■ 8話

 芳醇な桃の香りで満たされたこの果樹園もようやく見慣れてきた。私がこちらで働き始めて早一月、主に任されている業務は薬草の採取と育成である。調合も少しは出来るには出来るのだが、すりこぎでゴリゴリ磨り潰す作業が壊滅的に苦手で薬の大きさがまばらになるのだ。結果、ちょいちょい粒々が残った非常に飲み辛い薬が出来あがってしまう。
 こちらに勤めた当初、白澤様に物は試しだということで調合をやってみるよう言われ一度だけ調合をしたことがあったが、その時は本当に悲惨なものであった。滋養のつく薬を調合したはずなのだが、実験役を買って出てくれた桃太郎先輩が薬をほんの一口口にした瞬間、ものの数秒で眠りの世界に意識を飛ばしてしまったのだ。そんなこんなで私の調合する薬は到底売り物にはならないので専ら材料集めに専念している訳である。

「ええと、今日は桃の葉と……牛頭の角?」

 白澤様に出がけに手渡されたメモ用紙に目を落とすと、桃の葉、桜の朝露…といつもの様に天国で揃えられるものが羅列しているその下に、ミミズの這ったような文字で牛頭の角と書かれている。牛頭というのは地獄の門番のあの牛頭のことであろうか。牛の角って切り取っても生えてくるのだろうか?というかそうやすやすと角切らせてもらえるんだろうか。疑問は尽きないがこれを採集しないと今日の仕事は終わらない。天国で揃うもの揃えたらとりあえず地獄の門にでも行ってみようと考え、材料採集に戻った。





「あら兎ちゃん、今日はお早いのね」
「こんにちは、馬頭さん」
 
珍しいわね、とばさばさのまつ毛を揺らす門番馬頭さんとは、ここ最近やっと顔なじみになれたばかりだ。
当初は彼女らの存在感に圧倒され言葉が出なかったが、毎日毎日この門を潜っていれば嫌でも慣れると言うもの。それに彼女らがとても優しい事と獣同士という事も手伝って、第一印象とは裏腹に割とさっくり仲良くなれた。ただし、上から見つめられる事には未だ慣れないが。
何か御用事かしら、と小首をかしげる馬頭さんに本日の要件を告げると、彼女はあらあらと言いながら頬に蹄を当てて困ったように立派なたてがみを揺らした。

「牛頭の角ね、兎ちゃんの前にお客様がいらしたのよねぇ…残ってるかしら?」
「え」

お得意様なの、とまつ毛をパチパチさせた馬頭さんは思案するように視線を私から少しばかり反らす。
その煮え切らない態度に、先程まで確実に手に入るだろうと安心しきっていた内心が揺れる。
もしも無かったらどうしよう、よりにもよってしかも今日。今日の材料は要り様なんだよね、と鼻歌交じりに薬剤をかき混ぜていた白澤様の姿が脳裏をよぎる。
鍋一杯にかきまぜられていたそれは、あまり詳しくは分からないが中々高値で取引できる代物だったような気がする。…これは絶対手に入れなきゃいけない案件だ。
それに考えてもみろ。あの牛頭さんの角だ、少しばかり削った所で全部無くなってしまうとは考えにくい。だから大丈夫大丈夫、多分。
頭の中で必死に悪い予想を振り切ると同時に、思案顔を浮かべていた馬頭さんも決心したようにこちらに視線を向けた。

「まあでも、結構分厚くなってたはずだから大丈夫だとは思うわ。ねえちょっと牛頭、牛頭〜?」

不安にかられる私を余所に、馬頭さんは良く通る声で反対側の門に向って声を張り上げた。
だだっ広い通路にわんわんと木霊する馬頭さんの声、それが聞こえなくなったとほぼ同時に響き始めたのはドシンドシンという足音だ。
馬頭ぅ呼んだ〜?とこちらも廊下内に声を響かせながら豊満な肉体を揺らし、猛烈なスピードでこちらに駆けてくるのは牛頭さんである。
遥か遠く、豆粒程度にしか見えなかった彼女はものの数秒で私たちの眼前まで駆けつけると、息一つ切らさず、途中で捕まえたのだろう脱走を図った亡者をぶちりとねじ切りながら身体を一つくねらせた。
何か用事?とこちらに問いを投げかけながらもどうもテンションが上がりきっているらしい彼女は、こちらが問いに答える前にそのがっしり…いや、豊満な肉体を私の視線の高さまで折り曲げると、頭部のそれをこちらにずずいと近づける。

