00.空に堕ちる
――世界は残酷なんだ、と誰かが言っていた。
巨人が支配する世界で、人間は無力な存在だ。
それでも人類は巨人の侵入を阻む強固な壁を築き、その狭い活動領域の中で、百年にわたる平和と安寧の日々を実現させた。
しかしその平和は突然破壊された。
壁が壊されることなんて思ってもいなかった人類が、現実を思い知らされた瞬間だった。
支配する者と、される者に分かれる、残酷な世界だったことを。
それは壁の中で、私を取り囲んでいる小さな世界でも同じことだった。
優しく綺麗で穏やかなものに囲まれていたのに、一瞬にして打ち砕かれ、奪い去られた。
支配する者とされる者。
奪う者と奪われる者。
きっと支配され、奪われているから残酷だと感じるだけだ。
もし支配する側だったなら?
奪う側だったなら?
いいや、そんなことを考えるのも虚しいだけで、私には運も、力もなかった。
せいぜいできることは死によってその支配から逃れることくらいだ。
アンカーが射出し、風を切る音と共に、身体が持ち上がる感覚がして、全身に張り巡らされたベルトに一気に重力が掛かる。
移動は一瞬だ。その一瞬がとても長い時間のように感じられる。
人類が手に入れた機動力である立体起動装置は、それを操る者が自由に空を駆る軽快な道具と見せかけて、なまえにとっては体力を必要以上に酷使するものだった。
たとえそれが訓練で、他の兵士が適当に流している場面であっても、全力を出し切らなければ追いつけない。
多分、いや確実に、適性がないのだ。
訓練兵団を卒業するときの成績は最下位。むしろ卒業出来たことが奇跡だと囁かれた。座学や馬術はともかくとして、立体起動術や対人格闘術の成績は特に酷いものだった。
それでもなんとか卒業したなまえは、無難な駐屯兵団に進むだろう、という同期や教官たちの予想を大きく裏切り、調査兵団へと入団した。
――遅かれ早かれ、私は死ぬ。巨人のエサになるか、こうして過酷な訓練によって命を落とすか。
名のある資産家であり貴族であった両親を突然の事故で失い、その遺産を手にしたい親戚の謀略によって、一人娘だったなまえは家も財産もなにもかも奪われ、訓練兵へと追いやられた。
不要になった貴族の子女が訓練兵に追いやられることは少なくないと噂を耳にしたが、確かに格好の場所だ、とその立場に落とされてみて納得した。
過酷な訓練に耐えられずに、そこで命を落とすかもしれないし、脱落したら生産地送りとなって二度と内地へ戻ることはないだろう。温室育ちの貴族の子女が問題なく兵士となれる確率は低いのだ。
――それでも私が生きている限り、あの人たちは気が気じゃないのかもしれない。
そんな漠然とした思いが生への執着を無意識に強めているのかもしれない。現にこうして落ちこぼれながらも兵士になれたのだから。
それでもこの世界の残酷な支配から逃れたいという思いは変わらない。だからこそ調査兵団に入団したのだ。
二つの相対する欲求が心の内側でせめぎ合っていた。
「なまえ! 体勢を立て直せ!!」
アンカーを差し損ね、ワイヤーに引っ張られていた身体が行き場を失くして傾くと同時に、班長の怒号が飛んだ。
ああ、しまった、とすぐさまもう片方のアンカーを飛ばすが、間に合わない。
落ちる。
一瞬、空の青が逆さまに見えた。落下しながら吸い込まれていくかのようだった。
立体起動で強引に空を飛ぶより、重力に逆らわずに落ちていく方がよほど楽で気持ちがいい。
かろうじて衝撃に耐える体勢をとったが、地面へ転がるように投げ出され、その衝撃でなまえは意識を失った。
(2013.11.19)
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