テスト明けの校舎内は人もまばらだった。部活もないし、そもそもこの時期ほとんどの部活の3年生はもう引退している。半日で帰れるチャンスを逃すまいといわんばかりに、生徒たちの大半は足早に帰っていってしまった。
なまえはいつものように美術室にこもり、デッサンの練習をしていた。美大の受験に実技は欠かせない。本当は専門の予備校に行きたかったが、離れて暮らす両親の賛成が得られず、独学で勉強するしかなかった。
クロッキー帳のざらついたページに鉛筆を走らせる。他にもやらなければならないことがたくさんあるのに、気持ちばかりが急いていた。大好きな空の絵が描きたい。ふと窓に目を向けると、真昼間の空が視界に広がった。
真っ青の傷だらけの空が、妙に印象的だ。
不意に美術準備室の隅に置いてあるはずの描きかけのキャンバスが気になった。去年の夏休みに描いていたものが完成せず、放置してしまっていたものだった。あまり整理されていない準備室は半分ガラクタ置き場のようだったが、部屋の隅に重なるキャンバスの中から、どうにか探し当てることができた。
そのとき突然、ガラガラッと勢いよく扉の開く音がした。また顧問が早く帰れとどやしに来たのかもしれない。ユーレイ部員だらけの美術部に、一人熱心な部員がいても面倒なだけなのだろう。
「はーい、もう少ししたら帰りま……」
なまえはお目当てのキャンバスの埃を払いながら準備室を出た。顔を上げると、全くの想定外に、見慣れぬ男が何かを探している素振りでうろついているのが目に入った。その男はなまえの気配を察したらしく、すごい速さで振り返った。
(誰っ!?)
随分背の高い男だった。黒い色の細身のスーツを着て、同じような暗い色のネクタイをしている。
「え、えっと、教育実習の先生……?」
にしては老けすぎているような気もする。それに髪が金髪だ。明らかに外国人だった。
「あ、ひょっとしたら言葉が通じない……のかな……」
狼狽えているなまえにその外国人は面倒臭そうに言った。
「失礼。人を探していた。邪魔したな」
少々ぶっきらぼうではあるが、流暢な言葉遣い。その外国人は驚き固まっているなまえに背を向けて足早に立ち去っていってしまった。
(目が……空の色をしてた。)



帰りは夕方になってしまった。夏が終わってしまえば日が落ちるのが驚くほど早くなる。街灯の灯り始めた道をなまえはとぼとぼと歩いて家へと向かった。
両親は少々治安の良くない国へ海外赴任となってしまい、大学受験を控えたなまえは今は親戚であるイェーガー家でお世話になっている。そのイェーガー家でも同じように父親が海外へ単身赴任中で、母親とその息子のエレンと2人暮らしだった。そのエレンの母親も、経営している飲食店の仕事が忙しいらしく、家へ帰らない日も多かった。
エレンとは同じ高校に通っている。この辺りではそこそこのレベルの進学校であるこの高校で、エレンは成績だけはトップクラスなのに、素行があまり良くない。飲酒に喫煙、ガラの悪そうな人達とつるんだりしているところも見たことがある。それに、いつもやる気なさそうにしていてなまえは苦手だった。

「美大!? そんなとこ行ってどうすんだよ、シューショク先あんの? おれ面倒なのが一番嫌い」
うっかりエレンに美大志望だと滑らせてしまって、両親の反対以上に辛辣なご意見をいただいてしまったことを思い出した。それからはエレンはなまえの嫌いな人ダントツ1位の座を占めている。
でもエレンの言ったことはほとんど正論というか、多分世間一般の感想そのもので、でも他人のそこまで率直な感想を聞く機会はないので、ずっとなまえの心に太いトゲとしてめりこんでしまっていた。
ただでさえ面倒臭い大学受験が、さらに労力のいるものになる。そもそもそれに反論するだけの志望理由だってないのかもしれない。趣味で続ければいいじゃないかという思いもしなくもない。
「はぁ……」
ため息が出る。エレンの家に帰るのは気が重かった。面倒臭がりのエレンは家事のほとんどをなまえに丸投げで、家での勉強時間はほとんど取れない。でもあとちょっとの辛抱。晴れて大学に受かったら4月から一人暮らしをする予定でいる。
なまえは閑静な住宅街の一軒家の扉を、重い気持ちで開いた。

「おっせーよ! 早くメシ作って。もーおれ腹ペコ」
開口一番このセリフである。
(私は嫁でもないし、家政婦でもない)
そんな言葉がうっかり出そうになって、慌てて飲み込む。そして悪い人の常套手段とでもいうのだろうか。彼のご機嫌取りらしき行動は、これまたなまえの最も嫌う類のものだった。
「なまえ。そんな睨むなよ、な」
……出た。
憂いを帯びた表情で、流し目をしながら肩に腕を乗せてくる。密着しすぎだ。その上なまえの髪先をくるくると指で弄び始めた。
「ねー、なんでこんな髪サラサラなの? おんなじシャンプー使ってるのに」
「知らない。ご飯作るからちょっと離れて」
肩に乗せられたエレンの腕を、そっけなく振り払う。エレンはやれやれといった具合に目配せしてきた。いたずらっぽい表情というのは、こんなのを言うのかもしれない。一体何人こうやってたぶらかしているんだろう、となまえは思って、何度目かのため息をついた。


(2015.11.13)
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