「ところで馬頭、兎ちゃん、これみてこれ!良い感じでしょ?」

そういうなりぐいぐいと近づけられたものに視線をやるとそこには―――ものの見事に余分な部分が削り取られた、それはそれは綺麗な二本角が鎮座していた。
どこからどうみても無駄なく削られた角はまさに角らしく、鋭利な先端が光を反射していた。
なかなか器用にやって貰っちゃった、と頬を染め、鼻息荒く蹄を頬に当てる牛頭さんとは正反対に私のテンションは真っ逆さまに急降下する。
――なんてことだ、よりにもよって要り様だと言われた日に限って材料が手に入らないなんて。
どこか、どうか、少しでも削る余地はないのかと必死にそれをあらゆる角度から眺めるが、削られ磨かれたばかりの角がきらきらと光るばかりだ。
ものの見事に余分な部分は根こそぎ削られている。それもぐうの音も出ないほど丁寧に、悲しいほど一片の余地なく。
絶望に打ちひしがれる私とは反対に、馬頭さんはまるで自分の事のように嬉しげな声を上げるとその蹄を胸の前でポンと合わせた。人間でいうなら両手を合わせた状態である。

「あらぁ〜綺麗に削っちゃったのね!すっきりして素敵よ牛頭」
「ありがとう馬頭〜ね、兎ちゃんはどう思う?」

いつもより気合入れて磨いてきたのよ、と大きい鼻息を吐きだしながら瞳をきらめかせる牛頭さんを前に、出来ればもっと雑にお手入れしてほしかったですなどと言う事が出来る訳もなく。

「あ、き、綺麗ですね、すっごく綺麗です」

それはもう綺麗過ぎて悲しくなってくるほどに。
嘘は言ってないが本心も言っていないという何とも無難どころの感想を、悲しみに暮れる内心を押し込めながら告げる。
ああ、表情筋がそこそこ固くてよかった。兎の先輩方に比べれば緩い表情筋かもしれないが、それは兎基準の話だ。他の生き物基準で比べれば、私の表情筋も固い部類に入るだろう。
そんな事を考えながら煮え切らない返答を返した私とは反対に、気分を悪くすることなく、ありがとうと喜びの表情を浮かべる牛頭さん。
その裏表ない姿に、先程までわきあがっていた焦燥感や苛立ちが少し和らいだ。

そうだ頭を冷やして考えてみろ、これは誰が悪いでもない。タイミングが悪かっただけだ、強いて言うなら採取した方の腕がよすぎただけの事。
それに角はしばらくしたら伸びるだろう、その頃に貰いに来ればいい。白澤様にはご迷惑をかけることになるが、きっと困ったように笑って、仕方ないねと許してくれる。
その姿を想像して、小さな罪悪感に襲われたがこればかりは仕方が無い。その代わりに今まで以上に働こう、少しでも役に立てばいいが。
きゃいきゃいと角談義にわき立つお二方に水を差さないよう、ひっそり引き返そうと地面に置いていた籠に手を掛けようとしたその瞬間、あ!という声が馬頭さんから上がった。

「そうだ!あのね牛頭、兎ちゃんってばあなたの角を分けて貰いたいってここまで来てたのよぉ」

すっかり忘れちゃってたわ、と朗らかに笑った馬頭さんは、そのまま牛頭さんの角まで目を滑らせて、さすがに今日は無理そうねぇと呟いた。

「あらそうだったの!兎ちゃんごめんなさい、後一月もあれば少しは削れるようになると思うんだけど」
「いえいいんです、ありがとうございます」

アポなしで来たのはこちらの不手際だ。
ぺこりと頭を下げれば、頃合いになったらあなたに一番初めに連絡するわ、と言いながら慰めるようにぽんぽんと私の頭上に蹄が乗った。そのまま視線を上げれば、女に二言はないわとウインクを飛ばす牛頭さんの姿。それが様になるのは彼女だからだろうと思う。
目的物を採取出来なかった引け目からか、こころなしか来る前よりもずっしりと重みを増したような気がする籠を背負い直すと再度お二方に頭を下げた。やはり背中の籠は重い、中身は増えてないはずなのだが。



