短編 | ナノ


▼ 堕下する距離

風のそよぐ晴れた陽気に、ニーナは下から微かに聞こえる怒号に溜め息を吐いていた。

『食堂方面を即刻探せ!センゴク元帥のご命令だ』

「……はぁ」

残念ながらニーナが今居る場所は食堂ではなく、海軍本部要塞の屋根の上なのだが。しかしこれでは当初の目的だったアイスのある食堂へは行けなくなってしまった。
少し帰還報告を延ばせばすぐにこれだ。たかが五日間の遠征でもこうなのだから、まったく信用というものはないのか。

「まあ、海賊だから仕方ない…… のかなぁ、これ」
「どうだろうな」

ポツリと呟いた独り言に、唐突に背後から返答され思わずニーナはビクリと肩を揺らした。
もう見つかったのかと振り向くが、その人物の表情は静かで、とても屋根まで自分を追って来たとは思えない。

「ドレークさん。どうかしましたか?」
「ん?いや、お前が居たからなんとなく来てみたんだが。心配するな、別に報告したりはしない」
「私としては嬉しいですけど…… お仕事放棄になりません?」
「……………仕事、か」

静かに屋根を歩いたドレークが、そのままニーナの座る隣に腰を下ろす。
そして先ほどのニーナよりも更に深い溜め息を一つ漏らした。

「初めは“正義”の為に海軍に入った筈だった。それがいつしか“仕事”だ」

眉間に深く皺を刻み込んだドレークの真剣な声色に、ニーナは思わず目を見開く。

「悪いが、こんな話だとお前以外に居なくてな」
「……そうですね。海軍で出世すると、だんだんとその手の話は面倒になってしまいますからね。私でよければ、お話聞きますよ」
「………すまんな」

何処か安堵した様な笑みで、ドレークが目を細めた。それにニーナも笑顔で返す。
穏やかなニーナの雰囲気に促され、ドレークが再び口を開いた。

「“正義”が“仕事”になり、それがまた当たり前になり深く考える者も居なくなる。それが出世すればするほど顕著だ。正義だと謳う海軍と政府の、中身がどうだ」
「…………」
「正義だけでは語れない、そんな現実があるのは解る。しかし、正義を貫こうとする者が集う場所こそ海軍の筈が……」
「……さぁ、それはどうでしょう」

ポツリと返された呟きに、ドレークがなに?と俯けていた顔を上げる。そこには普段のように穏やかな顔で微笑むニーナが居るだけだ。
聞き間違いではないのだろうが、ニーナの否定するような言葉にドレークは僅かに首を傾げた。

「どういう意味だ?」
「勿論、海軍に入隊する多くの海兵が正義を目指してここへ来るのは事実ですね。でも、それだけじゃない筈ですよ」

たとえば、とニーナは腕を上げて指折り数えてみせた。

「元から仕事として海軍を選ぶ人や、親や周りの勧めで入る人。地位に魅力を感じた人に、富の為に入隊する人。正義ではなく偉人への憧れ、ただ単なる興味。そんな理由で入る人達だって、決して少なくはないんじゃないですか?」

言ってみせたニーナに、ドレークは更に首を傾げる。その思考を占めるのは、だからどうした?という思いだ。確かに、ニーナの言う通りかもしれないが、自分の話の論点はそこでは無い。それが解らない様なニーナではないと思っていたのだが。

けれど、次にニーナの発した言葉に、大きく目を見開いた。

「海賊も同じですよ」
「………どういう意味だ?」
「言葉の通りです。海賊になる理由だって様々。富の為、名声の為。略奪がしたいから、それが手っ取り早いから。なんてのが多いかもしれませんけどね、でも他にも。純粋な憧れ、冒険や腕試しの為。海賊にならざるを得ない環境。そして……」

「己の信じる信念と正義の為」

「っ!?」

その言葉に、ドレークは思わず息を飲んだ。

これが大将“赤犬”の様に極端な考えの持ち主であれば、何を馬鹿なと鼻で笑って終わりだっただろう。赤犬でなくとも、海軍こそが正義と謳う多くの海兵が、海賊達の成す悪行を指差しそれを否定する筈だ。

しかし今のドレークはそれをしなかった。喉元に何かが支えたかの様に、否定の言葉が出てこない。何故、と自分でも思うがそれでも喉は相変わらず思う様に声を発してはくれなかった。

そうする間に、ニーナが目を細めながら、ねっ、と小首を傾ける。

「考えようによっては、海賊になるか海軍になるかの境界も曖昧になるんですよ。正義と悪の境界だって同じ。考え方の数の分だけ、その界はもっと曖昧になる。何を“正義の為”と謳うのか。何が正義として正しいのか、なんて突き詰めて行ったらキリがありませんよ」
「なら……… なら何も残らないのかもしれないな」

