中央に呼び出されるということが何を意味するのかを、ミケはよく知っているのだろう。そのタイミングでこの話だ。何か釘を刺したかったのかもしれない。ミケはあれで部下の面倒見は良いようだから。
次の壁外調査が内々に決定した。まだ公にはできない。
本決まりの通達が来たら、この兵団本部内は一気に慌しくなり、また殺気立ち、壁外調査ムード一色になってしまう。
この生温さにずっと酔っていられたらいいのに。誰も死なさず、誰も悲しまずに済む。
しかしそれでは調査兵団の存在意義がなくなってしまう。

「団長。親展文書です」
小さな封筒が一つ、なまえから手渡される。
「……ありがとう」
エルヴィンはお礼を言って受け取った。
開けようとするが、気が進まない。おそらくこれは中央からの決定通知だ。
「なまえ、今日は君の家に行ってもいいかな」
「! ちょ……、だんちょ……」
なまえが目を丸くして慌てているのは、まだ真昼間で、しかも職務中にエルヴィンがこんなことを言い出したからだろう。
「分かった。あとで返事を聞かせてくれ」
宥めるように言うと、書類に向き合った。さっき受け取った封筒はまだ封を切る気になれない。

新兵の頃は「死ぬこと」ばかりを考えていた気がする。それは恐怖もあったが、しっかり「覚悟」をしていた気がするのだ。
今はどうだろう。死はそこまで意識していない。でも確実に近くにあるのだ。
きっと鈍感になっている。いつ死んでもおかしくないのに。
なまえは違うのだろう。すぐそこにある死にとても敏感だ。怖がって、踏み出せないで隅っこにうずくまっている。

なまえからの許しが下り、二人は時間差で調査兵団本部を出ることになった。一緒に行こうというエルヴィンからの申し出を、なまえは頑なに拒絶した。きっと周囲に発覚するのを恐れているのだろう。正式に付き合っているわけでもなかった。
事前に場所を聞いていたなまえの家を訪ねた。
おいしそうな匂いがしている。
「今日はなまえの手作りか」
「あんなに頻繁に外食してたら太っちゃいますよ」
「家庭料理なんて久しぶりだ」
こんな食事は幼い頃に父を亡くして以来だった。覚えているのは兵舎の食堂の質素な味。壁外で食べる野戦糧食のよくわからない味。外食は不思議とどんなに美味しいものを食べても記憶に残らなかった。一緒に過ごした人とのやりとりの方が印象に残るからだろう。
なまえが作ったのは、このあたりの地方ではどの家でも作る家庭料理だ。スパイスの効いた、豆がメインの野菜がたっぷり入ったスープ、それから焼きたてのパン。メインディッシュは魚のムニエル。
「すごいな。これだけのものをすぐ作れるの?」
「スープは作り置きだし、あとは簡単に……」
「いただきます」
スープを口に運ぶ。優しい味はどこか懐かしく感じる。
テーブルの向かいになまえが座った。
「どう……ですか?」
「美味しいよ」
「よかった」
なまえは胸をなで下ろして、安心したように少し笑った。
その顔を見てエルヴィンも笑う。
なんでもない日常、こういうのが普通の幸せなんだ、と確信する。
エルヴィンがぺろりとたいらげてしまうと、なまえは驚いた顔をして、今度は思いっきり笑った。

「本当に美味しかった。俺は家庭というものに縁がなかったけれど、不思議と覚えているものなんだな。懐かしい味がした」
「そう、ですか」
さっきの素直な表情はどこへやら、なまえは顔を伏せてそっけない態度だった。照れ隠しなのかもしれない。
「俺は幸せだよ」
なまえと向き合う。抱き寄せて下を向いたなまえの顎に手をかけ、上を向かせた。
もう君のトラウマに向き合う時間はないけれど、幸せだった。
「なまえ?」
少し充血し、潤んだ瞳が見えた。なまえはエルヴィンの手を振り払って、また下を向いた。
「泣いてるのか?」
なまえはぶんぶんと思い切り首を振って否定した。いつもそう。嘘つきでたまらなく可愛い生き物だ。
確かめようと抱き寄せると、なまえの指が首筋にそっと触れる。
「えっ」
唇に感触。不意打ちで驚く間もなかった。一瞬で離れてしまう。
「今キス……した?」
「してな……」
否定の言葉を紡ごうとするなまえの口を、エルヴィンは塞いでしまう。予想通り、なまえの頬は涙で濡れていた。
彼女が壁外調査のことを知っているはずもないから、きっと別の理由で泣いている。

二人とも幸せになれるのはもう少しなのに、どうしてそうなれないのだろう。
明日にはきっと、二人をとりまく環境は変わってしまう。
今日という日はもう二度と来ない。
嘆きたいのに嘆くことすらできない。葛藤はほんの束の間、なまえの肌の温もりが忘れさせてくれた。


(2015.10.17)
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