内側の幸福論/2

 それから壁外調査の度に、彼が抱えるものの大きさを識ることになった。 


 幸か不幸か、互いに生き残って年を重ねるうちに、二人の関係も少しずつ変わっていった。共に過ごす時に共有するのは尖った興奮ばかりだったのが、気付けばだんだん角が取れて穏やかなものになっていった。


 何度も死線を潜り抜けるうちに、エルヴィンの怒りや悲しみ、ありとあらゆる感情は形を潜めてしまった。
 兵士として、団長として成熟してきた証なのかもしれないし、単なる慣れなのかもしれなかった。一番最初に見た完璧なエルヴィン団長が、どんどん完成されていくようだった。
 その一方で、私は弱くなっていった。この壁の外側も内側も不条理だらけで、それに対する怒りや悲しみは時を重ねる毎に濃く深くなってゆく。それを受容しきれずに不安定になっていくのを感じるのに、自分ではどうしようもなかった。
 死ぬまで第一線で戦おうと思っていたのに、エルヴィンはそうさせてくれなかった。なんとなく続いていた二人の道はここで別れるのだ、これまで彼が無情に切り捨ててきたものの中にとうとう自分も入るのだ、とぼんやりと覚悟したのを覚えている。
 半ば強引に内地に家を与えられてそこに移され、食べるのに困らない程度の仕事も得た。待っていたのは思いの外穏やかな日々で、エルヴィンと別れたことは辛いけれど、悪くもないと思っていた頃、彼は再び私の目の前に現れた。

 少しの間離れていた彼は、こんな顔をしていただろうか? 夕暮れの影を落とした彼の面差しは、随分やつれたように見えた。優しく微笑んでくれるのに、少し寂しそうにも見える。

「なまえ、会いたかったよ」

 エルヴィンが私を遠ざけたのは彼なりの優しさなのだと、その時理解した。きっと私も優しくできる、そう思ってエルヴィンに近付くと、ぎゅうっときつく抱きしめられた。
 もう何度抱かれたかも分からないのに、なぜだかすごく懐かしい匂いがした。

 それからエルヴィンは時々、私に会いにきた。
 曖昧な関係はそのままに、しかし、互いに向けるものは少しずつ変わっていったように思う。
 



 開放された身体を投げ出すと、滑らかな肌触りのシルクのリネンを脚が捉えた。無意識にひんやりとした部分を探り当てるように動かしていると、すぐに彼の脚が絡んでくる。
 エルヴィンは当たり前のように背中に密着して、私をまるで抱き枕かなにかのように扱った。首の下に滑り込ませた右腕できつく肩を抱きしめられ、自由な左手は身体のラインをなぞるように動かされる。

「なまえ……」

 名前を呼ばれるだけで、切ないような感慨を覚えるのは、明日彼がまた壁の外へと行ってしまうからだろう。

「そばにいて」
 
 エルヴィンは彼らしくない台詞を吐いて、甘えた目で見つめてくる。

「……もういるじゃない」

 なんてことない素振りを見せながら、不安でいっぱいで、彼に縋り付きたいのはこちらの方だった。

 一つ、また一つと年を重ねてきたことが奇跡のように思える。まるで今にも千切れそうな細い糸をたぐり寄せながら、小さな偶然と、大いなる幸運によってもたらされていたに違いない。
 明日、彼は生きているのだろうか?

「明日はエルヴィンの誕生日だね」
「ああ、またひとつ年を取ってしまう。その上壁外だ」

 ずっとここに居たい。
 エルヴィンはそう言った。それが真実にならないことを知っていた私はなにも言わなかった。
 すぐに目を伏せてしまった私を覗き込むようにして、エルヴィンは言った。

「もし帰ってこれたら、結婚しよう」



 突拍子もない彼の言葉に息が止まりそうになる。

「……どうして? 今までそんなこと言い出さなかったのに」
「どうしてだろうね。もう事実上は結婚しているようなものだし?」
「ただの腐れ縁でしょう」

 心臓がばくばくと鼓動を早めて、息苦しくなりそうだった。
 胸に広がる不安な気持ちをごまかすように、そっけなく返してしまった。そんな私を見て、彼は呆れたような、でも優しい表情を向けてくれた。

「でも、今言っておかなくてはと思ったんだ」

 微笑む彼の顔がだんだんと霞んでいく。
 あとからあとから流れる涙を、エルヴィンは頬を包むようにして拭ってくれた。

「返事は?」

 頬に手を当てられたまま、返事を促されて思わず首を振ってしまった。きっと涙と鼻水で酷い顔をしているはずだ。

「ずっと言えなかったことを言えたんだよ」
「……うん」

 嬉しい気持ちより不安のほうが上回っていることを告げたら、エルヴィンはどう思うのだろうか。「はい」と返事をしてしまえば、明日彼が居なくなってしまいそうで。
 涙が止まらずに口を噤む私に、エルヴィンは呆れたように言った。

「なまえが素直じゃないところは昔から変わらないな」
「あなたは変わったわ」
「また一つ年をとるからな。年を取ると丸くなると言うだろう」 
「そういう問題?」

 愉快そうに笑顔を向けるエルヴィンと目が合う。いつしか涙も止まっていた。

「いいよ、もう。なまえの気持ちは解ってる」
「自惚れないで」


 エルヴィンが私の方を向くのは、この僅かな時間だけなのだということはよく解っていた。
 いま名残惜しそうに甘えてきても、翌朝には無情に去ってしまうのだ。そしてここではないどこかを見ている。



 兵舎の資料室にあった本は、少しずつこの家の一室に移されていった。きっとこれは彼が追い求めているものそのもので、この壁の中では決して誰にも知られてはならないことだった。
 感情を殺しても、人間性を捨てたとすら言われても、彼が識りたいことは揺るがなかった。
 エルヴィンは何も変わっていなかった。

「大事なものは、誰にも見せずに隠しておきたい質なんだ」

 いつか、そう言って微かに笑ったエルヴィンの表情はいつもと少し違っていて、恐ろしく綺麗でどきりとした。
 




「必ず帰るよ」
「……ん、待ってる」

 エルヴィンが発つのは決まって夜明け前だった。
 私の頬にキスを落とすと、すぐに背を向けて行ってしまった。慌てて遠ざかる背中に声を掛ける。

「ね、帰ったらお祝いしよう。エルヴィンのバースデー」
「ああ」

 振り返った彼のその笑顔が眩しくて、愛しいのに悲しくなった。

 追いかけても決して距離の縮まらない月のように、どんなに傍に居ても彼が手に届くことはない。でも今はそのことを悲観するばかりでもなかった。
 そこに在るだけで、夜の街を明るく照らす月に、たとえ永久に届かなくても、恋い焦がれ続ける、そんな幸せを見つけたから。


(2014.10.13)

2014.10.14
エルヴィン団長お誕生日おめでとうございます。


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