ろを振り向くと、いつものように金棒の先に風呂敷を引っかけた鬼灯様。と斜め後ろには、昨晩さんざん私の身体をひっかきまわした黒犬がちょこんと座っている。その姿は昨夜見た胡散臭い人型ではなく、小型犬ほどの黒犬姿だ。黒々とした体毛の中にきらりと光る瞳と一瞬目があったが、特に彼に対して言う事もないので視線を逸らしておく。ビシビシと視線が身体に突き刺さるようだが無視だ無視。満月輝く月夜に全裸を晒す羽目になった私の腹の虫は完全には収まっていないのだ。
しれっと視線を逸らしたままそっぽを向いている間に、いつの間にか距離を縮めた鬼灯様が、急ぎで結んだ帯を摘みあげる。あ、と思った時には、滅茶苦茶に結ばれた帯がそのはずみでするすると半分ほど解けてしまった。

「何とも斬新な帯の結び方で」
「…すみません」

帯など結び慣れない上に、とりあえず締まればいいかというノリでぐっちゃぐちゃに結んだもんだから、鬼灯様の目には余る程の出来だっただろう。やっぱり横着なんてするもんじゃなかったな、と一人静かに反省していると、後方に回った鬼灯様が滅茶苦茶に巻き付いた帯を手にしたまま小さく呟いた。

「結び直すか…名前さん、袖を持っていて下さい」
「えっ」
「つべこべ言わずに持つ」
「はい!」

ぴしゃりと言い放たれては、勇気などかけらほども持ち合わせない私が口を挟む余地もなく。言われた通りに紺色の袖を持ち上げると、失礼、という言葉とともにがっしりとした腕が腹部に回りこんできた。ひぇっという情けない悲鳴が口から漏れるが、鬼灯様は全く気にした様子もなく、くるくると器用に帯を巻いていく。なにこの状況、心臓が口から飛び出そう。言いつけ通りに袖をきっちりと握りしめたまんまガッチガチに固まっている間に、帯を巻き終わった鬼灯様は背部できゅっと帯を結ぶと、もういいですよと私の背中を軽くつついた。

「あ…ありがとうございます。何からなにまで」
「お代はそのうち頂きますからご心配なく」
「お代!?あんまり高価だとちょっと…」
「冗談です」

お代など要りませんよ、と少しだけ目を細めながら呟いた鬼灯様に背筋が震えた。なんだか言い方からして明らかにお金じゃなくて違うものを要求されそうな気がする。たとえば労働だとか、薬草だとか。
…貴重な薬草を見つけたら少しずつ収集してストックしておこう。兎に戻ればすぐにでも薬草探しの旅に出ねば、とひそかに決意を固める名前のやや後方では、顔を突き合わせてひそひそと話し合う柿助とルリオの姿があった。

「なぁルリオ!あの名前さんって人、鬼灯様の恋人なのかな?」
「随分甲斐甲斐しく世話してるしな。本当のところは分からんが」
「仲良さげだよな〜気になるけど、あんまり詮索すると後が怖いよな」
「全くその通りですね」
「!」

二匹がそろりと後ろを振り返ると、そこには黒い鬼が悠然と佇んでいた。咎める様な口調で三匹の会話を中断させた鬼灯だったが、彼は別段怒ってなどはいない。ただし疾しい会話をしていた二匹にとっては、いつもの無表情鉄面皮の鬼灯の姿すら、叱責一歩手前の姿にしか見えなかった。だらだらと背中に冷たい汗が走る。柿助の脳裏に、やっぱり調子に乗ってあれこれ詮索しなけりゃよかった、と後悔の念がぐるぐると渦巻いた――と、膠着した空気を根底から揺るがす能天気な声が、その緊張をぶち壊した。

「ねえ鬼灯様、この布団何かメス臭いね!」


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