10.導き与える/2

 身体がだんだんと冷えていく。指先はかじかんで、首筋から肩に感じる冷たい空気に震え、とうとう微睡みから覚醒させられてしまった。このまま何も考えずに、眠っていられたら幸せなのに。少し身体を動かせばあちこちが軋むように鈍く痛み、嫌でも事の顛末を思い知らされる。
 
 不思議と悲しい気持ちはなかった。自分の愚かさに呆れはするけれど。
 実を結ばないと決まっていたことに、気付かず勝手に気持ちを膨らませただけなのだから。
 それでも、あの危うい状態のなんと幸せだったことだろう。
 秘密をギリギリで隠した状態で、置かれた立場を忘れ去って、温い、都合の良い夢を見ていられたのは。

 顔を起こして目を開けると、外の日差しが厚いカーテンの隙間から差し込み、もう日がかなり高くまで昇っているらしい。この季節の空は眩しすぎる。

「ああ、目が覚めたか? なまえ」

 不意に後ろから掛けられた声にびくりと肩が震えた。声の主はリヴァイではない。背中で感じる視線はその空の色の瞳から放たれるものであろう。身じろぎひとつできないでいると、ぎしりとベッドを軋ませながら、彼が側まで近付いてきた。むき出しの両肩をその大きな手で覆うように触れられ、後ろから覗き込むように、目が合わせられる。
 何食わぬ顔で、少し微笑みまで見せた彼に、背筋が凍るような思いがした。

「可哀想にな。大好きだったリヴァイに金で買われて、強引に犯されるとは」

 頬に彼の唇が押し当てられ、優しくキスを落とされていく。身体を覆うリネンを滑らせて、彼の手が素肌を撫でるように動いていった。その大事なものを慈しむような繊細な触れ方は、私を安心させるどころか、逆に震えさせた。
 エルヴィンは一体いつから、どこまでを知っていたのだろう?

 彼の手が下肢に伸ばされても、もはや抵抗する気力も残されていなかった。 

「ああ、こんなに中に出されて……、妊娠したらどうするんだ。後で薬を手配しておこう」

 そういえば、エルヴィンは中で出さないのだった、とぼんやりと考えていると、中の残滓を掻き出すように、彼の指が淡々と内壁を擦っていった。ぐちゅり、と音を立ててリヴァイの精が太腿を伝っていく。

「湯を用意しておいた。使うといい」

 そう言ってリネンごと横抱きにされると、彼はバスルームへと歩みを進めた。
 彼の肩に手を回して、耳元で小さく呟いた。
 
「わざと置いていったのね。あのマントは」
「……さあ」
「こんな結果になって満足?」 
 
 彼は表情を変えなかった。ただ黙って大股で歩くから、揺れる身体に振り落とされないように必死でしがみついた。
 
 バスタブに湯が張られたバスルームは、温かい空気で満たされていた。エルヴィンがシャワーの蛇口を捻ると、一緒になって濡れてしまったが、彼はお構いなしといった表情だ。
 バスタブの縁に座らされると、エルヴィンは片膝を付いて石鹸を泡立て始めた。

「自分でできるから……」
「正直、リヴァイがここまでの行動に出るとは想定外だったよ」

 苦笑しながら、足元で跪いて真っすぐに見据える彼の瞳に悪びれたところは何一つない。

「……酷い」
「君の方が、酷い裏切りだろう? リヴァイを懐柔してどうするつもりだったんだ? 二人で逃げようとでも思ったか?」
「そんなつもりは……!」

 石鹸の泡を纏わせたエルヴィンの手が、ゆっくりと身体を撫でていった。背中も胸も足も、柔らかく包まれて洗われる。リヴァイとの行為なんてなかったことのように、洗い流してしまうというのか。
 
「君は俺だけ見ていればいいんだ」

 後頭部の髪に手を絡められ、強引に目を合わせられるが、もう片方の手は泡でぬるついた指を膣に入れ、掻き出すように出し入れされる。それがきゅんとした刺激になって、思わずびくりと仰け反ってしまった。

「ど……して? 私のことなんてただの手駒にしか思っていないくせに……」

 バスルームに満ちた熱でクラクラしそうになりながら、必死に彼の腕の動きを止めるように掴んで、抵抗の意思を示した。

「なまえ、君だけなんだ。俺が死ねと命じないで済むのは」 

 そのときのエルヴィンの表情は忘れられない。
 金の髪から雫が落ちて、濡れたシャツが肌に張り付いて。調査兵団の団長とも思えない無防備な姿で、どこか悲しげに柔らかく微笑んでいた。

 この人はおかしい。
 冷たく蔑み支配し奪う、酷い男ではなかったのか。そんな部分などあっていい筈がない。

 いつか私が兵士だった頃、団長になりたての彼を見た。真っ直ぐな目をして、清く正しいといった印象だった彼は、いつからか冷酷や非情などと評されるようになった。手段を選ばず、何人の犠牲をも厭わないと。
 でも、彼は初めからそうだったのだろうか。一体いつから、どうやってそんな人物は形作られていったのか。
 多くの人間を壁外へと率いて巨人と戦うだけだって、並の精神ではいられない筈だ。壁外調査と、その前後の内地でのやり取り、そこで垣間見えるいつもと違う顔。それがどんな頑強な人間でも調子が狂う程、過酷なことなのだと解っていたのに。
 心の弱い部分など、この人にはないと思い込んでいた。
 人間らしい心を捨て去る変わりに、彼も歪んでしまったのだろうか? それとも、全て捨て去ったわけでもないのか。

「私は、どこにもいかない。あなたがそうしたんでしょう?」
「ああ……」

 ほら、やっぱり温度を伴わない彼の声。
 落胆なのか、恐怖なのか解らないが、だんだん涙が溢れ止まらなくなった。 
 それでも、この人に心まで屈伏するわけにはいかない。この人を妄信する兵士のように心臓まで捧げてしまうことはできない。このじんわりと広がる首筋の痛みをなかったことになど――

「リヴァイのことは、ただ、好きだったの……それだけだった」

 そう、彼の瞳を見つめると、彼もまた真っ直ぐに見つめ返してくる。

「そんな目で、俺を見るのも君だけなんだよ」

 エルヴィンはそう言った瞬間、きつく抱きしめてきた。彼の腕と厚い胸板の間で押しつぶされそうになるほど強く抱かれ、掻き動いた大きな手はうなじを簡単に掴み、急所を捉えられる。

 身震いするほどの恐怖は、痺れるような快楽とどこか似ている。
 希望など微塵も感じないのに、どうしてか心が高揚してくるのを感じる。
 リヴァイに抱いた淡くて清廉な思いよりも、ずっと愚かで醜いエルヴィンへの思いの方が、強い衝動となって――
 私をこの場所で生かしていく。
 

 この人への気持ちは返ってくることはない。何かを捨て去った、人間らしさを失った冷たい人間と、心を通わすことはできないだろう。
 それでも僅かに残った人間らしい心がこの人にあるのだとしたら。

「このままじゃ、風邪ひいちゃうから……、あなたも一緒に入りましょう」

 エルヴィンのシャツのボタンに手を掛け、シャツを脱がせる途中で、顎を取られ、唇を塞がれた。
 私の余分な思考は、すぐにエルヴィンが掻き消していった。


(2014.2.25)

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