■ 序

 
 達者でな、そう言い放ち心ばかりの銭と手荷物をよこす主に、咽の奥に何かが詰まったかのように声が出なかった。それほどに我が主、月読様がお怒りになられることは滅多にないのだ。まるで石になったかのように手足すら動かない私に、親しくしていた女官の憐みの目線が注ぐ。ギィと軋んだ音を響かせながら閉まる大門に私の目の前は真っ暗になった。

 ■

 私が月に使用人として召し上げられ、この真っ白な毛並みを手に入れてから早数百年。月という特殊な環境下では下界でされる研究とは一味違ったことがなされている。私はそこの医療チームに所属しており、その中でも中堅に位置する私は主に薬剤師のような役割を担っていた。薬の原料となる薬草の匂いをかぎわけることが出来るのだ、成るべくしてなった役職と言えよう。月に居る私たちは、下界では作ることのできない薬を作り、それを下界に配達する役割がある。
 つい先日のことだ。現世に住まう神に薬を配達した帰り、見かけたことのない妖に声を掛けられた。なんの事ない他愛もない世間話で、夜も眠らないと言われる現代は生き辛くなった、要約すればただその程度の愚痴を聞いただけである。妖もいろいろ大変なのだと相槌を打てば、まったくだと相手もため息をこぼし、思ったより会話は弾んだ。ふと気がつけばすっかり日は暮れぼんやりと月が道路を照らしており、急いで帰らねばならない時間となっていることに気づく。相手に仕事の続きがあるから、と一言断りを入れて急いで足を動かす。月読様は夕暮れ時までしかお仕事をなさらない。それまでに今日の収穫を御報告せねばならないのだ。私は必至に駆けた、それこそ一度も振り返らず。
 ようよう月に戻った頃にはとっぷりと日が暮れていた。棒のようになった足に鞭打ちながら大門をくぐり、帰り支度を済ませた月読様の御前まで歩いた瞬間、「お前、何を連れ帰った」月読様の底冷えする声が耳を打った。こんな声聞いたことがない。震えが止まらない身体を諌め背に抱えた袋を差しだし、いつものように報告を行う。
「い、いつものように御上まで薬を届けた帰りでございます」
「そんなことは聞いていない。お前に後ろにいる犬は何だ」
「犬…?」
銭の入った袋を一瞥すると私の後ろを鋭く睨みつける月読様。怯えつつ後ろを振り向くと、ちいさな犬がちょこんと座っていた。黒い毛並みの、まだ子犬ではないかと思われるほど小さな犬だ。黒い尾はくるりと巻いており、ゆらゆらと左右に揺れている。一見無害そう、いやむしろ愛くるしいと言った方が正しい様な犬だ。…しかしこのような小さな犬に私は覚えはない。クエスチョンマークを浮かべる私に、月読様は一言おっしゃった。
「その犬を連れていけ」
「私の犬では…」
そう言われても私は飼い主ではない。兎が犬を飼うなどそんな面白い事あるわけないだろうと内心思いながら月読様を見上げると、冷たい目で一瞥され、そのまま恐ろしい事実を口にされた。
「聞こえないのか?その“送り犬”を連れて出ていけといったのだ」
ぐるりと再度振りかえりその犬を見つめると、犬はくぃんと可愛らしくないた。目線を下に下げると…影がない。つまり、現世のものではないということだ。それを確認した瞬間血の気が引くのが分かった。私は重罪を犯したのだ。
「妖を招くなど言語道断、ましてや薬剤師のお前が…」
そう呟くと月読様は視線を左に寄せた。そこにはここ数年かけて品種改良した水仙がある。今朝がたまで青々と茂っていた白い花はどす黒く濁り、朽ち果てていた。
「あれは神の病を治す特効薬となるはずだったものだ」
月読様は瞳に影を落とすと吐き捨てるようにして呟いた。
「お前が全て駄目にした」



 リリリと鳴く鈴虫の音を聞きながらしばらく放心状態で大門の前にいたが、ようやく頭が整理出来てきた。私は追放されたのだ、この家ともいえる月から。それでも…いきなり地獄に突き落とされなかっただけ優しいものだ。あの時は水仙しか見えなかったが恐らく屋敷周りの薬草はそろって駄目になっているのだろう。なんたって、月という光に満ちた場所に影(妖)を侵入させたのだ。何年も、何年もかけたあれもこれも駄目にしたのだ、私が。もうここにはいられない、少なくともこいつがついている間は…。チラリと後ろを見ると黒い毛並みの犬が鎮座していた。


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