「はぁ…」

また後日譲ってもらいにこようと意気込んだはいいものの、やはり手ぶらで帰るのは気が重い。いかにどうしようもないことだと分かっていてもこればかりは気分の問題だ。
再度ふぅ、とため息をついた名前は、小さい背をさらに小さくさせたまま通路の曲がり角に足を踏み入れた。その足取りは重く、視線は所在なさげに地面をうろうろするばかり。所謂注意力散漫の状態だ。
照明の少ないこの通路は見通しが悪く、人影すらおぼろげに見える程度である。そんな所を意識がすっかり余所に飛んでしまった状態で歩けばどうなるか、想像に難くない。

「うわっ!」

さて白澤様にどう弁明するかと頭を巡らせながら角を曲がった所で、元から薄暗かった視界が真っ黒に染まった。ついで全身に感じる衝撃。
勢いのまま後方へ軽く吹っ飛ばされると、体勢を立て直す事も出来ないまま尻もちをつく。視界の端に、肩から滑り落ちた籠から桃が幾つか転がり落ちていくのがスローモーションに見えた。
まずい、桃は傷が付きやすいのに。
せめて傷がつかないように転がってくれと念じながら、ころころと転がって行く桃から目を離せないでいると、視線の先の桃がすいと節くれだった手に持ち上げられる。
その動きに導かれるように視線を上に上げると、いつぞやに見かけた黒の道服と鋭い目つきが目に飛び込んできた。
―――なんでこんなところに例の鬼様が?
驚きに声も出ない私を余所に、以外にも繊細な手つきで転がった桃を拾い上げた鬼灯さんは、抱えたそれをす、とこちらに差し出し、ほんの一瞬だけ目を開き、その口を開いた。

「どうぞ、落ちましたよ」
「えっ、あっ、はい、どうもありがとうございます」

予想したよりも穏やかな声色に虚をつかれ、妙に裏返った声が口から零れ落ちた。
てっきり前見て歩いて下さいと注意されるのと思い込み身構えていただけに、思わぬ反応に驚きが隠せない。
はい、と差し出された桃を受け取ると、幸いな事に表面に小さな傷が付く程度で済んでいるそれが確認できた。こう言っては妙だが、上手く転がってくれたらしい。
安堵の息を吐きだすと、すいすいと転がっていた桃を拾い上げてくれていたらしい鬼灯さんがあ、と声を漏らすなり小首を傾げながらその口を開いた。

「そうだ、あなたは確か名前さんでしたね」

お久しぶりです、と告げる声色に棘はないもののその表情は微動だにしない。
射抜く様な視線に、何処となく感じる威圧感。
きっと機嫌が悪いわけではないのだろうと分かっているのだが、こうも表情が変わらないとどう接して良いものかわからなくなってしまう。普段共に過ごす人がマキちゃんと白澤様という感情豊かな二人なだけに。
真っすぐこちらを射抜く視線に耐えきれなくなり、自分で思ったより勢いよく返答を返してしまった。

「あっはいそうです!お久しぶりです鬼灯さん!こんなところで奇遇ですね!」

普通に声を出したつもりだったのだが、大声かつ裏返り気味の変な返事を返してしまった。こんなはずではなかった。
妙に大声で返事を返した私に驚いたのか、少々目を瞬かせた鬼灯さんと目が合った。その表情からは何も読み取れないが、大方声をかけただけなのに、妙な態度を返す奴だと思われただろう。
いやそれ以上に、へんちくりんな返答で気分を害されていたらどうしよう、今夜は兎鍋かもしれない。悪い妄想が頭をチラつく。
想像が悪い方向へ膨らむ私を余所に、そんな事はおそらく気にもしていないだろう鬼様は、こてんと首をかしげながら質問を投げかけてきた。

「そうですね。所であなたはこんなところで何を?」

そういいながら指さしたのは、桃と薬草がいっぱいに詰め込まれた愛用の籠である。
幾らかの葉っぱが散らばっている様は、さながら雑草が転がっているようにしか見えない。
だというのに、それを一直線に見つめる鬼灯さんは、あれは薬草の材料でしょう、と小さく呟いた。
これはそういう方面に明るい人が見なければ雑草の塊と少々の果物が入った籠にしか見えないだろうに、この鬼様は特に思案する様子なく内容物を言い当てたのだ。
もしかしてこの方、どこかの薬師なのか?どうしよう、今後もしも薬師同士の交流なんかがあったりしたら私の心臓が持たない。この方と話すとどうも緊張していけないのだ。
そこまで想像し、背筋をふるりと震わせた名前は鬼灯の顔色を窺うようにおずおずと口を開いた。

