内側の幸福論/1

 いつからか夜が来るのが怖くなった。
 深く吸い込まれそうなほどの闇が、まるで永遠に明けないかのように感じることも、この身体を包む大きくて温かな身体が、明くる日には離れてしまうことも。

 彼を識るほどに途方もない人だ、と驚いた。
 そしてそれは今も続いている。





 エルヴィンの第一印象、それは深い紺色の空にぽっかりと浮かぶ満月のような人だと思った。どこも欠けるところのない、光り輝く完璧な人だと。

 凛々しく勇ましい、完璧な団長として彼は現れた。
 例えば兵士として恵まれた逞しい体躯も、兵士に似つかわしくない、品の良い物腰も、目を引く容姿も。幹部兵らしい厳しさと真面目さも備え、なにより周囲を引っ張っていくカリスマ性があった。
 新兵の心を奪うのに、それは十分過ぎる材料だった。
 気付けば、この人の背中に付いていけばなにも恐れることはないのだと、命を投げ打っても惜しくないと思うほど彼に心酔してしまっていた。

 ところがエルヴィンはそんなに単純ではなかった。月がその姿を変えるように、日毎に違う姿を見せつけられて、彼の本当の姿を追い求めるうちに、いつしか逃れようもないほどの深みまで嵌まってしまっていた。





 エルヴィンが団長として兵団を率いて何度目かの壁外調査の後、いつもと同じか少し多い犠牲を出した。そんな日は心身ともに疲れきった団員達はいつもより早く眠りについた。
 まだ新兵だった私は、生き残ったことに安堵するよりも、巨人と相対したことや、仲間の死を目の当たりにしたこと、それになにより初めて壁外へ出てしまったことへの興奮がいつまでも身体の中で燻っていた。疲れているはずなのに目が冴えて、喉がカラカラに渇いた。水を飲もうとしんと静まる兵舎を抜けて食堂へ向かうと、その途中で扉の隙間から灯りが漏れている部屋を見つけた。普段は一般の兵士の入室は許されていない、資料室と称される部屋だった。

 興味本位で中を覗こうとしたとき、中から何かを激しく叩くような音が響くのが聞こえた。そっと扉を開いて中を窺うと、壁一面に並べられた本、まるで小さな図書室のようなその部屋に、エルヴィン団長の後ろ姿が見えた。右手は強く握られて、本棚に押し付けられている。ああ、彼が本棚を殴った音だったのだ、と思った。その大きな背中が少し震えているように見えた。
 早くここから立ち去らなくてはいけない、と思うのに脚が動かなかった。今思えばこれも怖いもの見たさで、そのとき団長がどんな顔をしているのかを知りたかっただけなのかもしれない。

「そこで何をしている?」

 こちらの気配に気付いたのか、彼がゆっくりと振り返る間に、感情で歪められた彼の顔が一瞬だけ掠めた。

「申し訳ありません。すごい音がしていたので、……気になって」
「ここへの入室は禁じられているはずだ。明日懲罰を言い渡すから覚えておくように」
「……たったこれだけのことで?」

 思わず言い返してしまったのは、壁外調査の後で、気持ちが大きくなっていたからに違いない。上官には絶対服従が大前提の兵団の中で、そのトップである彼にこんなことで逆らうのはあまりにも馬鹿げている。

「そうだ」

 少し距離を詰めた団長が、こちらを見下ろして冷たく言い放ったとき、彼の纏う空気がぴりぴりと震えるようだった。普段は物腰の柔らかい団長が殺気立っているのを本能的に察知した。
 しかしこうなったら一歩も引けない。再び言い返そうとしたが、それはできなかった。突然口を塞いだそれはエルヴィンの掌だった。間近に迫る彼の顔に、驚く余裕もなかった。

「……だが、ここで見たことを口外しないなら、見逃してやる」

 エルヴィンは耳元で囁きながら、私の身体ごと後ろの扉を閉めた。結果的にその扉に強く押し付けられることになり、身動きのとれないまま脚の間に彼の太腿が入り込んだ。

「興奮している。お前もなんだろう?」



 それがエルヴィンとの最初だった。
 彼はその時、少なくとも真っ当な人間ではなかった。それでも団長のそんな側面を目にしてしまったことが私の中の何かを容易に動かしていった。
 そっと手を伸ばして、エルヴィンの首に絡めると、彼は口の端を持ち上げた。まるでこうなることを見透かしていたかのように。

 この事実に尤もらしい理由を付けるとしたなら、互いの興奮を鎮めるためのセックス、などと言うのだろう。
 しかしただでさえ興奮していたところに、更に興奮が押し寄せることになって、これじゃ逆効果だろうと一方で冷静な頭が思ったものだった。
 素肌に直に触れる、エルヴィンの肌が妙に生々しかった。温かくて柔らかい肉の感触が、生きている人間に触れているのだと実感したことを覚えている。

 あの時、部屋の外で聞いた声、「また敗北だ」と彼は呟いたのだ。
 そもそも壁外調査は巨人との戦闘が目的ではないはずで、勝ち負けではないはずなのに、彼はそう言った。エルヴィンが一体何と戦っているのか、その頃の私には見当も付かなかった。
 エルヴィンは苦悩に満ちた表情を向けて、憤っているのか悲しんでいるのか解らなかったが、それも全部情欲のせいにして、私の中に吐き出した。


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