フッと表情を崩したドレークが、再び顔を俯けた。

「“正義”が結局は同じ事なら、己の信念を信じ、何を犠牲にしてでもそれを貫くのが海賊になる。だがここは海軍という組織。疑いを持ったからといって、曲がることは出来ない。ただ正義から成り下がってしまった“仕事”をこなすだけだ」

その言葉にニーナが少し引っかかりを覚え、思わず聞いてみたくなった。

「随分、堕ちる、ということを意識されてるみたいですけど……」
「そうかもしれないな」
「怖いですか?堕ちるのは」
「……お前はどうだ?」
「私ですか?」

その返答は予想外だったのか、ニーナがキョトンと目を開く。そこで顎に指先を当てて少しの間考えるかのように小さく唸ると、途端にポンと手を叩いた。まるでいいことを思い付いたかのように。

「よし、じゃあ堕ちてみましょう」
「はっ!?な、何を言って……おい!!」

いきなり手を掴まれたかと思えば強く引かれ、ドレークはバランスを崩す。しかし、ニーナと共に身体が傾いた先は空中で、その後は自然と落下が始まる。

「ッ……!!?」

声にならない悲鳴を上げながら、ドレークは自分に何が起こっているのか止まった思考で必死に考えた。
遠くに海軍本部の固い地面が見え、身体は抵抗する術なくそこを目指して落下していく。

堕ちて、いや、落ちているのだ。

「うッ!」

本能的に目を固く瞑る瞬間、横でニーナがまた小さくクスリと笑ったのが聞こえた。
何を、と考える間もなく、次にはブワリと吹き荒ぶ風に押し上げられる。

「アハハハハ」

今度は小さくではなく、はっきりと笑いを漏らしたニーナ。
胃を押し上げる様な不快感と背筋を凍らせる程の浮遊感の元凶を恨めしげにドレークが睨めば、いつの間にやら地面に着いていた。

「お前……グッ!い、いきなり何を!?」
「フフフ。どうでしたドレークさん。堕ちてみる感覚は」
「そういうことを言ってたんじゃないだろう!」
「おぉ、随分高くから一気に落ちましたね。流石ドレークさん。これが新兵さんとかだったら間違いなく医療棟送りですよ」

物騒なことをいけしゃあしゃあと告げるニーナは、呑気に上を見上げて落ちた距離に感心している。
しかし、横のドレークにとってはそんな場合ではなく。海軍本部要塞の屋根から引き落とされるという災難と、それを受けて尚まるで解消されない己の現状に、モヤモヤとした遣る瀬なさだけが募って行く。

「お前は…… まったく」

遣る瀬なさのままニーナへの苛立ちを覚えたドレークだが、朗らかな笑みにそれはすぐに鎮火し、同時に肩の力が抜けてしまった。
確かに、海軍本部の屋根から落下するなど、そうそう出来る体験ではないかもしれない。

と、そこでニーナがそれまで本部内で追われる身だったということを思い出させる声が響いた。

「あああ!ニーナ嬢が居ましたぁぁあああ!」

その声にニーナがしまった、と顔を引き攣らせる。

「ア〜。見つかった」
「仕方ないだろう。大人しく元帥の所へ行け」
「そうですね。流石にそろそろ限界ですかね。いやぁ、それにしても面白かった」

自分にとっては恐怖以外のなんでもなかったのだが、この少女にはそうではなかったらしい。
海兵に囲まれつつある中ドレークが苦笑を漏らす。

「でも、上から見た時の方が高かった気がしますね。ドレークさんはどうですか?」
「はっ!?」

ドレークが聞き返した頃には、囲んできた海兵に従い歩き出すニーナがヒラリと手を振っていた。そのまま本部要塞の中へと向かう背を、ドレークはそれ以上の言葉もなく見送る。
やがてその姿が見えなくなると、ゆっくりと本部要塞を見上げた。

視線の先には、海軍の文字の描かれた巨大な要塞。自分達が居たのは、更にその上にある屋根の一角。この偉大なる航路(グランドライン)で正義の砦と言うに相応しい、立派な海軍本部がそこにあった。

今自分の居る位置からその屋根までの距離と、先ほどニーナに引かれ落ちる瞬間に見た地面までの距離とを比較してみる。

何故だろうか。ニーナの言葉を否定出来なかった。
距離に差など無い筈なのに。落ちる時に感じた程の遠さが、見上げる今は無い。

目の錯覚か、それとも頭にあった落ちるということに対する本能的な恐怖心がそうさせたのか。理由は解らないが感じた距離の差を自覚すればする程に、先ほどまであった胸の蟠りが抜け落ちて行くかの様だった。

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