「て、天国の薬局で働いているんです」
「…ああ、薬の材料を譲り受けに来た訳ですか」

地獄でしか手に入らないものも多いですからね、と一人納得した鬼灯さんは、視線をゆっくり左右に揺らすと心得たように一つ頷いた。何が分かったというのか。
表情から探ろうとしたところであの鉄仮面から導き出せる答えなどある訳もなく。
よくよく考えてみろ、彼の考えている事など私にわかるわけがない、それより―――

「その予定だったんですが、今日は品切れだそうで…」
「品切れ…もしかして、牛頭の角が目的だったんですか?」

私が一番欲しかったものを一発で言い当てた鬼灯さんは、何か思案するようにふい、と視線を横に逸らした。その態度に少しの疑問を浮かべつつも、彼が私の目的物を当てた事実に驚愕する。
なぜ牛頭の角だとわかったのだろう、牛頭さんにあったことなど一言も口にしていないのに。
驚きのあまりぽかんと口を開けたままになっていた私を気にした様子もなく、鬼灯さんは懐から大瓶を取り出すと、それ左右に揺らし瞳を細めた。

「あまり頻繁に来られない物ですから、少々まとめ買いを」
「…」

全然少々ではない量が詰め込まれた瓶が揺れるたびに流れる粉末状の角。
どう考えてもまとめ買いの量を逸脱する程のそれが揺れるたびに、まるでねこじゃらしに釣られる猫のように私の前足がぷるぷるとそちらに向かって伸びる。口では言えぬ分、それが欲しいと身体がアピールしているようだ。
その様を目にした鬼様は、一瞬意地の悪そうな表情を浮かべるなり、提案を口に出す。

「…よければ少しお譲りしましょうか」
「本当ですか!?」

ええいいですよ、といいながら慣れた手つきで小瓶に少量取り分けた鬼灯さんは、先ほどの意地悪げな顔はどこへやら、どうぞとこちらにそれを差し出してくれた。手渡される直前で、パキリと小瓶にひびが入ったのは見なかった事にする。
…どうか極楽満月まで漏れずに持ってくれればどうにかなる。それにひびの理由を問うには私に勇気が圧倒的に足りない、無理だ。
お礼をいいながら頭を軽く下げると、眼前の鬼様の目元が緩んだ気がした。
ぽんと前足の上にのせられた、ひび割れたそれは当たり前だが物凄く軽い。
これが牛頭の角、咽から手が出るほど欲しかったそれだ。まさかこんな所でお目見えすることになろうとは。
思わぬ形で手に入った目的物に、肩の荷がスッと下りる。
これで白澤様になんやかんやと弁明しなくて済む。先ほどまで悩んでいたことがこんな形で解決されようとは思いもしなかった。
掌の中で揺れるそれは綺麗な砂と見まごう程さらさらとしている。これが牛頭の角。

「ありがとうございます!後日きちんとお返ししたいのですが…」
「ああそうですね、じゃあ地獄の閻魔殿の前まで持って来て頂けますか」
「閻魔殿ですね、大丈夫です!」
「急ぎでないので何時でも構いませんよ」

恐ろしいお兄さんかと思っていたが、思いのほか良い人だったようだ。
顔が動かないし何となく威圧感あるし、なにより出会いがアレだったから恐怖の印象しかなかったが、この数分でそのイメージは薄れつつある。しかもお礼はいつでもいいなんて。
場所指定はあるが、その場所が閻魔殿で助かった。いかに地獄に明るくない私でも知っている場所だからだ。
ほくほくしながら小瓶を籠に仕舞いこみ、いざ帰らんとそれを背負おうとしたところで、お腹の下に温かい手が潜り込んできた。
そのままひょいと持ち上げられる感覚とともに襲う浮遊感、何事かと目を白黒させる前に私の頭の上に乗ったのは、ごつごつとした温かい掌であった。そろそろと手の持ち主を見上げれば―――鉄仮面の鬼灯さんが無心でこちらを撫でているではないか。
あれ、この間こんな事あったような気がする。そんな少々の既視感を感じながらも、その絶妙な力加減のなでなでに難なく陥落した私は、撫でている御仁が誰かをすっかり忘れ去ったまま大人しく暫らく撫でられることになったのであった。



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